乗運寺の前の道を進み、松並木を抜けると海辺の防波堤に到着。
防波堤の左側は駿河湾。右側の駐車場のさらに奥が「千本浜公園」です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/88/baddde6856748227d7d1d3ef4559deca.png)
公園内には、たくさんの立派な黒松。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/ea/787a2e2b8748096e37b603e515dbb468.png)
あっ!先程、乗運寺で見かけた「増誉上人(ぞうよしょうにん)」像がここにも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/08/a5e6131fe8d33955989daf5d858248b3.png)
元々この地にあった松原は、戦国時代の合戦でことごとく伐り払われてしまい、人々は塩害を受け困窮していました。塩害を防ぐため松の苗を植えようとしますが、なかなか根がつきません。
ある時この荒れ果てた土地に旅の僧・長円(増誉上人)がやって来ました。苦しんでいる人々を目の当たりにした長円は、松を1本1本お経を唱えながら手植えしたそうです。
「1本植えては南無阿弥陀 2本植えては南無阿弥陀・・・」
すると松の苗の根がつき、成長し・・・人々は塩害を逃れることができたそうです。
この松は5年の歳月をかけて千本植えられたことから「千本松原」と呼ばれるようになりました。
現在は30万本以上の松が、駿河湾岸沿い(沼津~田子の浦港)約10kmに植えられているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/6b/b60a982fff77e3f098784a9c65fe4835.png)
千本松原を愛した「若山牧水の碑」も千本浜公園内にありました。
村の人々は感謝し、草庵を建てました。それが先程訪れた「乗運寺」だったのです。境内には「若山牧水」のお墓もあるそうです。
この話しに感銘を受けた我々はもう一度「乗運寺」を訪れることにしました。
千本松通りに戻ると「首塚」がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/0e/61b9f41b29646ad4bda37eb643493d5d.png)
明治35年、暴風雨で倒れた大杉の下から多数の骨が発見されました。
地元の人々は塚を築き、「お首さん「と呼び手厚く葬ったそうです。
地元では「戦国時代、小田原北条氏と甲州武田氏の戦いの戦死者の人骨」と云い伝えられて来ましたが、昭和29年の調査で戦国時代の人骨であることが確認されたそうです。
「乗運寺」に到着。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/84/51a929d874d3f6aacca983cbb32e5bd7.png)
庭園の立派な松は・・・千本松原に由来するのですね。
若山牧水のお墓もお参りしました。
そして長円(増誉上人)の像。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/31/0961fec5b708459d0e94699ea693aa3f.png)
ほんの少し前に無知で訪れたこのお寺・・・不思議なものですね。
「知る」ということが、これほど印象を変えるのだと実感しました。
それにしても・・・「1本植えては南無阿弥陀 2本植えては南無阿弥陀・・・」この言葉が頭から離れなくなりました。
旧東海道へ戻ります。
ゴジラの滑り台が斬新な「永明保育園」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/a1/1b7512412c89644f33638eb7e85e4e28.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/79/d05c8c9e83a9bb7da61a9c708ed441c1.png)
さらに進むと西側の「沼津藩領榜示杭」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/f8/dbceaa6ab2ab7376bade26565db0ccf6.png)
今は「従是東」の部分しか残っていませんが、実はこの下に「沼津領」と刻まれていました。
これから先は単調な長い一本道が続きます。
(つづく)
防波堤の左側は駿河湾。右側の駐車場のさらに奥が「千本浜公園」です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/88/baddde6856748227d7d1d3ef4559deca.png)
公園内には、たくさんの立派な黒松。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/ea/787a2e2b8748096e37b603e515dbb468.png)
あっ!先程、乗運寺で見かけた「増誉上人(ぞうよしょうにん)」像がここにも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/08/a5e6131fe8d33955989daf5d858248b3.png)
元々この地にあった松原は、戦国時代の合戦でことごとく伐り払われてしまい、人々は塩害を受け困窮していました。塩害を防ぐため松の苗を植えようとしますが、なかなか根がつきません。
ある時この荒れ果てた土地に旅の僧・長円(増誉上人)がやって来ました。苦しんでいる人々を目の当たりにした長円は、松を1本1本お経を唱えながら手植えしたそうです。
「1本植えては南無阿弥陀 2本植えては南無阿弥陀・・・」
すると松の苗の根がつき、成長し・・・人々は塩害を逃れることができたそうです。
この松は5年の歳月をかけて千本植えられたことから「千本松原」と呼ばれるようになりました。
現在は30万本以上の松が、駿河湾岸沿い(沼津~田子の浦港)約10kmに植えられているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/6b/b60a982fff77e3f098784a9c65fe4835.png)
![niko](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ap/niko.png)
村の人々は感謝し、草庵を建てました。それが先程訪れた「乗運寺」だったのです。境内には「若山牧水」のお墓もあるそうです。
この話しに感銘を受けた我々はもう一度「乗運寺」を訪れることにしました。
千本松通りに戻ると「首塚」がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/0e/61b9f41b29646ad4bda37eb643493d5d.png)
明治35年、暴風雨で倒れた大杉の下から多数の骨が発見されました。
地元の人々は塚を築き、「お首さん「と呼び手厚く葬ったそうです。
地元では「戦国時代、小田原北条氏と甲州武田氏の戦いの戦死者の人骨」と云い伝えられて来ましたが、昭和29年の調査で戦国時代の人骨であることが確認されたそうです。
「乗運寺」に到着。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/84/51a929d874d3f6aacca983cbb32e5bd7.png)
庭園の立派な松は・・・千本松原に由来するのですね。
若山牧水のお墓もお参りしました。
そして長円(増誉上人)の像。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/31/0961fec5b708459d0e94699ea693aa3f.png)
ほんの少し前に無知で訪れたこのお寺・・・不思議なものですね。
「知る」ということが、これほど印象を変えるのだと実感しました。
それにしても・・・「1本植えては南無阿弥陀 2本植えては南無阿弥陀・・・」この言葉が頭から離れなくなりました。
旧東海道へ戻ります。
ゴジラの滑り台が斬新な「永明保育園」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/a1/1b7512412c89644f33638eb7e85e4e28.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/79/d05c8c9e83a9bb7da61a9c708ed441c1.png)
さらに進むと西側の「沼津藩領榜示杭」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/f8/dbceaa6ab2ab7376bade26565db0ccf6.png)
今は「従是東」の部分しか残っていませんが、実はこの下に「沼津領」と刻まれていました。
これから先は単調な長い一本道が続きます。
(つづく)