りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

春のアレンジメント

2024-03-30 07:29:45 | フラワーアレンジメント
春の草花でアレンジメント。











この可愛いカゴもお気に入りです😀 


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思い立ったら中山道 その①-5

2024-03-27 07:30:43 | 旧中山道
お腹いっぱいで再出発です。
「旧東海道散歩」は勝手知ったるルート・・・ということで、どんどん進みます

「逢坂山関址」 

休憩所は
今もまだ工事中でした😔 
 
「逢坂常夜燈」
😀 逢坂常夜燈は1794年(寛政6年)建立されました。
 
「関蝉丸神社上社」
 

「旧逢坂山ずい道東口」の前を通過し・・・

「逢坂一丁目交差点」・・・この辺りが大津宿の西側入口でした。
😀 大津宿に入ります。江戸時代、大津宿は東海道五十三次の宿場の中で最大の人口を有し、大変賑わっていました。
 
 667年(天智天皇6 年)天智天皇は飛鳥(奈良県)から近江へ遷都(せんと)し、この頃から大津は近江商人の町として栄えました。
近江商人は日本三大商人(他は、大坂商人、伊勢商人)の一つで、伊藤忠商事、トヨタ自動車、三井、住友、西武、高島屋など日本を代表する多くの企業が近江商人の流れを汲むそうです 。
 
「安養寺」

 
 
「関蝉丸神社下社」に立ち寄ります。
 
「旧東海道散歩」で訪れた時は、本拝殿は老朽化し、ブルーシートで覆われ、荒れ果てた雰囲気だったので心配していたのですが・・・

 
 クラウドファンディングなどで修復費を募り、2023年6月修復工事が完了したそうで、 現在はこのような立派な神社へ復活していました
 
 
 
 
😀 嬉しくて境内をゆっくり見学させていただきました。
 
境内に植えられていたこの植物は・・・
 
「さねかずら」
 
百人一首「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな」(三条右大臣)に登場する植物です。
恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。 
 
平安時代、さねかずらのツルの皮から出てくる粘液を、整髪剤として使っていたそうです。
 
おみくじ(蝉丸大明神歌御鬮)を引きました。

 
結果は「三」・・・

 
「吉」でした。

 
そして「十」は・・・

 
「凶」でした😱 
 
まあ、くじの結果はこのような感じでしたが😅 ・・・
関蝉丸神社下社の復活を見て、我々も歩く意欲が復活しました
 
(つづく)
 
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思い立ったら中山道 その①-4

2024-03-23 07:41:00 | 旧中山道
しばらく歩いていると、ご自宅の前に立っていた女性に声をかけられました。
京都の三条大橋から中山道で日本橋を目指していることをお伝えすると、
 「あら~大変。そうだ!良いものをあげる。ちょっと待ってて!」
と家の中へ・・・。
戻って来られると
 「はい。後ろを向いて!」
 
旅のお守りに・・・と、可愛い「福鈴」をリュックにつけてくださいました。



かつては「組紐(くみひも)」を制作するお仕事をしていたそうで、組紐の先生として地方へも教えに出向いていたそうです。
😀 ご自宅には綾竹台(組紐を組むときに使う台)もありました。

招いていただいた玄関には、手の込んだ素敵な組紐の作品が飾られていました。
 
 「せっかくだから、これも触って行きなさい!」
と突然、石のようなものを手渡されました。
 「これは2億5千万年前のアリゾナの木の化石。パワーもらえるわよ~。私は80年以上、病気したことないの。」
(この数週間後、ラグビー南アフリカ代表の「チェスリン コルビ」選手に街で偶然出会えたのは、この木の化石のパワーだったのかもしれません😆
とてもチャーミングで素敵な女性でした。
福鈴もありがとうございました。大切にします😊 

旅を再開・・・歩道橋を渡ります。
 
京都方面と・・・
 
大津方面の景色。
 
鰻料理の老舗「かねよ」の看板が見えてきました。
 
この辺りに「走井の一里塚」があったそうですが、場所は特定できないそうです。

「右一里丁、左大谷町」の石碑。
 
月心寺の塀越しに「明治天皇駐蹕之処」の石碑が見えました。
 
「大算盤(そろばん)の始祖」の碑。
 
 
 日本橋から487km。


歩道橋を渡ると・・・・


京阪京津線「大谷駅」


「関蝉丸神社分社」



あのお店が近づいてきました。



開店10分前の絶妙なタイミングで鰻の老舗「逢坂山かねよ 本店」に到着したので・・・




「旧東海道散歩」と同様に今回もこちらで昼食を頂くことにしました。
😀 やはり人気店・・・開店後、広い店内はすぐに満席となりました。

「特上きんし重」と・・・

「特上鰻まむし」


鰻屋さんですが、注文後それほど待たずにお食事が提供されるのも嬉しいポイント!
今回もとても美味しかったです😋 

(つづく)
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水戸探訪 その2

2024-03-19 07:46:07 | お出かけ
偕楽園を出て移動していたところ人混みに遭遇しました。
皆さんが待っていたのは豪華列車「四季島」

 
車両の色は「四季島ゴールド」と呼ばれ、鉄道ファンに人気があるそうです。

 
四季島が偕楽園駅に入線するのは、5年ぶり2度目・・・偶然、珍しい場面に遭遇しました。
 
駅に到着すると、乗客が下車し、偕楽園へ。うん?でも参加者少なくない?坂道上るのが嫌で偕楽園へ行かない人もいるのかな?などと思っていたのですが・・・調べてみると四季島の乗客は限定 16組32人!😲 
32人のためのこの長い列車・・・さすが豪華列車ですね。
 
千波湖へ。
 
湖畔には「徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像」
😀 偕楽園を造園した徳川斉昭は、徳川最後の将軍、徳川慶喜の父・・・斉昭が七郎麻呂に世の正しい道を指し示し、七郎磨がそれに応え、斉昭を仰ぎ見ています。
 
駐車場の近くに可愛いボンネットバスが停車していました。
 
梅まつりの期間中、3日間のみ無料で水戸市内を周遊できると知り、早速乗車することにしました。
 
車内は当時のまま使用されています。
 
 
車内販売された缶バッジ(500円)を購入しました。

😀 購入代金はバスの保存のために使われるとのことで、飛ぶように売れていました。
 
男性ガイドさんの説明を聞きながら、水戸市内の観光ポイントを巡ります。
我々は「弘道館」で下車しました。

 
弘道館は、江戸時代後期、水戸藩に作られた国内最大規模の藩校で(面積約32,000坪)、学問と武芸を教えていた総合大学のような場所でした。
文武修行の場の「弘道館」と余暇に心身を休める「偕楽園」は、一対の教育施設として創設されたそうです。今の時代にも支持される考え方😀 
最後の将軍徳川慶喜は、幼少期に弘道館で学び、大政奉還後はこの場所で約4カ月の謹慎生活をおくりました。
 
「正門」
😀正門を通るのは藩主のみ。 この日は特別に開門していましたが、通常は閉門しているそうです。
 
学生や諸役人は「通用門」から出入りしました。

 
 よく見ると、遠くに黄門さまが写り込んでいました😆 
 
弘道館の中心的な建物「正庁(せいちょう)」の玄関には  斉昭自筆の「弘道館」扁額が掲げられていました。
 
来館者の控えの間「諸役会所」
😀 床の間には「尊攘」の掛け軸・・・幕末の尊皇攘夷思想は、水戸学から生まれました。

 
武術の試験などが行なわれた 「対試場」
 

 
そういえば、新選組と行動を共にした「芹沢鴨」も弘道館出身ということで一目置かれていました。
 
2代目藩主「徳川光圀(みつくに)」の時代から始まった「大日本史」
😀 完成までに200年以上かかったそうです。水戸藩、頑張りましたね。
 
帰路もボンネットバスで・・・千波湖へ戻りました。
 
 
 

 
千波湖の湖畔には、徳川光圀(水戸黄門)の像もありました。
 
バスから見た水戸の街も魅力的でした。次回は宿泊で再訪したいと思います。
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水戸探訪 その1

2024-03-16 07:39:27 | お出かけ
日本三名園「水戸偕楽園」を訪れました。

水戸偕楽園を訪れるのは2回目ですが、梅の季節は初めてです。

江戸時代、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)によって造園されました。

「御所紅(ごしょべに)」


梅の女王「見驚(けんきょう)」

「黒田」

お弁当を買い、梅の木の下でお昼にしました。
😀 華御前と梅づくし弁当・・・美味しかったです。

「好文亭(こうぶんてい)」へ。
😀名前は 梅の異名である「好文木」に由来してます。晋の武帝の「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かなかった」という故事から斉昭が命名しました。

(水戸空襲で全焼しましたが)昭和30年復元された木造三階建ての好文亭本館と平屋の奥御殿を見学できます。
梅まつり開催中で混雑していたため、長蛇の列に従ってゆっくりと廻りました。

まずは奥御殿から見学。
奥御殿は、主に藩主夫人の休養の場として使用されていました。

菊の間と


桃の間は、来客用の台所として使われました。



つつじの間と・・・

紅葉の間は、藩主夫人付の女中用の部屋。


松の間は藩主夫人用。


竹の間。

良く見ると欄間にも竹が施されていました。

梅の間。
😀 大正天皇が皇太子時代、こちらの部屋に宿泊されたそうです。

南天が描かれた「梅の間入間 」


萩の間と・・・


桜の間は、藩主夫人付の女中の控室。

太鼓廊下を通って(現在、見学者は通行不可)、奥御殿から好文亭本館へ入った所が「華燈口」
😀茶坊主が控える小部屋で、周囲には古今集の和歌(短冊)が貼られていました。

その先の「東塗縁広間」では、斉昭が領内の80歳以上の家臣と、90歳以上の庶民を招いて、養老の会を開いた場所です。 大奥から最も嫌われていたと伝わる「徳川斉昭」・・・ドラマでは悪役として登場することが多い人物ですが、このような一面もあったのですね😊 


好文亭本館の藩主の間は、とても質素。
😆  藩主夫人用の奥御殿の方が、ずっと豪華です。

徳川斉昭の奥様は有栖川宮織仁親王(ありすがわのみや おりひとしんのう )の第12王女「吉子女王」・・・斉昭は側室が多く、37人の子供がいましたが、夫婦仲は良かったそうです。斉昭死後、明治2年から明治6年まで好文亭に住んでいたそうです。波乱万丈の人生・・・吉子女王についてもう少し詳しく知りたくなりました。

3階の楽寿楼からの景色は・・・

絶景でした。



前回訪れた時に、最も印象に残った「配膳用昇降機」

😉  当時、人力のエレベーターを使って、3階と1階で配膳の上げ下げをしていたそうです。

園内の広い梅林を散策しました。

偕楽園には約100品種、3000本の梅が植えられているそうです。

マンホールのデザインは「梅と好文亭」


ツグミも遊んでいました。


春の偕楽園で梅を存分に楽しむことができました。

(つづく)
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