小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

赤ちゃんのお世話

2013年02月05日 01時29分41秒 | 日記
2010年4月28日(水)(2歳0か月)


 春奈が、赤ちゃん人形の口に自分の手をグリグリ
押しつけている。

 「何しとん?」

と、訊くと、

 「赤ちゃんにコハン」

と、春奈が答えた。

 「赤ちゃんにご飯あげてんのか?」

 「食パンあげてる」

 春奈もままごとを始めたか。

 と、言うか年下の世話をする、そういう行動を取る
段階に春奈も入ったのか。

 春奈に限らず他の子もだいたい2歳くらいになると、
赤ちゃんを見て、「赤ちゃん」と認識していたりする。

 この時分に、自分がもう赤ちゃんではない、との認識
を持つものなのなんだな、と改めて思った。


 春奈が、テーブルの上に置いてあるゆうきの宿題の
ノートをさわろうとするので、

 「あかんで。お姉ちゃんの勝手にさわったら」

と、止めた。

 すると、春奈が、

 「それお姉ちゃんのチュクダイ?がっこうの?」

 だいぶ色んなことがわかってきてるようだ。

95 竹野郡の天女

2013年02月05日 01時26分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生95 ―竹野郡の天女―


ところで、ヒコユムスミ命の子にオオツツキタリネノミコ(大筒木垂根王)
という名前が見え、またミチノウシ王の異母兄弟にもヤマシロノオオツツ
キマワカノミコ(山代之大筒木真若王)という名前が見えます。どちらも
筒木という名称が含まれた名前です。この筒木とは、京都の綴喜のことだ
ろうと考えられる名です。丹波に綴喜。共通する部分が重なります。

 と、なると、ミチノウシ王とヒコユムスミ命は、元々は同じ人物だった?
とも思えて来ますが、でも、やっぱり別々の人物だったのでしょう。
 それはふたりの名前から推測できます。
 ヒコユムスミとは、「ひこ・湯・産霊(むすび)」で、湯坐と生成の力を
思わせる名前です。しかもヒコユムスミの父親はユゴリ。こちらも「湯凝」
の意味に取れますので、やはり湯坐を連想させる名前です。つまりは親子と
もに神に仕える人を思わせるのです。
 一方のタニワノヒコタタスミチノウシ。こちらは「丹波の道の主」で支配
者を連想させる名前です。
 言わば支配者たる王と祭祀者のコンビです。ミチノウシ王とヒコユムスミ
命はそのような関係にあったのかもしれません。

しかし、もう一つ注目したいことがあります。ここにタカノヒメ(竹野比売)
という同名の人が登場していることです。日本書紀にミチノウシ王の娘とあ
る人と同一人物なのでしょうか?

 京丹後市丹後町に竹野神社という名の神社があります。アマテラスを祀る
神社なのですが、興味深いのはその社伝です。それによると、この神社は、
丹波の縣主由碁理の娘で、開化天皇の妃である竹野比売が年老いたため郷里
に戻って創建した、とあるのです。

 竹野神社の摂社に斎宮神社があり、ここの祭神は、竹野媛、建豊波豆羅和
気命(タケトヨハヅラワケノミコト)、日子坐王命(ヒコイマスオウノミコ
ト)となっています。
 タケトヨハズラワケは『古事記』の「開化記」に、

 また、葛城のタルミノスクネ(垂見宿禰)の娘ワシヒメ(鸇比売)を娶ら
れてお生まれになったのが、タケトヨハヅラワケ(建豊波豆羅和気)。

と、あり、ヒコユムミ命やヒコイマス王の異母兄弟にあたる人物なのですが、
その「開化記」には、丹波の竹野別の始祖と、記していますから(他にも道
守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、依網の阿毘古等の始祖と、あり
ます)、竹野郡に縁のある人物です。

 ここでのタカノヒメは巫女としての性格が見られるのですが、折口信夫
(「水の女」折口信夫全集第二巻収録)は、さらにタカノヒメ、『古事記』
ではマトノヒメとされる女性を、天女の羽衣伝承で読み解いています。

 天女の羽衣伝承というのは、「丹後国風土記逸文」や「近江国風土記逸
文」にみられるものです。

 「丹後国風土記逸文」には次のようにあります。

 丹後国風土記にいわく、丹後の国丹波郡。
郡家の西北の隅に比治(ひじ)の里あり。
この里の比治山の山頂に泉あり。その名を真奈井(まない)という。今では
沼になっている。
この泉に天女八人が降りてきて水浴びを始めた。
時に老夫婦がいた。名を和奈佐の老夫(わなさのおきな)、和奈佐の老婦
(わなさのおみな)という。
この老夫婦は泉に来ると、天女ひとりの衣裳を取って隠してしまった。
水浴びを終えた天女たちは衣裳をまとって天に飛び去って行ったが、衣裳を
隠された天女だけは飛び立つことができず、身を水に隠してひとり恥じ入っ
ていた。
そこへ老夫が現れて、
「吾には子がいない。願わくば天女よ、汝、われらの子となりたまえ」
と、言った。
 それに対し、天女は、
 「私ひとり人の世に留まってどうして従わずにおれましょう。願わくば
衣裳を返してください」
と、頼んだが、老夫は、
 「そんなことを言って、衣裳を返したとたんに天に帰っていってしまう
つもりだろう」
と、疑って衣裳を返さなかった。
 「すべての天人は信をもって本となします。何卒お疑いなさらず衣裳を
お返しください」
と、天女は言ったが、老夫は、
 「疑い多く信なきは人の常である。そう思ってあきらめられよ」
と、答えた。
 仕方なく天女は老夫婦の養女として同じ屋根の下に暮しはじめて10数年
がすぎた。
 その間、天女は酒を造った。この酒は一杯飲めば万病が治癒するもので、
おかげで老夫婦は莫大な財を手にし、土形(ひじかた=意味は不明。)富め
る身となった。それでこの地を土形の里という。
 財産を手にした老夫婦は、
 「汝はわれらの子にはあらず。しばらくの間だけ仮に暮していただけのこ
と。早く出て行け」
と、追い出してしまった。
 天女は、
 「私は自分から願って来たのではありません。あなたたちが願ったことで
はありませんか。そのような悪心を起こさずに。あまりに酷いとは思いませ
んか」
と、哀願したが、老夫婦は天女を家から追い出してしまった。
 天女は涙を流しながら老夫婦の家を去ると、郷の人に、
 「長い間、人の世に沈んで天に帰ることもできず。頼れる人もおらず、私
はどうすればよいと言うのでしょう」
と、言うと、涙を拭いて嘆き、天を仰いで歌った。

 天の原 ふりさけ見れば 霞たち 家路まどいて 行方しらずも

 天女は里を出ると、荒塩の村にやって来た。
 ここの村人に、
 「老夫婦の心を思えば私の心は荒潮(荒れる海)のようです」
と、語ったので荒塩の村というようになった。
 次に丹波の哭木(なきき)の村にやって来て、槻の木によりかかって泣い
た。それで哭木の村というようになった。
 また、竹野郡船木の里の奈具(なぐ)の村にやって来て、ここの村人に、
 「この地に来て私の心もなぐしくなりました(穏やかになりました)」
と、言って、この地に留まった。
 この天女は、竹野郡の奈具神社に坐す豊宇賀能比売命(トヨウカノヒメ
ノミコト)である。


・・・つづく