りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その45-② 蟹が坂~

2020-07-30 07:11:00 | 旧東海道散歩
森白仙(森鴎外の祖父)終焉の地「井筒屋跡」

niko森白仙は津和野藩の典医でした。参勤交代に随行していましたが体調を崩し、1861年(文久元年)江戸から津和野へ戻る途中、この井筒屋で急死してしまいました。

1900年(明治33年)森鴎外が白仙のお墓参りの際に宿泊した「平野屋跡」


「堤家(二階屋)本陣跡」


「東海道伝馬館」は残念ながら閉館中。


敷地内に可愛いアンパンマンの遊具がありましたmeromero2


「問屋場跡」


1634年(寛永11年)三代将軍徳川家光が上洛の際に建てられた「土山宿本陣跡」

niko明治天皇の17歳のお誕生日はこの場所で過ごされたそうです。敷地内には井上博士の漢詩がありました。
「鈴鹿山の西に 古よりの駅停あり。秋風の一夜、風輿停る。 維新の正に是、天長節なり。恩賜の酒肴を今尚馨る。」

家の前に信楽焼のたぬき・・・そういえば信楽も甲賀市でしたlight


土山公民館には徳川幕府に使えた江戸前期の儒学者「林羅山」の漢詩がありました。

niko「東から西、西から東へと長く旅をしていると、途中のいろいろな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。」

江戸中期の俳人、高桑闌更の句碑 

niko「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」

「大黒屋本陣跡」の敷地内には「問屋場跡」と・・・

niko幕末、堤家本陣が衰退すると大旅籠の大黒屋が代替の本陣となりました。

「高札場跡」「明治天皇聖跡」の石碑がありました。


「土山陣屋跡」

niko陣屋とは代官屋敷のことです。1800年(寛政12年)土山宿の大火災で焼失した後、陣屋は信楽に移りました。

吉川に架かる「大黒橋」

niko大黒屋が土橋から石橋に架け替えた橋です。こちらの橋の欄干にも陶板で「鈴鹿馬子唄」や当時の様子が描かれていました。

南土山交差点で国道1号線に合流します。

niko合流する三角地帯には「土山宿」の道標と「万人講常夜燈」(鈴鹿峠にもありましたね。)がありました。

振り返ると・・・このような道を歩いて来ました。この辺りが土山宿の西側入口です。


国道1号線沿いを進むと道標が2基ありました。

niko1788年(天明8年)建立された高野世継観音(永願寺)への道標「たかのよつぎかんおんみち」と1807年(文化4年)建立された北国街道への道標「右、北国たが街道ひの八まんみち」

「旅籠追分屋跡」


江戸時代の旧東海道は、ここから右側の脇道に入り「松尾川の渡し場」で川を渡りましたが、現在は行き止まりなので・・・

nikoこの案内板が「行き止まり」を教えてくれました。

国道1号線から左側の脇道に入り迂回します。


この辺りは旧東海道ではありませんが・・・


のどかな景色が続きます。


野州川(江戸時代は松尾川と呼ばれていました)に架かる「歌声橋」


懐かしいポップコーンの自動販売機・・・そろそろお腹が空いてきました。


(つづく)

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旧東海道散歩 その45-① 蟹が坂~

2020-07-27 11:18:00 | 旧東海道散歩
昨日の疲れが残っていますが、今日も旧東海道散歩・・・蟹が坂交差点まではタクシーtaxiで向かいました。

nikoここから再出発!

「蟹坂古戦場跡」

niko1542年(天文11年)9月、伊勢の北畠軍は甲賀に侵入しようと鈴鹿峠を越えて山中城を攻めました。山中城主、山中丹後守秀国はこの地で迎え撃ち、、山中軍5千VS北畠軍1万2千の戦いは山中軍が勝利したそうです。



見えてきました。


「高札場跡」と・・・


「海道橋」

nikoかつて田村川に架かっていた田村橋を復元した橋です。

歌川広重「東海道五十三次之内 土山 春之雨」

nikoこの辺りは年間雨量が多い場所でした。雨で水量が増えた田村川が描かれています。1775年(安永4年)架けられた田村橋・・・低い欄干が付いた橋は、当時としては珍しかったそうですが、しとしとと降る雨の中、笠と袖合羽姿の大名行列はわき目もふらず足早に渡って行きます。木々の向こうにぼんやりと見えるのは田村神社ですね。

海道橋を渡ります。

niko土山宿の東側入口です。

井上士朗の句碑 「鮎の背に 朝日さすなり 田村川」

niko井上士朗は江戸時代後期の俳人で、名古屋で評判の医師でもありました。

かつては・・・橋を渡ると「橋番所」と「高札場」がありました。


1775年(安永4年)田村橋が架けられると、旧東海道は田村神社参道を通るように変更されたそうです。


812年(弘仁3年)創建と云われる「田村神社」

niko坂上田村麻呂公を主祭神として、嵯峨天皇、倭姫命(やまとひめのみこと)を祀っています。

本殿前の「矢竹」

niko平安時代、鈴鹿峠の山賊を退治した坂上田村麻呂は「今や悪鬼も平定された。 これより後は、この矢の功徳を以て万民の災いを除くこととする。 この矢の落ちた地に私を祀りなさい」と言って矢を放ち、 そこから青々とした芽が生えてきました。それがこの矢竹と云われています。

参道(ここも旧東海道の一部です)を抜け、歩道橋を渡り・・・


道の駅「あいの土山」で一休み。

niko忘れかけていましたが、ここは甲賀市・・・忍者の里でした。

「土山宿の碑」がある公園の前を通り・・・


一本道を進みます。


土山宿も屋号の木札が掲げられていました。


「地蔵堂」の近くには・・・


上島鬼貫句碑 「吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風」

niko当時、東の芭蕉、西の鬼貫と呼ばれた俳人でした。お六櫛は土山宿のの名産で、かつては十数件の櫛屋があったそうです。

扇や櫛を販売していた商家「扇屋伝承文化館」


「地蔵堂」と「旅籠大槌屋跡」


日本橋から110理の「土山一里塚」


「旅籠車屋跡」「油や権右衛門」「旅籠寿し屋跡」


来見川に架かる「来見橋」を渡ります。

niko橋の欄干には陶板で「土山茶もみ唄」や江戸時代の土山宿の様子が描かれていました。

「白川神社」


土山宿にも旅籠が多かったようですね。


それぞれの家の塀の上には可愛い大黒様や恵比寿様が鎮座されていました。


(つづく)

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幻の五輪

2020-07-24 23:17:00 | ノンジャンル
外出自粛ムードの連休・・・本来であれば今日は「オリンピック開幕日」のはずでしたhorori

昼間、日本青年会議所が新しい日本をはじめる合図として全国121カ所で一斉に花火が打ち上げられる…「全国一斉花火プロジェクト~はじまりの花火~」(打ち上げ場所は非公開)の情報をキャッチkirakira
ということで、今回も念のためリバーサイドへ行ってみると・・・

見えましたok


しかも2か所から花火が打ち上がる様子を見ることができました。




6月のサプライズ花火よりもだいぶ遠かったのですが・・・


川面に花火が写り・・・


とても綺麗でした。








少しだけ動画も撮りましたmeromero2(低画質ですがase2
動画img_0296.mp4

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トマト収穫中

2020-07-20 07:04:00 | ガーデニング
夏の楽しみ・・・中玉トマトとミニトマトを育てていますtomato


色づいたトマトを一つ一つ吟味して収穫tomatotomato


自分で育てたトマトは特別ですmeromero2



今年は収穫した数も記録していますtomatotomatotomato


niko左がミニトマト、右は中玉トマトの数です。


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武相荘

2020-07-17 07:27:00 | お出かけ
「町田の鶴川に、とても偉い人が戦争中に転居して来て、ひっそりと住んでいるらしい」という噂を聞いたのは、子供の頃・・・祖母との他愛のない会話の中だったように記憶しています。
今思えばそれが「武相荘」・・・偉い人は白洲次郎、正子夫妻のことでした。


白洲次郎は貿易商の次男として生まれ、イギリス留学を経て、戦後、吉田茂の側近として活躍した人です。留学中はベントレーに乗り、初めてジーンズを履いた日本人と云われています。


白洲正子は伯爵樺山家の次女として生まれ、戦前にはアメリカ留学の経験もある随筆家です。


訪れたのは、まだ外出自粛もなかった穏やかな冬の日。


休憩所には次郎が使用していた車と同型の車が展示されていました。




長屋門


「旧白洲邸 武相荘」は武蔵と相模の国境に位置していることとご夫妻の気質をユーモアを交えて表現した「無愛想」を掛け合わせて次郎が名付けたそうです。


現在は記念館・資料館として一般公開されています。


茅葺屋根の主屋・・・室内を見学できますが、撮影は禁止でした。


室内はレトロと和洋折衷の独特の世界。
サンフランシスコ講和条約締結時に吉田茂首相が演説の時に使った(次郎が尽力したという)原稿の複製、正子の直感で収集された骨董品や着物も展示されていました。当時のまま保存された正子の書斎、囲炉裏、そして薄墨で書かれた「戒名不用、葬式不用」の次郎の遺言。

二人の美意識に圧倒されたまま・・・散策路を散歩。


「PLAY FAST」の看板に背中を押されるように階段を上ると・・・


イギリスのパブのような(バースタンドがある)部屋があり、壁には二人が出会った頃の大きな写真がありました。


「PLAY FAST」(さっさと、やれ!)は次郎の口癖だったそうです。
料理を作らない正子は、収集したお皿を自分の料理のために使うことはありませんでした。

大人になった今も「偉い人」は遠い存在・・・二人のことをもう少し知りたくなりました。

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