小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

春奈って自然科学そのもの

2012年10月09日 23時39分24秒 | 日記
2009年10月18日(日)(1歳6か月)


 僕が用事で外出している間に、実家の両親がうちに来た
らしい。

 それで、夜、風呂の中で、

 「おばあちゃん来たか?」

と、春奈に話しかけると、

 「だっこー、たかい」

と、春奈が答えた。

 おばあちゃんに抱っこしてもらったのか。

 そう言えば、最近の春奈は体験を話すようになったな。


 体験とは「過去」の話だ。

 虫や動物も仲間と情報の伝達を行うけど、過去のことは
伝達できない。

 これができるのは人間=ホモ・サピエンスだけだ。人類の
中ででもホモ・サピエンスだけで、他の人類は、アウストラ
ロピテクスをはじめネアンデルタールもみな過去の情報を伝
達することができなかったそうだ。

 声帯がホモ・サピエンスほど発達していなかったために
複雑な言語を持つことができなったのだ。
 そんな風に考えてみると、過去の話ができる、ということは
すごいことなんじゃないか、と思えてきた。

 この3次元の世界に生きるすべての生物にとって、時間は
一方通行だというのに、人間の言語は未来や過去を伝達でき
る。時間軸を自由に行き来できるのだから。

 春奈のような1歳児でも過去の話をすることができるなんて、
素直に、人間の言語はすごい、と改めて思った。

 春奈はいろんなことを僕に考えさせるし、発見もさせてくれ
る。

 まさに、自然科学そのものだ。

⑳山城のオトカリハタトベ

2012年10月09日 23時01分27秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生⑳ ―山城のオトカリハタトベ―


 大国主命は、『古事記』では5つの名前を、『日本書紀』では7つの名前を持っ
ていたと記されています。
 オオナムチ、アシハラシコオ、ウツシクニタマの神、八千矛の神、大国玉の神。
 ここまで、「大国主」をのぞく5つの名について考察してきました。
 残る名前は「大物主の神」。もっとも手ごわい神が残ってしまいました。

 大物主に取り掛かる前に、またまた寄り道をしたいと思います。もう少々お付
き合いくださいませ。

 少し前にヒバスヒメが亡くなった後、野見宿禰がそれまでの殉死に代わって埴輪
を作り出したという伝説をお話ししましたが、その後日談も紹介したいと思います。
 最初の皇后サホビメに続いて2番目の皇后も亡くした垂仁天皇は新しい皇后を求
めます。

 『日本書紀』によると、第3の皇后として迎えられたのが、山背(山城)大国の不
遅(ふち)の娘カニハタトベ(綺戸弁)です。イワツクワケノミコトを産む、とあり
ますから、『古事記』に、

 山代の大国の淵の娘オトカリハタトベ(弟刈羽田刀弁)を娶られてお生まれになっ
たのが、イシツクワケノミコ(石衡別王)、次にイシツクビメノミコト(石衡毘売命)
またの名をフタジノイリビメノミコト(布多遅能伊理毘売命)の2名。

と、あるオトカリハタトベと同じ人なのでしょう。
 イシツクビメノミコトまたの名をフタジノイリビメとは、ヤマトタケルの妃となり、
第14代仲哀天皇を産んだ人です。

 ただ奇妙なことに仲哀天皇の母君のその母だというのに、その素生についてははっ
きりと書かれていません。大国の淵(『日本書紀』では不遅)というのが地名なのか
人名なのかもはっきりしません。『日本書紀』に至っては、カニハタトベ(オトカリ
ハタトベ)が産んだのはイシツクワケ1人だけでイシツクビメまたの名をフタジノイ
リビメは登場しません。ただ仲哀天皇のところで、

 母はフタヂノイリビメ、垂仁天皇の皇女なり

と、ありますから『日本書紀』もまたフタヂノイリビメが垂仁天皇の皇女であること
は認めているわけです。それなのにフタヂノイリビメの母君が誰なのか書いていない。
垂仁天皇の皇后なのに。まったく不思議なことです。
 ただし、父親はこの人ではないか?と、私が勝手に推測している人物が1人います。
 それは、カニメイカヅチの王です。
 先に紹介しました、ヒコイマスの王の子ヤマシロノオオツツキマワカの王の子です。
 ヤマシロノオオツツキとは、山城の綴喜郡のことと思われます

 ヒコイマスは、第9代開化天皇の皇子で崇神天皇とは異母兄弟になりますが、開化
天皇の皇子にひとりにヒコユムスミがいます。
 『古事記』には、

 旦波(丹波)の大縣主、名はユゴリ(由碁理)の娘タカノヒメ(竹野比売)を娶ら
れてお生まれになられたのがヒコユムスミノミコト(比古由牟須美命)。

と、あります。ミチノウシの王の伯父にあたる人物です。ミチノウシノミコと同じく
丹波の王です。
 そう言えば『古事記』には、

 ヒコユムスミノミコの子は、オオツツキタリネノミコ(大筒木垂根王)、次にサヌ
キタリネノミコ(讃岐垂根王)の2名。

と、あり、これまた綴喜の名を持つ人物が登場します。

 話をカニメイカヅチに戻しましょう。
 京都府の京田辺市(旧綴喜郡田辺町)には朱智神社なる神社があります。
 この神社の祭神はこのカニメイカヅチ。正式には迦爾米雷王命。配祀にスサノオと
ホアカリ。注目すべきは、この神社では天照國照彦火明命とされています。ここにも
ホアカリが祀られているのです。
 さらにカニメイカヅチの母親は丹波能阿治佐波毘売。ここにも丹波が出て来ました。

 新皇后の名は、『日本書紀』にはカニハタトベ(綺戸辨)、『古事記』にはオトカ
リハタトベ(弟刈羽田刀弁)とありますが、朱智神社のある京田辺市には苅羽井とい
う地名があったとされます。
『古事記』に登場するエピソードに、市辺之忍歯王の受難があります。
 17代履中天皇の皇子である市辺之忍歯王はいとこにあたる雄略天皇から謀反の疑い
をかけられ殺されてしまいます。そのことを知った王のふたりの王子、オケの王(後
の仁賢天皇)とヲケの王(後の顕宗天皇)は難が及ぶのを恐れて大和を脱出しますが、
途中山代の苅羽井(苅羽という字が含まれています)で食事を取っていると、顔に入
墨をした老人がこれを奪っていった、と記されています。

 京田辺市大住が苅羽井(樺井)の比定地ですが、その京田辺市大住と木津川を挟んで
北側の城陽市水主にある水主神社の境内に樺井月神社がありますが、元は大住に鎮座し
ていたものが、江戸時代、木津川の氾濫で対岸の水主神社に遷座したのだそうです。

 樺井は、「かばい」と読まれますが、岩波古典文学大系『古事記』の頭注には、
「樺井(カニハキ)」とあります。

 それから、新皇后の名前にハタという言葉が入っていること、さらに『日本書紀』で
は「綺」という字を用いていることにも注目したいと思います。

 『常陸国風土記』の久慈郡の項に、このような話が載せられています。

・・・つづく