ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

途中放棄

2009-11-04 18:42:57 | Weblog
ラストまで行くことを諦めた。
DSで「A列車で行こう」と「幻想水滸伝ティアクライス」をやっていたんだけど、
どちらもフィニッシュできなかった。

それぞれ、私なりのわがままな理由がある。

「A列車で行こう」は、ステージをクリアするごとに、どんどん複雑になっていく。
とてもよくできたゲームだと思う。
でも、ステージのクリア条件を見て、「2期連続の黒字」が出て来た段階で諦めた。
この諦めは比較的はやいのだろうと思う。

ゲームなのだから、なるべく要領よく進めたいと思う。
2期を過ごすまでの時間を予測して、どれだけこのゲームに拘束されるかを考えた段階で、
もうお腹いっぱいな気分になった。

スリープモードにしておけば、勝手にゲームの時間は進むのだから、それでいいじゃないか、
ゆっくりやろう、と言えば、それはそうだ。
でも、私は「要領よく」やりたいのだ。
資本投下のタイミングを逃すのはイヤだし、作業のようなことはもっとしたくない。

たとえば、今日、会社からの帰り道、スーパーに寄った。
私は、レジに並ぶとき、おばあさんとサラリーマン風のおじさんの後ろには並ばないことにしている。
それは、小銭の準備に時間がかかることが多いからだ。
手伝ってあげたくなってしまう。
そして、なぜ1枚ずつコインを数えるのか、と思いながら、ジッと見てしまう。
失礼きわまりない。

私もいずれおばあさんにはなるし、サラリーマン風のおじさんは小銭入れが別にある人も多いので、
これは、本当にしょうがないことなのだけれど、
どうも自分のリズムがくずれてしまう。それがイヤなのだ。
それと同じような気分になったので、このゲームは諦めた。

「幻想水滸伝ティアクライス」は、お風呂に入りながら、コツコツ進めた。
もともと「幻想水滸伝」の1と2が好きだったので、レビューの評価も高いし、
とてもワクワクしながら進めた。

でも、108人の仲間を全員集めるには、どうも自力では無理そうで、
攻略本やネットで方法を調べないとならないし、
これではお風呂の中で完結することはできない。
総プレー時間が30時間をこえた段階で、これ以上は無理だと思った。

あと、プレステの時代にあったような、
町にある建物のすみのほうにキャラクターが隠れているような演出は、
DSでは、ないようなので、
歩き回るわりには、そのフィールドを楽しむことができないような感覚が、
私には、ちょっと物足りなかった。
キャラクターのセリフは気が利いていて面白いし、
ゲームの世界観も、とてもいいと思うんだけど、
私なりの完璧なフィニッシュには遠い。遠すぎる。

ゲームは、しょせん踊らされているわけだけど、
自分なりに、その世界を愛することができれば、甘んじて踊れると思う。

でも、ストーリーを追うだけであれば、
なにもゲームでなくても、そんなようなことは、実世界にいろいろゴロゴロしている。

両方とも、とてもよくできたゲームだと思う。
でも、私には重かった、ということだな。

相対的なのがいい

2009-11-04 09:20:00 | Weblog
ダライ・ラマの講演を聴くと、毎年ほんの小さなスイッチが入る。心の中に。

去年は、自分が苦手なことであっても、私の周囲の人にとってそれが必要とされるならば、
主義主張を少し抑えて、相手のために行動してみようと思った。
それで、無理をしたせいで自爆したきらいがある。

今年は、ものごとは相対的だからこそいいんだよな、という気持ちを再確認するスイッチが入った。

ある人が、過去、現在、そして未来にわたって「絶対に」変わらないものがあるという。
例えば自然を見て美しいと思う人の心がそうだ。
広い空をわたっていく白い雲、太陽の光をきらきら反射する水面、小鳥のさえずり。
確かに納得する。

でも、その次に、だから自然の美しさを知らない人は不幸だし、感性がとぼしい、と言われると、
なぜか、ものすごく抵抗感をおぼえる。

じゃあ、なぜ田舎出身の人で都会にあこがれる人がいるのか。
都会で育った人の中にも、面白いものを生み出す人はいるし、話していて楽しい人もいる。
何がどのように見えるかは個人差があって当然だから、
あなたが言っているのは、たった1つのケースにすぎないのではないか、と思う。

そして、何を美しいと思うか。
その瞬間に「美しい」と思うような方向にアンテナが向いていたかどうかは、
いろいろな要因の重なりによるもの。そして、はじめて胸に響くもの。
だから「これがあったから」と理由を確定することはできないと思う。
1つの要因として考えることはできても、すべてに敷衍することはできない。
だからこそ、逆に人の可能性は無限なのだと思う。

だから、人の能力というか感性を決めつけてくる人を見ると、
いやいや、人の心というのは、もっと相対的なものでしょう。
もっと影響しあうものでしょう。
ただ何かがこうだというだけで、本当にすべての人が幸せになるのか、と言いたくなる。
「普遍的であること」を、なぜか「不変の真理」にすりかえられているような気がする。
そして、もっと難しいのが、大なり小なり成功例として他人に誇示してくるものを、
ソフトに受け流すことだ。

何かを決めたいと思う。決めた方が頑張れるような気がするし、安心もするから。
でも、決めることができるのは「いまの自分にあう方法」の部分だけではないかな。
それがなかなか見つからないから、苦しいんだけど。