星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

天使が通り過ぎた(20)

2008-02-16 18:17:34 | 天使が通り過ぎた
 ケンちゃんと呼ばれた人の車は、私が当初想像していたのとは違いコンパクトな女性が乗るような感じの車だった。メタリックブルーの車体はよく磨かれていて、車内は余分なものが一切無く綺麗に掃除がされていた。彼は私の小ぶりの旅行カバンを後ろの座席に乗せると助手席のドアを自分で開け、どうぞ、と言った。
「失礼します。」
通彦は私にそんなことをしたことは無かったので、随分と丁寧な扱いだなあと感じながら車に乗り込んだ。
 
それぞれシートベルトを締めると、雨の中を静かに車は滑り出した。私はワイパーが規則的に左右に動いているのを眺めながら、どうしてこんな展開になってしまったのだろうと、また思った。
「申し訳ありませんね、そちらが悪い訳でもないのにこうして送って頂いたりして。」
 本当に申し訳ない気持ちでいた私は思ったままを言うと、「いえ、とんでもない。」と彼は答えた。
「どうせ僕も帰るのですから。いいんです。気にしないで下さい。」

 そういえば私はこの人がケンちゃんと呼ばれていてホテルのおかみの知り合いであるということ以外、何も知らないのだと改めて思った。
「どちらへ帰られるんです?」
「どちらに住んでいらっしゃるんですか?」
彼と私はほぼ同時に同じようなことを相手に質問していた。
「失礼。」
「あら、ごめんなさい。」
 また同時だった。
 私が少し黙って相手に先にしゃべってもらおうと思っていると、あちらも同じように思ったのかしばらく沈黙していた。
「はは。」「僕たちはタイミングが悪い。」
 それは少し愉快な感じに聞こえたので、私もこの同じようなテンポにおかしくなってしまった。

「すみません。私、男の人と喋るのが苦手なんです。」
 実際私はそうだった。正確に言うと、職場にいるようなおじさんは平気なのだが、若い男の人は苦手なのだった。
「そうなんですか。実は僕も無口な方なんです。」
 彼の言い分を聞きながら、本当に無口な人が僕は無口ですと言うのだろうか、などと少し訝しく思いながらも、この人との会話はあまり緊張を感じないなあと思った。
「それで、どちらへお帰りになるのですか?」
彼は前方からしっかりと視線を外さずに、聞いた。
「神奈川県です。でも、新幹線は東京まで乗っていきます。えーと、ケン・・・さんはどこまでお帰りになるのですか?」
 私はうっかりケンちゃん、と言ってしまいそうになった。
「東京です。あと、僕の名前はケンイチです。ミナト ケンイチ。そう言えば、お互い名前を知らなかったですね。あなたは?」
 私は頭の中で、ミナト ケンイチ、と数回言ってみながら、どんな字を書くのだろうと想像した。
「私は、桜井と言います。桜井、香織です。」
 
お互い本名を言い合うと、少し照れが生じたためかまた暫くの間沈黙が続いた。狭い車内の中は、雨が車の屋根にぶつかる音と道路の水しぶきの音のせいで、さほど気まずい沈黙には感じられなかった。とても低い音量でトランペットの曲が流れていた。私にはよく分からないけれどジャズのような感じの曲だった。私は外の景色を見ながら、よく知らない人の車に乗り、ぎこちない時間を過ごさなければいけない、というプレッシャーをほとんど感じていない自分に気づいた。どのみち駅に着いたらさよならをして、そのまま二度と会うことはない人なのだから、それで却って気が楽なのかもしれないと思った。

「もしよろしかったら、神奈川まで送りましょうか?どうせ僕は、東京まで帰るのだし。」
 相変わらず視線を前方から逸らさず、さらりとケンイチさんは口にした。私はそんな申し出をされるとは予想していなかったので、それはいくらなんでも、と即座に思った。
「いえ、いくらなんでもそんなことは・・・。」
「そうですか。」
 あっさりと納得してくれたことに少しほっとした。やはり見ず知らずも同然の人と、長い道中をともにするのは気疲れするに違いないだろうと思った。

「そういえばあんなことがあったので、朝ごはんを食べないで行かれましたね。お腹がすいていないですか?」
 私は彼に、いや正確には子供が突進してきたからなのだが、コーヒーをこぼされ、朝食を食べずに部屋に引き上げたことを思い出した。するとなぜか急に空腹を覚えた。
「そうですね。でも後で食べますから大丈夫です。」
 実際はとてもお腹が空いていた。コーヒーが無性に飲みたかった。
「途中にとてもおいしい、ベーカリーがあるのですが、朝ごはんを食べに行きませんか?」
 私はこの人が先ほど、僕は無口だと言ったことが、やはり言葉の上だけのことなのではないかと思った。無口な人がこんなに気が利いたことを言うのだろうか。
「いえ、そんなに気を使っていただかなくても。大丈夫ですよ。」
 そう言った途端に、タイミング良くというか悪くというか、私のお腹がキューと鳴った。私は恥ずかしさで思わず目をまん丸にしてケンイチさんの方を見てしまった。彼は相変わらず目線はじっと前方から逸らさずに運転を続けていたので、私のこの表情は見ることもなかっただろうが、目じりを下げて笑っているのはその横顔から伺えた。
「お腹が、おなかが空いたと言っているようですね。」
 恥ずかしさでいっぱいだったはずの私だったが、彼のその言い方が私を笑っているのでもなく、何というかとても大らかな言い方だったので、その一言で私はすっかり緊張の糸が解けてしまった。

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