大国主の誕生⑬ ―天語歌と采女の伝承―
それに、天語の三重の采女が雄略天皇の時代なら、『日本書紀』には雄略天皇の
時代のこととして采女と物部氏のエピソードが4つ載せられています。
① 雄略元年3月 童女君(おみなぎみ)という元采女が天皇と一夜をともにした
だけで懐妊し女の子を生んだが、天皇はこれを疑って養おうとしなかった。
その後のこと、宮中を歩く幼いその女の子を不思議に思って顔をのぞいた物部目
大連が、その容姿が天皇に似ていることに気付き、事情を知ると、天皇に、
「その夜何度お招きになられたのですか?」
と、訊くと、
「7回いたした」
そこで物部目大連が、
「私が聞いたことのあるかぎりでは、妊娠しやすい体質の女性もいるそうです。
一夜のこととは言え7回もされたなら子もできましょう」
と、意見したので天皇は女の子を認知した。
なお、この女の子が、後に仁賢天皇の皇后となる春日大娘皇女です。
② 雄略12年10月 天皇は木工闘鶏御田に楼閣を造るよう命じた。御田が高い所
をまるで飛ぶように走り回るのを見た伊勢の采女はその場で気絶してしまった。
天皇は、御田が采女を奸したと思い、御田を処刑せよ、と物部に身柄を預けた。
それを見た秦酒公が、
(神風の)伊勢の野の栄えた木の枝を、五百年を経るまで懸けて、其の枝がな
くなってしまうまで(末長く)、大君に堅固にお仕え申し上げようと、(そのた
めに)自分の命も長くあってほしい、と言った(忠実な)大工よ。(処刑される
なんて)ほんとに惜しい大工よ
と、歌ってとりなしたので御田は赦された。
③ 雄略13年3月 狭穂彦(垂仁天皇に反乱を起こしたあのサホビコです)の玄孫
歯田根命は、ひそかに采女山野辺小嶋子を奸した。天皇はこれを聞き、物部目大連
に歯田根命を尋問させた。歯田根命は馬八頭と太刀八振を納めて罪を赦されたが、
その時に、
山辺の小嶋子のためには、人々が自慢にする良馬の八匹ぐらい、惜しいこともない
という歌を詠んだ。
物部目大連からこのことを報告された天皇は、歯田根命に、餌香市辺(旧河内国
恵我郡)の橘の木の根元に宝物を置かせ、そして物部目大連に餌香の長野邑を賜った。
④ 雄略13年9月 木工韋那部真根が石を台にして斧で木を切っても刃を損なうこと
がなかった。天皇がこれを見て不思議に思い、
「石に当ててしまうことはないのか?」
と、尋ねると、
「当ててしまうことはございません」
と、答えた。
そこで、天皇が、采女を呼び、服を脱がせてふんどし1つの姿で真根の近くで相撲
をとらせたところ、思わず誤って刃を損ねてしまった。
それで、天皇は、
「吾が見ていても緊張で失敗することもなかったのに、女の裸を見たら気を取ら
れて失敗しおった。けしからん男だ」
と、物部に身柄を預けて処刑しようとしたが、他の職人たちが、
もったいない猪名部の大工が張った墨縄。その大工がいなくなったら、誰が張る
だろうか、もったいない墨縄だ
と、歌ったので天皇は真根を赦した。
②と④に登場する物部は、物部連の一族の者ではなく、当時の警察官のような職
務を務める物部のことだろうと思われますが、これを統括していたのが物部連です。
このように物部と采女のエピソードが3つもあるのはただの偶然では片づけるわけに
はいかないのではないでしょうか。
とりわけ、②のエピソードは伊勢の采女であり、③の山辺の小嶋子についても、
土橋寛は、山辺という地名が大和の他にも伊勢に伊勢御井という地名があることを
挙げ、伊勢の采女だった可能性を示唆しています。
なお、采女は宮中にて天皇に仕えるだけでなく祭祀に関わる職務であったので
、天皇以外の男性と交際することは禁じられておりました。この歯田根命のケース
も歌の内容からしてお互い同意の上の純愛であったのかもしれませんが、それでも
采女と関係すること自体が罪になるのです。
それから、②と④のエピソードはともに職務の失敗に天皇が怒り歌で許す、という
構図が天語に共通しています。
となると、やはり物部氏も何かしら天語に関係があるものと考える必要があります。
ところで、三重の采女のエピソードといい、伊勢出身の采女たちのエピソードとい
い、それらが「雄略紀」に集中していること、物部氏が絡んでいることを、どのよう
に考えればいいのでしょう?
「雄略紀」には次のような記事もあります。
雄略18年に、物部莵代宿禰と物部目連を派遣して伊勢の朝日郎(あさけのいらつ
こ)を討たせた。
朝日郎は、伊賀の青墓まで来て官軍を待ち受けた。朝日郎の放つ矢は二重の鎧も
貫くほどの威力だったので、官軍は攻めることができず、2日間対峙したままだった。
そこで、物部目連が筑紫の聞物部大斧手とふたりで攻めこんで朝日郎を斬った。
ここでも、雄略天皇の時代のこととして、物部氏と伊勢が関係したエピソードが語
られているのです。
・・・つづく
それに、天語の三重の采女が雄略天皇の時代なら、『日本書紀』には雄略天皇の
時代のこととして采女と物部氏のエピソードが4つ載せられています。
① 雄略元年3月 童女君(おみなぎみ)という元采女が天皇と一夜をともにした
だけで懐妊し女の子を生んだが、天皇はこれを疑って養おうとしなかった。
その後のこと、宮中を歩く幼いその女の子を不思議に思って顔をのぞいた物部目
大連が、その容姿が天皇に似ていることに気付き、事情を知ると、天皇に、
「その夜何度お招きになられたのですか?」
と、訊くと、
「7回いたした」
そこで物部目大連が、
「私が聞いたことのあるかぎりでは、妊娠しやすい体質の女性もいるそうです。
一夜のこととは言え7回もされたなら子もできましょう」
と、意見したので天皇は女の子を認知した。
なお、この女の子が、後に仁賢天皇の皇后となる春日大娘皇女です。
② 雄略12年10月 天皇は木工闘鶏御田に楼閣を造るよう命じた。御田が高い所
をまるで飛ぶように走り回るのを見た伊勢の采女はその場で気絶してしまった。
天皇は、御田が采女を奸したと思い、御田を処刑せよ、と物部に身柄を預けた。
それを見た秦酒公が、
(神風の)伊勢の野の栄えた木の枝を、五百年を経るまで懸けて、其の枝がな
くなってしまうまで(末長く)、大君に堅固にお仕え申し上げようと、(そのた
めに)自分の命も長くあってほしい、と言った(忠実な)大工よ。(処刑される
なんて)ほんとに惜しい大工よ
と、歌ってとりなしたので御田は赦された。
③ 雄略13年3月 狭穂彦(垂仁天皇に反乱を起こしたあのサホビコです)の玄孫
歯田根命は、ひそかに采女山野辺小嶋子を奸した。天皇はこれを聞き、物部目大連
に歯田根命を尋問させた。歯田根命は馬八頭と太刀八振を納めて罪を赦されたが、
その時に、
山辺の小嶋子のためには、人々が自慢にする良馬の八匹ぐらい、惜しいこともない
という歌を詠んだ。
物部目大連からこのことを報告された天皇は、歯田根命に、餌香市辺(旧河内国
恵我郡)の橘の木の根元に宝物を置かせ、そして物部目大連に餌香の長野邑を賜った。
④ 雄略13年9月 木工韋那部真根が石を台にして斧で木を切っても刃を損なうこと
がなかった。天皇がこれを見て不思議に思い、
「石に当ててしまうことはないのか?」
と、尋ねると、
「当ててしまうことはございません」
と、答えた。
そこで、天皇が、采女を呼び、服を脱がせてふんどし1つの姿で真根の近くで相撲
をとらせたところ、思わず誤って刃を損ねてしまった。
それで、天皇は、
「吾が見ていても緊張で失敗することもなかったのに、女の裸を見たら気を取ら
れて失敗しおった。けしからん男だ」
と、物部に身柄を預けて処刑しようとしたが、他の職人たちが、
もったいない猪名部の大工が張った墨縄。その大工がいなくなったら、誰が張る
だろうか、もったいない墨縄だ
と、歌ったので天皇は真根を赦した。
②と④に登場する物部は、物部連の一族の者ではなく、当時の警察官のような職
務を務める物部のことだろうと思われますが、これを統括していたのが物部連です。
このように物部と采女のエピソードが3つもあるのはただの偶然では片づけるわけに
はいかないのではないでしょうか。
とりわけ、②のエピソードは伊勢の采女であり、③の山辺の小嶋子についても、
土橋寛は、山辺という地名が大和の他にも伊勢に伊勢御井という地名があることを
挙げ、伊勢の采女だった可能性を示唆しています。
なお、采女は宮中にて天皇に仕えるだけでなく祭祀に関わる職務であったので
、天皇以外の男性と交際することは禁じられておりました。この歯田根命のケース
も歌の内容からしてお互い同意の上の純愛であったのかもしれませんが、それでも
采女と関係すること自体が罪になるのです。
それから、②と④のエピソードはともに職務の失敗に天皇が怒り歌で許す、という
構図が天語に共通しています。
となると、やはり物部氏も何かしら天語に関係があるものと考える必要があります。
ところで、三重の采女のエピソードといい、伊勢出身の采女たちのエピソードとい
い、それらが「雄略紀」に集中していること、物部氏が絡んでいることを、どのよう
に考えればいいのでしょう?
「雄略紀」には次のような記事もあります。
雄略18年に、物部莵代宿禰と物部目連を派遣して伊勢の朝日郎(あさけのいらつ
こ)を討たせた。
朝日郎は、伊賀の青墓まで来て官軍を待ち受けた。朝日郎の放つ矢は二重の鎧も
貫くほどの威力だったので、官軍は攻めることができず、2日間対峙したままだった。
そこで、物部目連が筑紫の聞物部大斧手とふたりで攻めこんで朝日郎を斬った。
ここでも、雄略天皇の時代のこととして、物部氏と伊勢が関係したエピソードが語
られているのです。
・・・つづく