小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

すべり台あっかい

2012年10月23日 00時27分15秒 | 日記
2009年11月29日(日)(1歳7か月)


 家族5人で大泉緑地に行った。堺市を代表する公園のひとつ
である。

 去年の秋も家族みんなで来たっけな、と思ってこの春奈の
日記を見てみると、去年の11月15日のことだった。

 僕の人生、春奈が生まれるまで日記なんぞつけたことがな
かったから、日記というものはこんなことにも役立つのか
と新しい発見をした。

 去年来た時は、春奈は大泉緑地の羊に全然関心を示さなかっ
た。今年はどうかな?と思ってつれていってみる。

 すると、羊がそばまで近づいてくると、メチャクチャ怖がる。
 春奈、意外にビビリか?
 

 今度は大泉緑地内にある巨大すべり台に挑戦させてみる。

 と、言ってもひとりですべらせるには危険なので僕が膝に
乗せて一緒にすべる。
 (註・これをするとスピードが出て危険なのでしないでくだ
さい、と注意書きには書かれていた)

 さて、春奈はびびるか!?と、興味津津ですべってみると、
春奈が、

 「あっかい(もう1回)」

と、言う。またすべる。

 また、

 「あっかい」

と、言う。 

 巨大すべり台の上まで春奈を抱えて何度も登るのはメチャク
チャきつい・・・。

 春奈は大きくなったら絶叫系マシンが好きになるタイプか?
それともスピード狂なのか?

32 陶器と神話

2012年10月23日 00時21分00秒 | 日記
大国主の誕生32 ―陶器と神話―


 オオタタネコは、『古事記』では、意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子
と表記されていますが、『古事記』では、河内の美努村(みの村)の人とあり、
『日本書紀』では茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑の人とあります。チヌというのは
クロダイのことです。今でも明石の鯛は有名ですが、この時代、大阪湾にはチヌが
たくさんいたので茅渟の海とよばれていました。茅渟県は、大阪府の旧泉北郡を指
します。
 堺市南区から和泉市にかけて、陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん、とうゆうと
うせきぐん)があり、陶器を焼く窯跡が広範囲に発見されました。
 河内の美努村については、八尾市の御野縣主神社周辺とする説もあります。この
辺りは、美努連(みぬのむらじ)や三野縣主(みののあがたぬし)一族の拠点だっ
たところですが、陶邑窯跡群の北にあるオオタタネコゆかりの陶荒田神社周辺には
見野という地名が残されていますから、オオタタネコは堺市中区から南区のあたり
にいた人ではなかったでしょうか。(陶荒田神社は堺市中区にありますが、南区と
接するような地にあり、陶邑窯跡群に隣接しています)

 ところで、この陶邑窯跡群から出土した須恵器(すえき)が大神神社の祭祀に使
用されていたことが重要なのです。
 このことは、記紀の伝承がある程度の歴史的事実を伝えていることを証明します。
ある程度、というのは、朝鮮半島から須恵器が伝わったのが6世紀頃と考えられ、
崇神朝の時代より後に時代になるからなのです。
 と、ここで蛇足ながら説明させていただきますと、須恵器と土器の違いは窯で焼
くかどうかです。
 縄文式土器や弥生式土器は、土で形を作ると、それを直接火で焼き上げます(素
焼き)。それに対して須恵器や陶器は、窯で焼き上げます。
 古墳時代には、素焼きの土師器(はじき)が主流でした。と、言うより、須恵器
は火に当てると割れてしまうため、煮炊きには使用できなかったのです。ですから、
須恵器は神へのお供え用の器として使用されていたました。


 さて、陶器といえば、藤村由加(『古事記の暗号』)の、オオクニヌシと陶器の
興味深い説があります。
 オオクニヌシの、稲羽の素莵(しろうさぎ)の伝承は、赤裸のうさぎを赤土に例
えられるとします。うさぎの持つ「跳ねる」のイメージは弾力のある赤土をあらわ
し、うさぎを真水で洗い蒲の花粉を塗るというのは、陶器にする土は、海水の混じっ
ていないものに限り、不純物を取り除き真水を加えながら漉す、という。さらには、
メキシコなどでは陶芸の土に蒲の穂を混ぜることなども紹介しています。
 また、オオクニヌシ自身にも陶芸の要素がある、と藤村由加は説きます。
 オオクニヌシ=オオナムチが八十神たちの罠にはまって焼け死んだ後、サキガイ
ヒメが貝殻を集めてそれを砕き、ウムギヒメがそれに母乳を混ぜて、焼けただれた
オオナムチの体に塗るとたちまち立派な男神となって復活したというエピソードは、
陶器づくりにおける生土の器を高熱で固く焼き締め、釉薬(ゆうやく)を塗る作業
をトレースしている、というものです。
 実際、これは藤村由加も指摘していることなのですが、『播磨国風土記』には、
オオナムチが担いでいる袋の中身は土であったことが書かれているのです。

 このように、オオタタネコと陶邑がオオモノヌシとつながっているのに対して、
そのオオモノヌシと同神と『日本書紀』ではされているオオクニヌシにも陶器づく
りを彷彿させる伝承があるのをただの偶然と片づけてよいのか、と考えさせられま
す。

 しかし、大阪の陶邑で製造された須恵器がどうして奈良の大神神社の祭祀に使用
されたのでしょうか?
 前にお話ししましたが、三輪山(御諸山)のふもとには渡来人たちが住まわされ
ていました。百済王族の余豊璋が三輪山のふもとで養蜂に取り組んだ話もあります。
 須恵器は朝鮮半島から伝わったものですから、陶邑の職人たちも渡来人であった
と考えられるのです。

 さて、この渡来人といえば、これまでにも何度か登場しました。その代表が秦氏
でした。ところが、大国主神話の誕生を探る上で、渡来人の存在は決して見逃すこ
とのできないものなのです。