小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

夜だから「こんばんは」

2013年02月17日 01時55分26秒 | 日記
2010年5月11日(火)(2歳1か月)


 毎週火曜日の北野田ファミリーの時間が終わり、
帰る時に、春奈がファミリー会場である東文化会
館の受付のお姉さんに、

 「こんばんは」

と、挨拶をした。

 これは初めてのことだ。

 夜の挨拶は「こんばんは」だとわかっているのも
僕にとっては発見でもある。

 ところで、何時をもって「おはよう」から「こん
にちは」に変わるのか?

 何時で「こんにちは」から「こんばんは」に変わ
るのか?

 その辺りは、春奈はどうなんだろう?

 きっと今は漠然としている状態でそんなこと気にも
していないにちがいない。これからだ。

 この辺は興味がある。


 家に帰ると、また春奈が携帯電話で遊んでいる。

 「もしもし。うん。ママに代わるね」

 などと言うから、

 「誰から?」

と、みんたが相手をしてやると、

 「ちひろ君から」

と、答えた。

 ちひろ君とは同じファミリーの子で、春奈よりも年下で
ある。

 ここで自分よりも年下の子の名前を出すところが面白い。

 ここには何か理由があるのだろうか???

100 安曇氏と朝鮮半島

2013年02月17日 01時51分22秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生100 ―安曇氏と朝鮮半島―


 安曇氏と言えば大嘗祭における役割のことを外すわけにいき
ません。
 『延喜式』には次のように記されています。

 安曇宿禰火を吹く。内膳司、諸氏の伴造を率いて、各、その
職を供給して、御膳を料理す。

 内膳司は高橋氏が務めていましたが、神饌行立の際には、高
橋氏が鮑汁漬(あわびしるしち)を執り、安曇氏が海藻汁漬を
執りました。
 このように、安曇氏は大嘗祭の食膳を司る役目を担っていた
のです。

 そうすると、タカノヒメ伝承の背景に大嘗祭の采女がある、
とする井上辰夫の指摘が思い起こされます。
 ヒバスヒメ、タカノヒメ姉妹の父ミチノウシ王の母は、近江
の御上神社の祭神アメノミカゲ神の娘オキナガミズヨリヒメで
した。
 近江に拠点を持っていたというだけで、安曇氏とタカノヒメ
を結びつけるわけにはいきませんが、宮津市に、安曇氏と同じ
海人系の海部氏が斎く籠神社があることは無視できません。

 前にお話ししましたように、籠神社の祭神ははっきりしない
のですが、海部氏は尾張氏と同族で、ホアカリを始祖にしてい
ました。
 またタカノヒメ縁の竹野神社もアマテラスを祭神としている
のです。

 それから、播磨の揖保郡の粒坐天照神社と摂津の三島郡の新
屋坐天照御魂神社。
 各地にある天照の名を冠した神社の多くは日読みの地であり、
同時に製鉄に関わる人々が関係していますが、御上神社の祭神
であるアメノミカゲ神は天目一箇神(アメノマヒトツ神)と同
神であるといいます。
 アメノマヒトツ神は製鉄に関わる神とされていますが、京都
府舞鶴市の弥加宜神社(みかげ神社)では、アメノミカゲ神は
製鉄の神として祀られています。

またアメノミカゲ神は天津日子根命(アマツヒコネノミコト)
の子である、とも伝えられています。
 天の安河において、スサノオがアマテラスの玉から生み出し
た5柱の男神の1神です。ちなみにこの時に生まれた神の中に、
出雲国造の祖で、国譲りの際に出雲に降りたアメノホヒと、天
孫降臨で天下る予定だったアメノオシホミミがいます。
 なお、ホアカリはこのアメノオシホミミの子で、ホノニニギ
の兄にあたります。

 その一方で、アメノミカゲ神について、白鬚神の子火進命
(ホススミノミコト)の子とする伝承もあります。
 白鬚神を祀る神社も全国にありますが、総本山とされている
のは安曇川の流れる滋賀県高島市の白鬚神社です。
 高島市の白髭神社は、広島の厳島神社の鳥居と同様に、琵琶
湖の水の上に鳥居が立っていることで有名ですが、白鬚神は朝
鮮の神と考えられています。
  白鬚神は、朝鮮の神とされる白神、いわゆるオシラサマが
老翁の姿で現れたものと言われますが、一方、埼玉県日高市に
ある高麗神社(こま神社)の祭神白髭明神は、

 聖武天皇ノ天平二〇年高麗王薨ズ、即チソノ霊ヲマツリ高麗
明神ト崇ム。マタコレヲ大宮明神ト称フ。王薨ズル日、鬚髪共
ニ白シ。仍テ白髭明神トモ祭シ。

と伝えられ、白髭明神は高麗王のことで、亡くなった時に髪も
鬚も白かったので白髭明神と呼ばれるようになったというので
す。

 また、白髭は新羅である、とする説もあります。新羅(しら
ぎ)がシラキとなり、白髭になったとするものです。
 新羅が元になった名の神社は、福井県敦賀市の白城神社や、
石川県七尾市の白比古神社、京都府敦賀市の信露貴神社(しろ
き神社)などがありますが、いずれも日本海側にあることが重
要です。白比古神社の祭神はサルタヒコですが、かつては白髭
明神とも称されていたそうです。
 白城神社の祭神は、白木明神あるいは鵜羽明神で、新良貴
(しらき)氏の祖稲飯命(イナヒノミコト)であると言われて
います。

 イイイノミコトは、神武天皇の兄で、『古事記』では稲氷命
と表記されていますが、妣の国である海原に入った、と記され
ています。
 『日本書紀』では、トミビコに敗れた神武天皇一行が紀州に
向かう途中に暴風に遭い、それを鎮めるかたちで海に入り鋤持
神(サヒモチ神)になった、とあります。
 ここで思い出されるのが、スサノオが、「妣の国に行きたい」
と泣いていたこと、『日本書紀』の一伝に、スサノオが最初新
羅に降り立ったとあり、またスサノオがヤマタノオロチを斬っ
た剣が「韓鋤之剣(からさひの剣)」と伝えていることです。

 これらのことから、大和岩雄(『神社と古代民間祭祀』)は、
白髭神もまた海から来る神とし、

 各地の白髭神社のなかには、「客人(まろうど)明神」と呼
ばれるものがあるが、「シラ(再生の生命力)」は海の彼方か
ら来る神霊とみるのが、日本列島の海辺の民の観念であった。

と、説きます。

 安曇氏は志賀島にもいたとされ、むしろ志賀島が安曇氏発祥
の地ではないかとも言われ、対馬沖に沈んだ碇を磯武良が潜っ
て引き上げたという伝承もこれに関係しているとも言われるの
ですが、この地にいたことは、朝鮮半島とのルートを安曇氏が
持っていたことは十分考えられるのです。


・・・つづく