小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

これって幸せ者

2012年10月28日 02時35分57秒 | 日記
2009年12月13日(日)(1歳8か月)


 今日はヒッポの関西本部にて、関西お父さんワークショップ
があるので本部に行った。春奈も一緒である。

 いろんな人から春奈のことを、

 「いっぱい喋るねー」

とか、

 「意味をもった言葉をたくさん喋るよね」

などと言われる。
 一緒にいて、毎日言葉の成長を見ている僕には日々の変化が
わかるけど、他の人は久しぶりに会ったわけだから、春奈の言
葉の成長は、すごいなあ、と思えるのだろう。

 まあ、これは身体の成長と同じことなんだろうね。

 ヒッポファミリークラブは多言語の自然習得をしているわけ
だけど、同じ言葉をやるにしても従来の外国語学習がステップ
の積み重ねなのに対して、ヒッポの場合は、自然、つまりは赤
ん坊が言葉を話せるようになっていく過程とまったく同じ過程
でいろんな言語が話せるようになっていく。

 だから、みんなも春奈の言葉の成長に目が行くのだろう。

 春奈は体の成長だけでなく、言葉の成長もたくさんの人に見
守ってもらっているのだねえ。

 これって、春奈幸せ者ってことだよ?

36 大阪府南部の鳥取の伝承

2012年10月28日 02時31分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生36 ―大阪府南部の鳥取の伝承―


 陶邑窯跡群はかなりの方範囲にわたる遺跡なのですが、これの北側に位置
する堺市中区土師町は、土師氏がいたところだと考えられています。
 土師氏については第16回「野見宿禰の伝承」でもお話ししましたように、
倭大国魂神の祭祀を任されたイチシノナガオチが、当麻蹴速と対決させるた
めに、出雲から連れてきた野見宿禰の子孫です。

 坂本氏の和泉市における拠点は、陶邑窯跡群の西に位置しますが、さらに
西に行くと、和泉市と泉大津市の境界に池上曽根遺跡があります。これは弥
生時代の集落跡で現在は史跡公園になっていますが、この地に曽根神社があ
ります。ここの祭神は、物部氏や穂積氏の始祖であるニギハヤヒと、穂積氏
の祖イカガシコオです。
このように、陶邑窯跡群の西にあるのが坂本氏の拠点と曽根神社であれば、
陶邑窯跡群の南に位置するところには、摩湯山古墳と土生神社があります。
摩湯山古墳は岸和田市摩湯町にある全長200メートルの巨大前方後円墳で、
古墳時代前期に造られたと推測されますが、被葬者についてはわかっていま
せん。
 土生神社は摩湯山古墳よりさらに南に行ったところに位置する岸和田市土
生町にある神社で、菅原道真、すなわち天神様を祀る神社ですが、元はオオ
クニヌシの国譲り神話で高天の原側の使者となったタケミカヅチ、フツヌシ
を祀る神社だったようです。このタケミカヅチも物部氏の祭祀する神です。
 その他にも、岸和田市中井町にある式内社夜擬神社の祭神は、やはり物部
氏と関係の深い布留(ふる)の名を持つ布留多摩神です。
 何よりも、国道26号を岸和田市から下って貝塚市に入ってすぐのところに、
式内社阿理莫神社(ありまか神社)が鎮座しますが、ここもまた物部氏と関
係の深い地なのです。
 物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされた時、物部守屋の邸宅を守っていたのが
捕鳥部万(ととりべのよろず)でした。『日本書紀』には捕鳥部と書かれて
いますが、捕鳥部は鳥取部とも書かれます。戦いが物部側の敗北に終わった
後、万は茅渟の県の有真香邑(ありまかむら)に逃れてさらに抵抗した、と
『日本書紀』には記されています。有真香邑は、現在阿理莫神社のある貝塚
市久保の地だけでなく、岸和田市の南部にも有真香村があり(昭和15年に岸
和田市に編入。現在の八田町、土生滝町、阿間河滝町、真上町)、こちらを
有真香邑とする説もあります。
 ともかく、有真香邑に万が逃げてきたのは、この地が物部氏に関係する地
であったからであることは間違いないでしょう。
 さらに興味深いのは、『古事記』の「垂仁記」に載る、イニシキノイリヒ
コの命(印色入日子命)でしょう。
 イニシキイリヒコは、垂仁天皇とヒバスヒメとの間に生まれた皇子です。
ヒバスヒメについてはこれまでに何度となく登場しましたが、サホビコの乱
で皇后を亡くした垂仁天皇が新たな皇后として迎えた女性で、ヒバスヒメが
亡くなった時に出雲の野見宿禰が殉死の代わりに埴輪を作ったことが『日本
書紀』に記されています。
 『古事記』では、イニシキイリヒコは「鳥取の河上宮にして横刀(たち)
1千振を作らせてこれを石上神社に治め奉り」とありますが、天皇ではない人
の住居に「宮」の称号を与えているのは珍しいことなのです。
 この鳥取は、大阪府阪南市の鳥取に比定されていますが、イニシキイリヒコ
は剣を1千振も作らせて奈良県の石上神社に奉納させたというのです。石上神社
には武器庫があり、これの管理をしていたのが物部氏だったのです。石上神社
は布留の社とも呼ばれます。

 しかし、捕鳥部(鳥取部)万にしても、イニシキイリヒコがいた鳥取にして
も、南大阪に鳥取が関係していることは無視できません。

 鳥取部は、出雲を訪ねたホムチワケが言葉を話すようになったことに喜んだ
垂仁天皇が設置しことになっており、出雲訪問以前に、白鳥を見てホムチワケ
が何やら言葉らしきものを口にしたことでオオタカが白鳥を捕らえるよう命じ
られ、紀伊から播磨へと追いかけて行った、とあります。
 出雲と深く関係するホムチワケ伝承が物部氏の拠点にも存在していたと考え
るべきではないでしょうか。

 昭和59年(1984年)、出雲の岡田山1号墳から「額田部臣」鉄剣が発見された
その同じ年に、出雲の荒神谷遺跡から358本もの銅剣が発見されました。
 この出雲で大量に生産された銅剣と、イニシキイリヒコが剣1千振を作らせ
て石上神社に奉納したことに関連があるのかどうかはわかりませんが、『日本
書紀』にある、イイイリネが出雲の神宝を朝廷に差し出したことに使者となっ
たのが物部氏の一族である武諸隅(タケモロスミ)でした。
 大和政権は全国の豪族たちの所有する神宝を集め石上神社にて保管しました。
豪族たちのレガリア(神璽)を取り上げることで、そのカリスマ性を奪い、か
つ天皇が各豪族たちの祀る神の祭祀権を得る形を取ったわけです。
 この神宝庫の管理もまた物部氏がしていたといわれています。

 ここからは少し余談になりますが。
 僕がまだ学生だった頃、今は亡き松前健先生と奈良県の山辺の道を散策した
ことがありました。途中石上神社に立ち寄った時、松前先生は石上神社の宮司
さんとは旧知の間柄で、僕に、
 「この方は物部氏の御子孫なのですよ」
と、紹介してくださいました。
 その頃僕は勉強不足で、「物部氏は曽我氏に滅ぼされたはずでは?」と思っ
たのですが、松前先生は、物部氏には軍事に携わる一族と祭祀に携わる一族が
あり、この2つの物部氏は本来別系のものであり、また蘇我氏に滅ぼされたのは
軍事の方の物部氏なのだ、と教えてくださいました。


 さて、大阪府における物部氏たちのお話はここまでです。
 次回からは、オオクニヌシの陽と陰について見ていきたいと思います。


・・・つづく