ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

自己嫌悪が募る

2009-11-23 22:59:57 | Weblog
久しぶりにある作家の詩を読んだ。
妹さんが亡くなったあとに詠んだ詩で、悲しみがあふれている詩だ。

早世した妹への思いと、無力感から生まれる罪悪感、
この世の移り変わりへのやり場のない気持ち、いろいろなことが込められている。

なかで私が一番共感するのは、
大切な人がどこへ行ったのかわからないということは、なんといいことだろう、
というようなことを述べているところだ。
私も両親と別れたとき、同じようなことを感じた。

私は正直に言って、母が亡くなったときに、少しホッとした。
解放感すらあった。
それは、「苦しむ時間が引き延ばされなくてよかったね」なんていう
きれいな感情ではなくて、
まったくもって自己中心的な感情で、
「ああ、これで私の範疇を超えた。もう苦しまなくてすむんだ」という気持ち。

そして母が亡くなったあと、この気持ちと正面から向き合うことをしなかったので、
父の死で、痛いほど向き合うことになったと思う。
父が事故にあって瀕死の状態で集中治療室にいたとき、
駆けつけた私がまず最初に感じたことは、
「ああ、また私はこの匂いと何年も付き合っていかなければならないのか」ということ。
父に対する心配ではなかった。

そしていま、日々、罪悪感にさいなまれている。

私が毎晩寝る前に考えることは、
いつか、この罪悪感を少しでも越えることができるように、ということ。
そして、私の死は引き延ばされないように、ということ。

でも、こんな無目的な毎日を生きている。
すでに、毎日が引き延ばされた死のような気持ちすらする。

あんなに美しく、そして温かい人間の血が流れているような詩が書けるような人間に
私はなれない。
詩が書けるかどうかという点ではなく、大事な人を思うという人間らしさの一点において、
私はきれいな心に接するのがこわい。

やり残していること ひとつ

2009-11-23 10:49:53 | Weblog
昨日はいろいろと自己嫌悪、自信喪失になる一日だった。
そして、体力も頭も使わなかったから夜眠くもならなくて、
いつもより少し長めに読書をした。

いま、道元の『正法眼蔵』を少しずつ読んでいる。
読み始める前は、道元といえば禅僧。
禅といえば、京極夏彦さんの『鉄鼠の檻』という小説は面白かった、と、まず浮かぶ。
あとは、禅問答はわからない。
最近、座禅はよさそうだと思い始めている、くらいの印象か。

昨晩、とりあえず第4巻を読み終わったので、
ネットで道元について少し調べてみた。
日本曹洞宗の開祖で、南宋で5年ほど学んでいる。

曹洞宗といえば、父の家の菩提寺が曹洞宗だった。
あのお寺さんは、とてもお布施が高いことで地元でも有名で、
つい数年前、住職さんと話していて私も少しイヤな気分になった。
なるほど。禅僧にも、いろいろな人がいるのだな。
それなら、私でも心を正しくたもつよう努力すれば、なんとかなるんじゃないか。
そんな気分になった。
昨日は、自信喪失気味だったから、夜更けに物事を考えるとこうなる、
という、思考パターンだったのだな。

そして、南宋に留学か。
南宋でも仏様の教えが守られていない、乱れている、と
道元は、痛烈な批判をしているところもあるけど、
それでも、南宋といえば「南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中」。

杜牧の「江南春」。
高校生のとき、漢文の教科書にこの絶句が出てきて、
いったいどんな景色なのだろうと、すごくいろいろと想像した。

そういえば、大学時代に元朝を調べていたときも、
南宋の都があった臨安は行ってみたい、行かなければと思いつつ、
これまで訪れたことがなかった。
臨安はいまの杭州。観光名所だし、いつでも行けると思って逃している。
久しぶりに、一人でぶらぶら遊びに行ってみるか。
元気で体が動くうちに、自分が本当に興味のあることをやるべきだよなあ。