小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

春奈という名前

2012年10月12日 02時23分28秒 | 日記
2009年10月29日(木)(1歳6か月)


 くまのヌイグルミを抱きながら、

 「くま、かわいい」

と、春奈が言った。

 熊を認識したことと、何かをかわいいと評したのは初めてだ。
 二重の発見。

 だけども、だんだんと赤ちゃんから子どもになっていくこと
が、なぜかさびしい。


2009年10月30日(金)(1歳7か月)


 歌手の舟木一夫は、最初もらった芸名が「舟木和夫」だったそ
うだ。
 それを本人が「舟木一夫」だと左右対称になるのでこっちにし
たい、と言ってそうさせてもらったとか。

 先日、春奈が左右対称であることに気づいた。苗字も含めて
フルネームで左右対称なのである。

 これはまったく意識したものじゃなかった。偶然である。だい
たい、春奈と命名したのはゆうきとりえだ。
 僕は「言葉(ことは)」にしようとしたけど、ゆうきとりえに
却下された。せっかくヒッポのフェロウの娘に生まれたのだから
「言葉」にしたかった。

 『麻雀放浪記』を書いた作家阿佐田哲也のこのペンネームは、
「朝だ徹夜」から取ったそうだ。

 『デスノート』、『バクマン』の原作者で知られる大場つぐみ
という人の正体は『とってもラッキーマン』を描いた漫画家ガモ
ウひろしだと言われているけど、ガモウひろしは『とってもラッ
キーマン』以降、週刊少年ジャンプに連載した作品がことごとく
短期打ち切りになり、週刊少年ジャンプではそんな漫画家のこと
を「×(バツ)組」と呼ぶことから、
 「じゃあオレは大×組だ」
ということで大場つぐみという名前で原作者になった、といわれ
ている。

 あと、作家の開高健。こちらは本名らしいけど(よく知らない)、
ある時、人から「かいたかけん」と間違えられた挙句に、
 「それって、『書いた書けん』って意味のペンネームですか?」
と言われてドキッとしたそうだ。

 どうも僕はそういうエピソードが好きで、わが子の名前も何か
にちなんで・・・と企んでいたけど、「春奈」になった。
 ひねりがない。つまらない。

 そんな春奈、今日で満1歳7か月。


22 蚕(かいこ)と渡来人

2012年10月12日 02時19分48秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生㉒ ―蚕(カイコ)と渡来人―


 鴨氏は水取部で、これは天皇に清水を献上したり、氷室の管理などを職務に
する、と前にお話ししたことがありますが、旧桑田郡にも氷室が置かれていま
した。
 南丹市八木町氷所がそれに比定されていて、この八木町氷所には現在、氷室
の郷という農村環境公園が造られています。

 それから、亀岡市の湯の山温泉の近くにある宮川神社は、式内社の神野神社
に比定されていますが、ここの祭神は伊賀古谷姫で、先に紹介しました「山城
国風土記逸文」にある、

カモタケツミノミコト(賀茂建角身命)と丹波の神野の神イカコヤヒメ(伊可
古夜日女)の娘タマヨリヒメ(玉依日売)・・・

とあるイカコヤヒメです。カモタケツミの命とは、鴨氏の始祖にあたりますか
ら、旧桑田郡には鴨氏が関わっていたとみて間違いないでしょう。

 地名に「桑」がついているところは、養蚕に関係する地である、という話を
聞きます。
 桑の葉は蚕のエサなので、養蚕の地には桑の木がたくさん植えられていたか
らです。
 そのひとつの例として、大阪市東住吉区桑津があります。
 その昔、養蚕のための桑の木をたくさん植えていたからこの地名が付いたと
伝えられていますが、桑津と隣接して杭全という地名があります。奉納連歌で
有名な杭全神社は東住吉区杭全ではなく平野区平野宮町にあるのですが(ただ
し非常に近い場所ではあります)、
創建の由来はこの地に荘園を有していた坂上当道によるもので、この人は征夷
大将軍坂上田村麻呂の孫にあたります。
この坂上氏も渡来系だといわれています。
また、近くの東住吉区今林3丁目にはJR貨物の貨物専用駅である百済駅があり
ますが、かつてはこの地は百済という地名でした。
百済が滅亡したとき、百済王子余善光は人質として日本にいたのですが、後に
大阪市の天王寺区に住まわされたとされます。天王寺区と東住吉区の桑津、杭
全、百済は近い距離にありますから、善光に関係している可能性もあります。

 桑津といえば、もう1つ、『日本書紀』に記された伝承があります。

 「応神紀」13年の記事には、応神天皇が日向の髪長媛(かみながひめ)を后
の一人として求め、桑津邑に泊まらせたが、応神天皇の皇子であるオオサザキ
ノミコト(後の仁徳天皇)が髪長媛を見て自分の后にしたいと思った。
 天皇は皇子の気持ちを知り、髪長媛を皇子に賜った。

 玖賀媛が桑田郡の女性だといわれることともそうですが、髪長媛と桑津、仁
徳天皇には女性と養蚕にまつわるエピソードが多いのです。

 『古事記』にもこのような話があります。

皇后が紀州にでかけた間に仁徳天皇は八田若郎女(やたのわかいらつめ)と夜
を共になされました。
皇后は旅先でこれを知ると大層お怒りになられ、難波宮にお戻りにはなられず
山城の綴喜の奴理能美(ぬりのみ)という渡来人の家に入られました。
それで天皇はやって皇后に帰ってくるよう丸迩臣口子((わにのおみくちこ)
を送りましたが、皇后のお怒りは静まることはありませんでした。
そこで奴理能美と口子と、皇后に仕える、口子の妹口日売の3人が相談し、天
皇みずからに皇后をお迎えに上がっていただこう、と考え、天皇に、

「皇后が奴理能美の家にいつづけますのは、奴理能美が飼っている虫のせいで
す。その虫は、最初イモ虫で、次に鼓になり、最後は鳥になるという、三種の
虫なのです。皇后がお戻りになられないのはそれのためであって、他に理由は
ございません」

と、報告したのでした。
 それを聞かれた天皇は、自分もその三種の虫が見たい、と思い、綴喜の奴理
能美の家までお出かけになられました。

 この三種の虫の正体は蚕です。


 さて、ここまで秦氏や養蚕の話を続けてきましたが、大物主の伝承には渡来
人が関係しているからなのです。

・・・つづく