今回はJR平塚駅からスタート。
平塚といえば「七夕」。駅の発車メロディは童謡の「たなばた」でした。
まずは駅前のお蕎麦屋さんでランチ。カレー蕎麦が美味しかったです。
商店街の中にある紅谷町公園へ。
この公園の片隅には、怪談「番町皿屋敷」の主人公お菊のお墓があったと伝わる「お菊塚」があります。(現在,お墓はお寺に安置されているそうです。)
うっそうとした雰囲気。
『新形三十六怪撰 皿やしき於菊乃霊」(月岡芳年)
お菊は平塚宿の役人の娘で、江戸番町の旗本屋敷へ行儀見習い奉公に出ていましたが、主人が大切にしていたお皿を無くしたため、屋敷内の井戸に投げ込まれて殺されてしまったのです。その後恨みを抱いたお菊が幽霊となって夜な夜な井戸から現れた・・・というお話し。当時は罪人扱いで墓石を建てることも許されなかったそうで、考えてみれば可哀想な女性です。今、井戸から出てきたら、その不運な一生を一緒に嘆いてあげたい気分です。
旧東海道へ戻り平塚宿(江戸方)見附跡。
平塚宿の中心地。
本陣跡。脇本陣跡。高札場跡。
問屋場跡は、今は消防署です。
平塚宿と次の大磯宿の間はたった3km。東海道の宿間の中で3番目に短いそうです。
平塚の西側には徳川家康が鷹狩のために旅宿ととした中原御殿(別荘)がありました。
💁中原御殿 (1839年 中原御宮記より)
家康は頻回にこの中原御殿を利用していたため、その手前に平塚宿ができたのではないかという説があります。
江戸時代の川柳に「平塚の宿は毒にも薬にも」と詠まれるくらい、当時は魅力のない宿場だったようで、しかもあと少し歩くと大磯宿ですから、素通りされたり、せいぜい休憩に使われる程度でした。
そのため平塚宿では留女(とめおんな)達の強引な客引きが盛んだったようです。
💁この絵は御油の留女 ですが…引き留め方がかなり強引な様子がわかります。
平塚宿から前方にみえる高麗山を指して、「お客さん、大磯宿は直線距離では近いけれど、あの山を越えないといけない。結構大変だ。まずここで一泊して明日あの山を越えた方がイイよ!」などと親切顔をして泊まらせるのです。しかし実際は、旧東海道は高麗山の前を通っているので山を登る必要はありません。嘘なのです。ひどい話しですが、それだけ宿場の人も必死だったのでしょう。
西組問屋場跡。
旧東海道から横道に入っていくと、突き当りに「要法寺」。
日蓮上人が立ち寄られたといわれるお寺です。門の前に「ご自由にお入りください」という札。旧東海道を歩いていると門を閉じて完全シャットアウトのお寺や関係者以外立ち入り禁止のお寺に出会いました。いろいろ事情はあるのだと思いますが、こういう札に出会うととても嬉しい気分になります。ありがたく中へ入ると・・・・すごい!!
ちょうど睡蓮が満開の時期でした。大鉢にたくさんの種類の睡蓮が開花しています。このような大輪の睡蓮の花を間近で見るのは初めて。良い時期に訪れることができてラッキーでした。
要法寺の隣は「平塚の塚緑地」。
ここが平塚の地名の由来になったと言われる場所です。
桓武天皇三世の孫娘、平真砂子(たいらのまさこ)は都から東国へ向かう際に急病で亡くなってしまいました。
この「平氏の姫の墓(塚)」があるということで、この地域が「平塚」と呼ばれるようになったそうです。
(諸説あるようです。)
ベンチで一休み。この日は猛暑日でしたが、風が通って、とても涼しく感じました。
お隣の公園では、夏祭りの予行練習中でした。
平塚の塚緑地の隣は平塚宿の鎮守「春日神社」。
お参りをしていたら、お若い神主さんが声をかけて下さいました。この日は春日神社の例大祭だったそうで、「朝から近所の方々にお配りしていたものです。よろしかったらお持ち帰りください」と我々まで撒撰を頂いてしましました。中には駄菓子(子供の頃大好きだった「にんじん」も!)やお茶、つきたてのお餅まで入っていました。
旧東海道を歩いていると、時々このような素敵な出会いがあります。どこの誰かもわからない私たちに優しくしてくれる人々・・・。我々もどこかで誰かにお返ししなければ・・・という気持ちにさせてくれます。
お餅は自宅に帰って、早速焼いて頂きました。とても美味しかったです!
お茶は「神様から頂いたお茶」として、今も大事に冷蔵庫の中に入っています。
(つづく)