趣味の日記

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地図をじっくり見る

2008-12-18 23:59:43 | Weblog
奈良では昨日、春日大社のお祭り‘若宮おん祭り’があったそうで。
先日ネットをウロウロしてたら、このお祭りの行列に参加している‘大和士’は、もともと室町時代の大和の豪族たちだったそうで、高取の越智氏も加わっていたとありました。
南朝方だった越智氏も、南朝衰退ののちには室町幕府に降り、大和の豪族として力を付けていったのだとか。
戦国時代に突入してしまうと、私の専門外(?)になるのでよくわからないんですが(苦笑)、先日の四条畷行きで歩いた場所を含め、以前にネットから印刷して作り上げた広域地図を眺めつつ、楠木正行が活躍した当時の河内や大和の状況を改めて考えてました(笑)。

楠木の本拠地は、言わずと知れた千早赤阪。正行は挙兵にあたり、詰めの城としての千早は残しつつも、さらに前線基地として東条城に本拠を移していたらしい。
実際、末弟の正儀は東条の留守居役として残り、正行・正時が討死ののちも、東条を死守、高師直とは別働隊だった高師泰を打ち破ってます。
その千早赤阪があるのは、金剛山。そして金剛山を越えるとそこはもう大和国。高取の越智氏勢力圏。
四条畷の合戦の前に、正行はまず最初に、背後の紀伊に勢力を持つ隅田氏を討っています。後顧の憂いを断ち、次に八尾から住吉、天王寺方面に進出し、そこに拠点を持っていた足利方の武将を次々に叩きました。
天王寺は、そこから真っ直ぐ奈良街道が伸び、高野街道と交差してそのまま二上山と信貴山の間を抜けて奈良へとつながっています。
つまり、もし正行が京都方面へ北上しようとすると、天王寺から奈良街道を通ってきた足利軍が、正行の背後を遮断してしまうことになるわけです。
それを防ぐために、あらかじめ天王寺の足利軍を叩いておいて、態勢が立て直される前に正行は北上を開始した、と見ることができます。
高師直は、天王寺の拠点がつぶされたために、京都から大軍を率いて南下。四条畷で正行軍とぶつかります。
正行はその地で玉砕。勢いに乗った師直はその大軍をもって吉野へなだれ込んだと、「太平記」には書かれています。おそらく、正行軍を粉砕し、そのまま奈良街道から大和へ侵入。大軍が通るとなればあまり険しいルートは使わず、飛鳥辺りから吉野へ向かったと思われます。

その際、高取の越智はどういう位置になるか。ちょうど楠木の本拠とは背中合わせの場所。そして楠木の残存兵力は正儀のもと東条に集結、師泰軍と対峙中。
越智氏には師直の大軍の前に立ち塞がるほどの力はないですから、むしろ山伝いに吉野の帝を落ち延びさせるための手助けをしたと思われます。師直軍の追っ手を、ゲリラ戦法で苦しめたのは、越智をはじめとする南朝方の大和の武士たちだったようです。
ただでさえ少ない資料で、楠木と越智がどういう関係だったかを探すのは難しいですけど、位置からしても、お互いに背後を守りあっていたと、そう考えてもいいように思えます。
楠木から吉野へ向かうのだって、直接金剛山の山越えをするより、越智の脇を抜けていくほうが楽だし早いと思うのですけど(笑)。正行たちが吉野へ伺候するなら、歩いて山越えより、やっぱり颯爽と馬で駆け抜けていってほしいじゃないですか(爆)。
そんな妄想も交えつつ、地図にじぃ~っと見入っていると、交通がどれほど合戦の戦略・戦術にとっても重要かが見えてきたりして、面白いですし、飽きないですね。

コメント
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