さる9月8日、私の母が永眠しました。
8月下旬に癌の痛みのため、六甲病院の緩和ケア病棟に入院し、痛みを押さえつつ、治療のため、大学病院などを頼って紹介を掛けていたのですが、その間も割と元気で、私が九州出撃の時にも元気な声での電話こそあったのですが少し気になっていたところ、その2日後に容態が急変し、病院からはもう永くないので覚悟するようという内容の連絡が入りました。
急いで病院へ行きましたが、かなり弱っている様子で、その日は1日中寝ている状態でした。
1日は仕事に出たのですが、2日に危篤の知らせが入り、その日から会社を休むことに。
状況は一進一退を続け、意識不明から2度も奇跡的な回復をし、「何か食べたい」と食欲も訴えるほどだったのですが、遂に力尽き、最後は眠るように静かに息を引き取りました。
ナースコールのボタンが押せないため、この間は家族が24時間交代の付きっきりで看病をする必要があり、毎日3~4時間しか寝れない日が続きましたが、我々息子としても出来るだけの力は尽くしたつもりでした。
翌9日通夜、10日に葬儀を済ませ、骨壷となって自宅へ帰りました。
今後は七日ごとの法要があり、お寺さんへの対応や、その他諸々の手続きなどで、バタバタする日が続きます。もちろん撮影に出ることなど出来ません。
出撃自体は年末・年始あたりに再開できればと思いますが、予定見通しがつきません。このため、こちらのブログの方も出撃に関する更新は基本的にしばらくお休みにします。
六甲病院から見た神戸の風景、希望の虹が見えたのですが・・・
8月下旬に癌の痛みのため、六甲病院の緩和ケア病棟に入院し、痛みを押さえつつ、治療のため、大学病院などを頼って紹介を掛けていたのですが、その間も割と元気で、私が九州出撃の時にも元気な声での電話こそあったのですが少し気になっていたところ、その2日後に容態が急変し、病院からはもう永くないので覚悟するようという内容の連絡が入りました。
急いで病院へ行きましたが、かなり弱っている様子で、その日は1日中寝ている状態でした。
1日は仕事に出たのですが、2日に危篤の知らせが入り、その日から会社を休むことに。
状況は一進一退を続け、意識不明から2度も奇跡的な回復をし、「何か食べたい」と食欲も訴えるほどだったのですが、遂に力尽き、最後は眠るように静かに息を引き取りました。
ナースコールのボタンが押せないため、この間は家族が24時間交代の付きっきりで看病をする必要があり、毎日3~4時間しか寝れない日が続きましたが、我々息子としても出来るだけの力は尽くしたつもりでした。
翌9日通夜、10日に葬儀を済ませ、骨壷となって自宅へ帰りました。
今後は七日ごとの法要があり、お寺さんへの対応や、その他諸々の手続きなどで、バタバタする日が続きます。もちろん撮影に出ることなど出来ません。
出撃自体は年末・年始あたりに再開できればと思いますが、予定見通しがつきません。このため、こちらのブログの方も出撃に関する更新は基本的にしばらくお休みにします。
六甲病院から見た神戸の風景、希望の虹が見えたのですが・・・
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