小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

春奈のおっさん化進行中

2012年10月13日 00時15分19秒 | 日記
2009年11月3日(火)(1歳7か月)


 今日は北野田のファミリー。ヒッポの中国語の『ヒッポ
海を渡る』のタイトルを歌う時に春奈、

 「あ、ヒッポちゃいはいわい」

と、やっている。

 よくおっちゃんなんかが「あ、よいしょ」なんて風に
「あ」を頭に付けるみたいだ。

 ママに似たのか、妙におっさんくさいところが春奈には
多々ある。

 それも生まれて間もなくの頃からだ。なんかどんどん
おっさん化してるような気が・・・。これからどんな風
におっさん化していくことやら。


 ファミリーの帰り際に、

 「いえっちゃん(りえちゃん)、どこ行ったん?」

と、姿の消えたりえを探す。(りえはロビーの方まで機材
を返しに行っていたので部屋にはいなかった)

 そうか、そんなこと言えるようになってたのか。
 だんだんと質問の言葉もハッキリしてきたなあ。

23 鴨氏とオオモノヌシ

2012年10月13日 00時08分59秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生㉓ ―鴨氏とオオモノヌシ―

ここで一度、鴨氏についてまとめてみましょう。
 『古事記』に登場する出雲のエピソードのうち、ホムチワケの物語とヤマトタケルの
物語が、愛知・岐阜・三重といった中部地方と関係が深いことはこれまで指摘しました。
 鴨氏は愛知県犬山市や岐阜県美濃加茂市などにその痕跡を残していました。
 それから、中部地方と大阪府の旧三島郡との間に関係があることも指摘しましたが、
三島郡にも鴨氏はその痕跡を残していたのです。
 さらに鴨氏は京都府にも広く根を張り、丹波の旧桑田郡にも痕跡を残していました。
 旧桑田郡には「元出雲」といわれる出雲大神宮があり、同じく丹波の氷上郡では、氷
香刀辺の子が、出雲大神の祭祀を復活させる神託を口にしました。

 このように鴨氏は広い範囲に分布していたわけですが、発祥は大和葛城の鴨である、
とされています。

 『古事記』では、大物主の神の子孫オオタタネコを、「神君(三輪君)、鴨君の祖」
と記しています。
 また『日本書紀』でも、「これ大三輪の神(大物主のこと)なり。この神の子は、
すなわち、甘茂君(鴨君)等、大三輪君等、また媛踏鞴五十鈴媛命なり」
と、記しています。
 記紀ともに、鴨氏(鴨君)は大物主の子孫だ、と記しているわけです。

 大物主は、大和の三輪山に坐す神です。
 そして、大国主の7つの名前の1つでもあります。

 しかし、このオオモノヌシという神は、『古事記』と『日本書紀』とでは大きく異
なるのです。そのせいもあり、この神については多くの研究者たちにいろいろと考察
されてきましたが、そこに挙げられた神格にも様々の姿が見られるくらいなのです。
 大きく分けると次のようになります。

① 大和、ないし大和政権の版図における地主神で守り神とする説。
② 祟り神と見る説。
③ 農耕神と見る説。
④ 天照大御神の祭祀が成立する以前の太陽神と見る説。

 『古事記』に登場するオオモノヌシはさしずめ②の祟り神といったところになるで
しょう。次のようにあります。

 この天皇の時代に、疫病が大流行して多くの人が亡くなりました。天皇はこれを憂
い、そして嘆かれて、神床に坐しました夜のことです(神床とは、占術などを行う場
か儀礼そのものか、などと言われています)。大物主の大神が夢の中に現れて、
 「この疫病はわが御心である。意富多多泥古(オオオタタネコ)にわれを祭らせれ
ば、神の気(かみのけ=ここでは、疫病が大物主の崇りであるという意味)は起こら
ず、国も安らかに治まるであろう」
と、おっしゃられました。
 そこで駅使(はゆまづかい=早馬の使い)を四方に派遣し、オオタタネコという人物
を探し求めますと、河内の美努村(みぬ村。みの村とも)にその人を発見いたしました。
 天皇が、
  「そちは誰の子か?」
と、尋ねられますと、
 「私は、大物主が、スエツミミノミコト(陶津耳命)の娘イクタマヨリビメ(活玉依
毘売)を娶られて生まれたクシミカタノミコト(櫛御方命)の子のイイカタスミノミコ
ト(飯肩巣見命)の子のタケミカヅチノミコト(建甕槌命)の子オオタタネコにござい
ます」
と、答えました。
 それで天皇は大いに喜ばれ、
 「これで天下は平らぎ民も栄えるだろう」
と、おっしゃられました。そして、オオタタネコを神主にして、御諸山(みもろやま)
に大美和(三輪)の大神を祭祀されました。

 また、イカガシコオノミコト(伊迦賀色許男命)に命じて天の八十平瓫(あめのやそ
びらか)を作らせ、天つ神、国つ神の社を定められました。

 また、宇陀の墨坂の神に赤色の楯矛を祀り、大坂の神に黒色の楯矛を祀り、また坂の
御尾の神や河の瀬の神に、といったようにすべての神に幣帛(みてぐら)を奉られまし
た。

 これにより、疫病は止み、世の中は平穏になったのでした。

 『日本書紀』にもこれと同じような話が載せられています。前にも紹介したから重
なってしまうのですが、もう1度お話しさせていただきます。

 崇神天皇5年に、疫病が流行し、多くの人が死んで国が乱れたので天皇が神に占って
みた。
 この時まで、アマテラス大神(天照大神)とヤマトノオオクニタマの神を天皇の大殿
にて祀っていたのを、「ともに神の勢いが強すぎて同じところに祀られておられなくなっ
たのであろう」と、アマテラスを笠縫邑(かさぬいむら)に移してトヨスキイリヒメノ
ミコト(豊鍬入姫命)に祀らせ、ヤマトノクニタマ神をヌナキイリヒメノミコト(渟名
城入姫命)に祀らせることにした。
 しかしヌナキイリヒメは、髪が抜け落ち、体が痩せ衰え、祭祀を行うことができなく
なってしまった。
 7年の春2月に天皇が神浅茅原に八十万の神々を集めて占うと、大物主の神がヤマトト
ビモモソヒメノミコト(倭迹迹日百襲姫命)に憑依して、
 「国が治まらぬことを憂うる必要はない。吾を祀れば必ず国は安らかになる」
と、告げたので、天皇は大物主の祭祀を行ったが、疫病は一向に治まりはしなかった。
そこで天皇が再び神に占うと、その夜、天皇の夢の中に大物主の神が現れ、
 「天皇よ、憂うるではない。国が治まらないのは吾の意思である。わが子オオタタネ
コに吾の祭祀を行わせればたちどころに国は治まり、また海外の国もおのずと従うで
あろう」
と、告げた。
 8月に、ヤマトトハヤカムアサヂハラマクワシヒメ(倭迹速神浅茅原目妙姫)と、穂積
臣の祖オオミクチノスクネ(大水口宿禰)と、イセノオミの君(伊勢麻績君)の3人が共
に同じ夢を見て、天皇に、
 「昨夜夢の中にひとりの貴人が現れまして、『オオタタネコノミコトをして大物主大神
を祀らせ、イチシノナガオチをして倭大国魂神を祀らせれば必ず天下は治まる』と申しま
した」 
と、報告をした。このことで、天皇は、これは間違いないとお考えになられ、オオタタネ
コを見つけだして大物主大神を祀らせた。
 また、イチシノナガオチ(市磯長尾市)をもって倭の大国魂神を祀る神主とした。
 さらに天皇はその他の八十万の神々を祀った。
 それにより、ようやく疫病の猛威はおさまった。

 話は『日本書紀』の方が複雑になっていますが、どちらも、疫病はオオモノヌシの祟り
だった、となっている点が共通しています。

・・・つづく