小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

553 製鉄の人々の伝承と出雲の神 その8

2016年12月12日 00時57分14秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生553 ―製鉄の人々の伝承と出雲の神 その8―
 
 
 それでは、大物主を祖とする太氏と同族である金刺氏や、同じく大物主を祖とする
三輪氏から派生したとも言われる神氏が祭祀するタケミナカタが、国譲り神話において
タケミカヅチと力比べをして敗れるという物語がどうして生まれ、それが太安万侶の
編纂した『古事記』に載せられているのはどういうわけなのでしょうか。
 
 それは先に考察したように、持統天皇の宗教政策に対する一種の抗議活動であった
可能性が挙げられます。
 持統天皇がタケミナカタの祭祀に使者を送ったのは、タケミナカタを「風を鎮める神」と
したためであったようです。
 たしかに、風の強い地方では、強風によって稲がなぎ倒されるなどの被害が発生します。
 農業においては風を鎮める必要があったのです。
 しかし、その反対に強い風を喜ぶ人々もまた存在したのです。
 それは、製鉄にたずさわる人々でした。
 製鉄には、精錬に必要な風を送りだす踏鞴を用いるなど風を必要としました。
 
 では、諏訪においてはどうだったのでしょうか。
 松前健の『日本神話の形成』によれば、諏訪大社の神長官である守矢氏には鉄の
神器があるそうです。
 それによれば、守矢氏に伝世の神器があり、これが「さなぎの鐸」とも「ミクミの御宝」
とも呼ばれているといいます。「さなぎ」とは鉄のことですが、これは、六個ずつ三組が
麻縄でくくられた鉄製筒形の鉄鐸であり、大御立座(おおみたてまし)の神事と称せら
れる上社の祭において、御杖と呼ばれる木の棹の上に、鉾とともに、これを六個ずつ
吊り下げ、三組それぞれ馬に乗った神使に担われて領内の内県、外県の郷村を回る
というものです。
 松前健は、
 
 「つまりこの宝器は、守矢氏の持つ一種の宝璽であり、守矢神の象徴でもあったので
ある。この神使は、即ち守矢神の名代でもあり、本来守矢氏が行うべきものであったの
であろう」
 
と、説きます。
 そうすると、諏訪土着の守矢氏は製鉄にたずさわる氏族であり、これを神氏や金刺氏が
征服した、ということになります。
 
 
 『梁塵秘抄』に
 
 南宮の本山は 信濃国と承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚き児の宮
(二六二番歌)
 
と、歌われた三社の南宮のうち「本山」の諏訪には製鉄にたずさわる氏族がいました。
 それでは、「中の宮」美濃の南宮大社、「稚き(おさなき)児(ちご)の宮」伊賀の敢国
神社(あえくに神社)の場合はどうなのでしょうか。
 
 美濃の南宮大社の祭神は、鉱山の神とも製鉄に関わる神といわれる金山彦命です。
 南宮大社では、毎年11月8日にふいご祭(金山祭とも)と称する祭事が行われますが、
この祭を訪ねた谷川健一は、その著『青銅の神の足跡』の中で次のように記しています。
 
 「やがて祭がはじまった。それは神社の拝殿の正面にもうけられた祭場で、御神体の
ふいごをうごかし、炭火に吐いた鍬先を禰宜が金槌で鍛えるだけの素朴なものであった。
祭のあと、私は社務所に立ちよって宮司の宇都宮敢氏から話を聞いた。金生山の北がわ
には鉄、南がわには銅が多く産すること、また戦時中までは鉱山として採掘をおこなって
いたこと、関の孫六で有名な関市の刀工は赤坂から移ったのだという話などは興味ぶか
かった。そういえば関市の千手院でも、また三重の多度神社でもふいご祭をおなじ十一月
八日におこなっている。
 宇都宮氏の話でとくに私の注意を引いたのは、このあたりで伊吹おろしと呼ばれる冬期の
西北風の話であった。風は金を生ずるというが、この伊吹おろしは寒いというよりは痛い
位に強烈なので、むかしはたたらを風の方向にむけとおくと足でよくふまないでも、風が
炉に入って炭をおこすことができたという」
 
 このレポートからは、南宮大社が製鉄にたずさわった人々と強いつながりを有していた
ことを物語っています。
 
 次に、「稚き(おさなき)児(ちご)の宮」伊賀の敢国神社(あえくに神社)の場合ですが、
「伊賀国風土記逸文」には次のようなものがあります。
 
 「猿田彦神の娘、吾娥津媛命(アガツヒメノミコト)は、日神が天上より投げ降し給いし三種の
宝器のひとつ金鈴を奉納していた。その場所を加志(かし)の和津賀野(わつかの)という。
現在、手柏野(たかしわの)というのは、加志の和津賀野が訛ったものである」
 
 この「金鈴」とは「黄金色の鈴」のことで、つまり銅鐸のことではないでしょうか。三種の宝器
とは、『倭姫命世記』にも登場し、それによると、天の逆大刀、逆鉾、金鈴の三種とあります。
いずれも金属であり、これらのことからも製鉄にたずさわる人々の存在を感じさせます。
 
 また、伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)が伊賀国青墓にて物部莵代宿禰と物部目連らと
戦ったとする『日本書紀』雄略天皇十八年の記事には、朝日郎の武勇について、
 
 「はなつ箭(矢)は二重の甲(よろい)をとおす」
 
とありますが、これについて、谷川健一(『青銅の神の足跡』)は、
 
 「朝日郎のもつ武器の優秀さ、鉄のやじりのするどさであり、伊賀の青墓にすぐれた製鉄
集団があったことをうかがわせる」
 
と、解釈しています。

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