江戸より19番目の「小八幡の一理塚」跡。
この散歩を始めた時、最初の一理塚がものすごく遠く感じられましたが、気が付けば19番目。
一里の距離感もつかめてきた気がします。
杉並木を歩いている、目を引く立派な黒壁と門。
説明板はありませんでしたが、調べるとと「川辺本陣跡」でした。ということは、ここも「間の宿」・・・ということですね。現在は児童養護施設となっています。
酒匂(さかわ)川と酒匂橋。
江戸時代、酒匂川には橋がありませんでした。(江戸を防衛するために)幕府は渡し船も認めなかったので、旅人は渡し場から輦台(れんだい:人が担ぐ板)に乗ったり、人夫に肩車されたり、自ら徒歩で・・・といった方法で川を渡るしかなかったようです。旅人にとって大きな川はとても不便で、印象深い場所。小田原には立派な小田原城があるにも関わらず、旅人が小田原といって思い浮かべるのは酒匂川だった。・・・故に、多くの浮世絵に描かれているのでしょう。
歌川広重 「東海道五十三次之内 小田原宿 酒匂川」
川の東側の渡し場は、今の酒匂橋のたもと辺りにあり、西側は100m程上流の八幡神社の近くにあったそうです。
川が増水すると川を渡ることはできないので、「間の宿」が利用されていたのですね。
少し寄り道をして「新田義貞首塚」へ。案内板はありますが、少しわかりにくい場所にあります。
新田義貞は、「鎌倉攻め」で有名な鎌倉幕府を滅ぼした鎌倉末期の武将ですが、足利尊氏に敗れ、越前国(福井県)藤島で討死し、38歳の生涯を閉じました。義貞の家臣が足利尊氏から義貞の首を奪い返し、義貞の本国である上野国(群馬県)に葬るために東海道を進んでいたところ、この辺りで病気となってしまい、やむなく義貞の首をこの地に埋葬したと云われています。(首塚は他の場所にもあり、諸説あるようです。)
旧東海道へ戻り、山王川を渡り・・・
「山王神社」
山王神社の近くに「江戸口見附跡」
小田原城下に入る東側の出入り口で、ここから小田原宿となります。
この近くの海寄りに江戸より20番目の「山王原村一理塚」があったそうです。
![niko](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ap/niko.png)
大正時代の江戸口見附の様子です。
新宿交差点を左折して、蹴上(けあ)坂を登ると・・・小田原名物「かまぼこや」さんが建ち並ぶ通りに出ました。すっかり日も暮れて、静かな町並みです。
童謡「おさるのかごや」で有名な「小田原提灯」
♪エッサ エッサエッサホイサッサ おさるのかごやだ ホイサッサ
日暮れの山道 細い道 小田原提灯ぶらさげて ソレ
ヤットコ ドッコイ ホイサッサ ホーイホイホイ ホイサッサ♪
小田原提灯は、「畳んで携帯できる便利な提灯」として江戸時代に大ヒットしたそうで、小田原宿には多くの提灯造りの家があったそうです。
静かな町並みを抜けると・・・「小田原宿なりわい交流館」。
夜の町に、雰囲気のある素敵な構え。小田原の観光案内所です。
江戸時代は旅籠で、大正時代は魚網の問屋だったそうです。中に入ると、冷たい麦茶でもてなして下さいました。喉が渇いていたので、美味しかった~!ご馳走様でした!
誰でも立ち寄れる「お休み処」・・・という役割もあるそうで、我々と入れ違いに「こんばんは~!また来ちゃいました~!」と地元の若者が入って行きました。住んでいる町に、このような憩いの場所があるというのは羨ましいです。
北へ向かうと・・・ライトアップした和食料理店「だるま」が目を引きます。
商店街にはスモーク専門店。割引してくれたので、思わず購入。美味しかったです。
「JR小田原駅」に到着。
駅の改札には大きな小田原提灯が!
発車メロディーは、やはり「おさるのかごや」でした。(しばらくこの曲が頭から離れず・・・困りました。)
20,090歩の散歩でした。
(2015.9.22)