つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

続・湖国小旅行 2024夏。

2024年08月25日 20時46分46秒 | 旅行
                        
前回投稿の続篇。
びわこ競艇場で4つのレースへの投票を終えた僕は、
結果を待たず次なる訪問地へ向けハンドルを切った。
大津市街中心部から車で20~30分の地点にある「坂本」は、比叡山延暦寺の門前町。
昨年は戦国期の石工集団・穴太衆(あのうしゅう)が築いた石垣(LINK)を見に出かけたが、
今年の目当ては「比叡山鉄道 坂本ケーブル」である。





門前町の坂本と延暦寺を結ぶ比叡山坂本ケーブルの歴史は古い。
開業は昭和2年(1927年)。
その少し前、大正14年(1925年)に完成したのが、前掲の駅舎だ。
往時の姿を留める洋風木造二階建の建物は、国の登録有形文化財に指定されている。
雑木林に囲まれ、蝉時雨に包まれた駅舎外観には、風格が漂う。
内装も木造のベンチが置かれ、乳白色ガラスの照明など雰囲気があったのだが、
他のお客さんも多く撮影を遠慮した。







京阪グループ比叡山鉄道によって運営されているケーブルカーは、全長2,025m。
日本一の長さを誇る。
急勾配に沿うため車両は平行四辺形。
車内もホームも階段状になっている。
車両にエンジンは付いておらず、レール上にあるロープを車両に接続し、
頂上からモーターで巻き上げる「つるべ式」で登り降りする。
その間、車窓に広がる比叡山の自然は美しく、登るにつれて涼しさが増す。
所要時間は11分。
降り立った山頂の「延暦寺駅」からは、琵琶湖が一望できた。



そこから徒歩10分。
木立の間を抜け、苔むした石仏の前を通り、比叡山延暦寺に到着。







ご存じの方も多いだろうが、比叡山に延暦寺という建物はない。
比叡山そのものが延暦寺を表し、
東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3地区に分かれている。
近江出身の平安時代初期の僧侶「最澄」が開いた天台宗の総本山は、
数々の歴史に彩られてきた。
特に知られるそれは「織田信長による焼き討ち」だろう。





その発端は、姉川の合戦後、敗走する浅井・朝倉の軍勢を比叡山が匿ったこと。
数千の僧兵を抱える一大軍事力に対し「信長」は、
『中立を守って欲しい。 傍観してくれれば所領は侵さない。
 しかしあくまで浅井・朝倉に肩入れするなら容赦しない』と伝達。
比叡山は態度を示さず、黙殺。
「信長」は軍勢を動員して比叡山を囲んだが、この時は大事に至らず。
近畿一円の仏教勢力が「信長」に反発したため、渋々手を引いた格好。
“魔王”の胸中に遺恨の火が灯った。

翌年、諸勢力を各個撃破し体制を整えた「信長」は、比叡山攻めに取り掛かる。
元亀2年(1571年)晩夏、総攻撃開始。
建物ことごとくを焼き、経典類は灰燼に帰し、高僧も稚児も女も首をはねられた。
---と『信長公記』にはあるが、発掘調査の結果、焼き討ち時に焼失したのは
前掲画像「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」(※現在大改修中)と、
「大講堂(だいこうどう)」のみという説もある。



史実詳細は分からないが、比叡山延暦寺での出来事が強烈なメッセージとなったのは明らか。
『敵対する者はたとえ宗教的権威であろうと容赦なく滅ぼす!』
天下布武のため「信長」が人ならぬ領域へ一歩を踏み出した瞬間だったのかもしれない。



かつては大陸から導入された仏教の道場となり、
やがて血塗られ業火に焼かれ動乱の舞台となり、
歴史に名を刻んだ比叡山延暦寺。
今はただ静かな時が降り積もる。
ひとしきり感慨に浸った僕は、帰りのケーブルカーに乗って麓に戻った。
そして、スマホで投票したレースの結果を知る。

わが舟券、全敗---。

思い通りにいかないのが旅であり、人生もまた然り。
肩を落として琵琶湖を後にした、夏の思い出である。
                      

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