小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

春奈からの電話

2012年10月21日 22時58分26秒 | 日記
2009年11月26日(木)(1歳7か月)


 仕事中に、また春奈から電話がかかって来た。

 また、というのは、その言葉どおり、何度か仕事中に春奈
から電話がかかってくることがあたからだ。

 みんたの携帯を勝手にいじって履歴から僕に電話をかけて
くるようだ。

 今回も電話と取ると春奈だった。けれど・・・

 「パパ?」

 その声に、一瞬ゆうきかと思った。

 それくらいよく声がゆうきに似ていた。

 電話の声は家族だとよく似て聞こえる。親子や兄弟だと実に
そっくりに聞こえる。

 これは、電話が、声を電気に変えてまた音に変換する仕組み
のために、音に変換した時に余分なものを削ぎ取ってしまうせ
いらしい。

 声帯から出る本来の「音」が出てしまうんだそうだ。

 だから、いくら声を変えても、音声解析をすれば同一人物の
声だとすぐに分かるもんだそうだ。

 それじゃあ。日本語を基準にした場合、中国語やフランス語の
発音はかなり特徴のあることばなのだけど、元は同じ声帯から出
される音だ。

 聞いた分には「ちがう言葉」でも、根本は同じ「言葉」だとい
うことなのかねえ?

31 多神社の祭祀

2012年10月21日 22時54分32秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生31 ―多神社の祭祀―


 多神社の祭神はカムヤイミミノミコト(神八井耳命)とされています。
神武天皇の皇子です。
しかし、『延喜式』に「多坐弥志理津比古神社二座」と、記されており、
多神社は多坐弥志理津比古神社という名称であり、そのことから大和岩雄
(『神社と古代王権祭祀』)は、多神社の祭神がミシリツヒコであったと
します。
この大和岩雄説を簡単にまとめますと、

「二座」とあるのは、ミシリツヒコとミシリツヒメの2神である。
『多神宮注進状』には、祭神はウツノミコサカツヒコ(珍子賢津日霊神尊)
とアマツヲヤサカツヒメ(天祖賢津日女神尊)で、ウツヒコとはアメノオ
シホミミノミコト(天忍穂耳命)のこと、とあり、またアマツヲヤサカツ
ヒメについても、社伝「社司多神命秘伝」にはアマサカルムカツヒメノミ
コト(天疎向津姫命)のことで春日部座高座の天照大神と同体異名、とし
ている。
(註:ここでいう、春日部座高座とは、大阪府八尾市の天照大神高座神社
のことです。また、アメノオシホミミはアマテラスの子です。)
 天疎向津姫命は、天疎向津媛であり、『日本書紀』では、神功皇后に神
がかりしたアマテラスの和魂である。
 そうしたことから、多神社の祭神2神は夫婦神ではなく母子神なのである。
 多神社のヒメ神がアマテラスの和魂とするのは、「天照大神」を宮中よ
り遷した笠縫邑が当社付近(近鉄橿原線笠縫駅周辺)であることと関連する。
 それでは、ミシリツヒメの夫神、ミシリツヒコの父神はどこにいるのか?
 それは、当社の位置から見て三輪山の神であろう。
 多神社から見て三輪山は東にあり朝日の昇る方角である。春分・秋分の朝
日は当社から見て三輪山の山頂のやや右側から昇る。山頂から昇る春分・秋
分の朝日を拝する位置は多郷の味間にある須賀神社である。広義にとらえる
と、多の地から拝することができるということになる。
 三輪山は、海を照らして依り来る神が坐す山である。そのことは『古事記』
にも『日本書紀』にも記されている。この「海照(あまてる)」の神は天照
御魂神である。


 伊勢の天照大御神が初めから日神だったわけではなかった、とする見解は
戦後になってから多くの研究者から出されてきました。『日本書紀』ではア
マテラスオオミカミとは書かずにオオヒルメ(大日女)と書いており、この
オオヒルメが日神の巫女で妻である、と考えられるのです。
 ところで、多神社の付近には十市御縣坐神社があり、ここは十市縣の置か
れた地に比定されているのですが、この神社の祭神は豊受大神なのです。
 このことは、伊勢神宮が、外宮が豊受大御神を祀り内宮が天照大御神を祀っ
ているのを連想させます。

 さらには、この多神社がある種特別な存在であることを伺わせることがあ
ります。
 『日本書紀』に登場したエピソード、すなわち、天照大神と倭大国魂神を
天皇の大殿にて祀っていたのを、天照大神を笠縫邑に移してトヨスキイリヒ
メノミコト(豊鍬入姫命)に祀らせ、ヤマトノクニタマ神をヌナキイリヒメ
ノミコト(渟名城入姫命)に祀らせることにしたものの、うまくいかずイチ
シノナガオチに倭大国魂神を祀らせたが、それでもうまくいかず、最終的に
はオオモノヌシのお告げにより、オオタタネコにオオモノヌシを祀らせるこ
とで天下は治まった、という話です。

 つまり、ここで祀られる神々と祭祀氏族は、

多神社-天照大神-太氏
大倭国魂神社-倭大国魂神-倭氏
大神神社-大物主神-三輪氏

と、なります。太氏の「太」や多神社の「多」は、ともに音を表す文字です
から、どちらも「おお」、すなわり「大」を意味します。
 そうすると、大倭国魂、大神がともに美称として「大」が頭に付くのに対
して多神社、すなわち「大神社」のみが名を表す「大」になるのです。

 大神神社の南の高宮垣内に神坐日向神社(みわにますひむかい神社)が、
三輪山山頂には高宮神社が鎮座しますが、大神神社では、これは逆であり、
三輪山山頂にあるのが日向神社、高宮にあるのが高宮神社としているそう
です。
 それでは、どうして三輪山頂にある神社が高宮神社にされてしまったの
か、といいますと、明治以降の行政の考え方として、国つ神の坐す三輪山の
山頂に天つ神である日神が祀られているはずがないから、となるわけです。

 ですが、アマテラス信仰の誕生以前のオオモノヌシが太陽神であったなら
ばこの矛盾は消え去ります。なぜなら、それ以前には天つ神・国つ神の区別
などなかったのですから。

 少し脱線しかけましたが、多神社が「大」を名に持つ神社であり、特別な
存在だとすればその理由が何なのか、ということになりますね。
 それには太氏の祖先伝承が影響します。
 太氏はオオモノヌシの子孫ではありますが、直接の始祖はカムヤイミミに
なります。カムヤイミミは神武天皇と、オオモノヌシの娘イスケヨリヒメと
の間に生まれた皇子ですが、多神社の祭神にあてはめますと、イスケヨリヒ
メとカムヤイミミに当てはまるのです。
 イスケヨリヒメは玉依姫です。
 さらに太安万侶が編纂した『古事記』には、もう1つの大物主の神婚譚とし
て、イクタマヨリビメの伝承を載せています。
 このイクタマヨリビメが生んだ子の子孫が、大神神社の祭祀を行うオオタ
タネコです。

・・・つづく

その質問がわからん

2012年10月21日 01時40分21秒 | 日記
2009年11月20日(金)(1歳7か月)


 春奈が僕に話しかけてきた。

 「パパ、ばぶばぶばぶーやんな?」

 初めて「やんな」を聞いた。
 関西弁も進化中である。

 けど、一体何を質問してるんや?わからん。

 何が「ばぶばぶばぶー」なんだ?

 春奈にはそれがそんな音に聞こえたのか?

 それとも、大人が、名称を忘れた時に「なんとかかんとか」などと
言ったりするようなものなのか?


2009年11月22日(日)(1歳7か月)


 ちょっとした用があって、実家に行くのに春奈もつれて行った。

 用を済ませ、そのまま実家で昼寝しようとすると、

 「パパ、おきて」

と、春奈が体をゆすってきた。

 無慈悲なヤツだ。家じゃあゴロ寝もしづらいから、せっかくこ
の機会に昼寝しようと思ったのに。

 あ、そう言えばそ前にも、ゆうきやりえが寝てしまったときに
起こそうとしたことが何度かあったけど、その時は体をポンポン
たたいて名前を呼ぶだけだったな。

 「起きて」と言ったのは今回が初めてじゃなかろうか。

30 玉依姫と三輪山の太陽神

2012年10月21日 01時27分39秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生30 ―玉依姫と三輪山の太陽神―


 前回にいくつかの神婚譚を紹介しましたが、参考として付け加えますのは、
『播磨国風土記』の託賀郡の項に登場する伝承です。このエピソードは「山
城国風土記逸文」とよく似た話なのです。


 ここに坐す神、ミチヌシヒメノミコト(道主日女命)は、夫なしに子を生
んだ。
盟酒(呪術的なことに用いる酒のこと)を造るための田を作った。
 田は七日七夜のうちに成熟し、女神はそれで酒を造ると、諸々の神を集め、
わが子に「父神にこのお酒を捧げなさい」と言った。すると、その子は、ア
メノマヒトツノミコト(天目一命)に向かって酒を捧げた。
 その後、この田は荒れてしまったので、この地を荒田と呼ぶようになった。


 以上のように、いろいろな神婚譚を並べてみますと、それぞれに共通点が
見られます。そこから考えられることは、これらの神婚譚が決してその氏族
や神の信仰のオリジナルではなくて広く伝えられていた話が独自に変化して
いったものだろう、ということです。
 『古事記』の三輪氏と鴨氏の祖先伝承ではオオモノヌシの子を宿す女性は
イクタマヨリビメ(活玉依毘売)といいますが、「山城国風土記逸文」の鴨
氏の祖先伝承ではホノイカヅチの子を宿す女性の名はタマヨリヒメ(玉依日
売)です。
 また、『古事記』では、天孫降臨で日向に降り立ったニギハヤヒの子ホヲ
リの命は、トヨタマビメ(豊玉毘売)を妻にしてウガヤフキアエズの命を生
みますが、ウガヤフキアエズは、母トヨタマビメの妹タマヨリビメ(玉依毘
売)を妻にして神武天皇を生みます。
 これらの女性たちや女神たちはみな「タマヨリビメ」であったり「タマビ
メ」なのです。
 柳田國男の「玉依姫考」(「妹の力」『定本柳田國男集第九巻』収録)は、
タマヨリビメ(玉依姫)は巫女であると同時に姫神であった、とします。「タ
マ」は神の霊で「ヨル」は人間に憑くことと説明し、神の分霊を実体化して
出現させる女性は人よりも神に近い存在である、としています。
 しかし、「山城国風土記逸文」のタマヨリヒメが生んだ子の父神が天つ神
であり、『古事記』のタマヨリビメが生んだ子の父神は天孫の子(アマテラ
スのひ孫になります)でした。
 そういう意味では、『古事記』「崇神記」のイクタマヨリビメが生んだ子
の父神みが、国つ神だったことになります。
 では、玉依姫の夫たる神は天つ神に限られたことではないのでしょうか?
 それとも、国つ神の中でもオオモノヌシだけが特別な神なのでしょうか?
 特別と言えば、たしかにオオモノヌシには特別性を感じさせる面があります。
 『日本書紀』にはオオクニヌシの国譲りのところで異伝を載せているのです
が、それによれば、オオクニヌシ(『日本書紀』ではオオナムチ)が国譲りを
了承した後も、オオモノヌシとコトシロヌシの2神は高天の原の神々に帰順し
なかったため、カミムスヒの神が、オオモノヌシに、
 「わが娘ミホツヒメ(三穂津姫)を汝の妻にいたそう。八百万の神々を率い
て永遠に皇孫のために護り奉れ」
と、言った、ということです。

 また、出雲国造の神賀詞でも、


 オオナモチは、自分の和魂を、大物主くしみたまの命と名を添えて大和の
大三輪の神奈備に坐せ、子のアジスキタカヒコネの命の御魂を葛城の鴨の神奈
備に坐せ、コトシロヌシの命の御魂を宇奈堤に坐せ、カヤナルミの命の御魂を
飛鳥の神奈備に坐せ、自らは皇室の守り神とならんと、杵築の宮に静まった。


と、あり、アジスキタカヒコネやコトシロヌシ、カヤナルミの命といった大和
の神々がオオクニヌシの子であるとしながら、同じ大和の神でもオオモノヌシ
だけは、オオクニヌシの分身としているのです。

 これらの特別性はどこから来るのでしょうか?
 それに対する答えの一つとして、オオモノヌシがどのような神かを考える時
に「日神であった」とする説あることが挙げられるでしょう。

 皇室が伊勢の天照大御神を信仰する以前は三輪山のオオクニヌシが太陽神と
して信仰されていた、とする説があります。
 たしかに、大和政権がまだ大和の内だけでしか勢力圏を持っていなかった頃
は、三輪山が朝日の昇る地であったことになります。
 そもそも三輪の地における権力者の歴史は古く、3世紀後半には箸墓古墳に
代表される巨大古墳の築造が始まりました。3世紀で巨大古墳といえば、三輪
の他には京都府南部と摂津の旧三島郡に築造されたくらいのものなのです。
4世紀の中頃になって奈良市の佐紀古墳群の築造が始まり、続いて葛城の馬見
古墳群の築造が始まりました。大阪府に代表される堺市の百舌鳥古墳群と南河
内の古市羽曳野古墳群はともに4世紀後半になってから築造が始まっているの
です。
で、その三輪山の位置なのですが、前にお話ししたが、奈良県磯城郡田原本町
八尾に鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたま神社。ここの
御神体である鏡と同じものが愛知県犬山市の東の宮古墳から出土しました。)
があり、同じく磯城郡三宅町石見にも鏡作坐天照御魂神社があるのですが、
石見の神社から冬至の時に三輪山を見ると、三輪山頂から朝日が昇るのです。
鏡作坐天照御魂神社と三輪山、畝傍山を結ぶと一辺が9キロの正三角形になり、
畝傍屋から夏至の時に三輪山を見ますと、三輪山頂から朝日が昇るのです。
さらに、鏡作坐天照御魂神社と畝傍山を結ぶ直線の中央には、太安万侶の太氏
が祀る太神社あり、ここから春分・秋分の時に三輪山を見ますと、三輪山頂か
ら朝日が昇るのです。(実際には山頂のやや右側)

・・・つづく