星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

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天使が通り過ぎた(22)

2008-02-21 02:16:57 | 天使が通り過ぎた
 コーヒーはしっかりとした濃い目の、だが後味は舌に残らない爽やかな味だった。ブラックでとてもおいしく飲むことができた。朝起きてコーヒーが飲めないと少しイライラとしてしまうのだったが、香ばしい香りのコーヒーが飲めたことで幾分落ち着き、満足した気分になった。ケンイチさんと私は、無言でゆっくりとそれぞれコーヒーを味わっていた。

「ちょっと失礼していいですか?」
 ケンイチさんはポケットからタバコとライターと簡易灰皿を取り出すと、ドアを開け店の軒下でタバコを吸い出した。何となく、この人がタバコを吸うというイメージがなかったので、少々意外に思いながらその様子をぼんやりと眺めていた。ケンイチさんはとてもおいしそうにタバコを吸った。私は男性と話をしなくてはならないとき、いつも大抵は何を話そう何を話そうと焦りのようなものを感じてしまうのが常なのだが、この人の場合は、どうせこの一時が終わればもう会うこともない人だと分かっているせいか、実にゆったりと構えていることができると思った。こういうことは珍しいことだった。

 ケンイチさんが席を外し一人になってしまうと、ほんの少しの間忘れていた通彦の存在をまた思い出してしまっていた。通彦とここに来ていても、このお店には気づかなかっただろう。通り沿いにあるのなら分かったかもしれないけれど。二人でもしここに来ていたら、こうしてのんびりと構えていることは出来たのだろうか。私はまた、あの最悪の金曜日のことを思い出した。あの雰囲気のままだったら、私はもっともっと自分で深い穴を掘り、その中に自分自身を埋めてしまいたいと思ったことだろう。自己嫌悪、焦り、やるせなさ、無力感、そういったものが次から次へと湧いてきて、ますますどうしていいか分からなくなってきたことだろう。それなのにどうして通彦を嫌いになれないのだろう。好きという感情は厄介なものだと思う。嫌いになればいいと、頭では分かっていながらも、だからと言って嫌いになれる訳ではない。嫌いになったほうが自分が楽になれると歴然と分かっているのに、感情というものは自分自身でコントロールができないのだ。理由も無く、いや理由はきっと存在するのかもしれないけれど、その理由を整然と並べることはできないのだけれど、私は通彦のことが好きで仕方がない。もう二度と会えないということが、さすがにこの一週間会っていないのだから、現実のこととして認識しているつもりだけれど、まだまだ実感が湧かないというのが正直なところだった。もしかすると、普通に連絡したら普通に会えて、そしてこの間の話は無かったかのように普通に振舞えるのかもしれない、と希望的な想像までしてしまうのだった。

 カップに残った最後の一口を啜ると、カバンの中で携帯が振動しているのが分かった。ケンイチさんはまだ外でタバコを吸っているのでマナー違反にはならないだろう。ずっと振動しているので電話だと思いながら、一体誰からだろうと考えた。しかし思い当たるのは家にいる母くらいなものだった。携帯のディスプレイを見て私は息が止まりそうになった。通彦だった。

外でタバコを吸っているケンイチさんを眺めながら、この場で電話に出るべきかどうか数秒迷った。外にはケンイチさんがいるから出られないし、かといってこの店内には隠れる場所もない。でも、今この電話を逃すと、私は一生通彦と接触するチャンスはないように思われた。後で掛け直したとしても私と分かって出てくれないかもしれない。

 実際に電話に出るまでの時間は数秒か数十秒だったと思われるが、頭の中を様々な思惑が飛び交い、随分と長い時間のように感じた。有り得ないかもしれないけれど、通彦がこの間の発言を撤回するために電話をしてきたのかもしれないとも思った。付き合っている間も、メールのやりとりは頻繁にしていたが電話を直接掛けてくるということは滅多になかった。私のほうから、どうしても声が聞きたいと甘いことを言って夜中に電話をすることはたまにあったかもしれないが、昼間のこんな時間に通彦のほうから電話を掛けてくるということはほとんどないことだった。青いランプが規則的に点灯しているのを眺めながら、意を決して電話を耳に当てた。

「もしもし。」
 声が擦れてうまく出せなかった。通彦はぶっきらぼうな声で「寝てたのか?」とひとこと言った。
「ううん、違う。」「今旅行先なの。」
 私の頭の中は、うまく思考が出来なくなっていた。何をどう話したらいいのかまったく分からなくなっていた。それでやっと、この一言が口から出てきた。
「・・・・・・・どうしたの?」
 私は努めて明るい、穏やかな声を出すように心掛けた。通彦の声を聞くと、もうケンイチさんの存在は忘れていた。通彦は「お前、一人で旅行行ったのか?」と少しびっくりした口調で言ってから「それとも誰か一緒なのか。」と平べったいトーンで付け加えた。
「ひとりよ。」
 私はうまく話すことが出来なかった。話すことが出来ない代わりに、目に涙が浮かんできた。あんなにも単刀直入に別れを切り出されたというのに、悔しいけれど通彦が恋しくて仕方が無い自分を認めないわけにはいかなかった。この通彦の声も大好きだったのだ。
「そうなのか。」
 短くそう言うと、余計な話より用件だと言わんばかりに、通彦は私の私物が通彦のアパートにあるのだが、どうしたらいいのかと淡々と尋ねてきた。私は通彦の電話の意図が、十分予想できていたことではあるはずなのに、前回の発言を撤回するものではなかったことに落胆を覚えた。
「そちらで勝手に処分して。面倒だったら私が取りにいくわ。どっちがいい?」
 取りに行けば、少なくとももう一度だけ通彦の顔が見られると咄嗟に思いながら、でも通彦は二度と私とは会いたくないのかもしれないとも思った。勝手に捨ててくれと言っても、もしかしたら新しい彼女がいたりしたら厄介なのかもしれない、と心の隅で思う。とにかく通彦は、私の存在を彼の領域から抹消したいのだろう、と思うと、堪えていた涙がまたはらはらと落ちてきた。

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