沓掛(くつかけ)坂を下り、急カーブの「二の曲がり」を過ぎると・・・
「日乃坂神社」
さらに坂道を下ると集落が見えてきました。
坂の途中にボロボロの木製の看板を発見!
意味ありげに「うどん屋」「千歳屋」「越前屋」の文字が(一部消えかかっていますが)読み取れます。
近くには広重の浮世絵が描かれた絵碑もあります。
歌川広重「狂歌入東海道 日阪」
「あたらしく 今朝にこにこと わらび餅 をかしな春の 立場なるらん」倭園琴桜
後醍醐天皇が好物だったと云われる「わらび餅」はわらび粉が使われた高級品です。日坂の名物「わらび餅」は、くず粉で作り、豆の粉をまぶした安い「くず餅」を「わらび餅」として売っていたようです。立場は茶屋のことですから、この辺りの茶屋でも「わらび餅」が売られていたのでしょう。
実は大人になるまで、「くず餅」と「わらび餅」は同じものだと思っていました。わらび粉を使った「わらび餅」を初めて食べた時、その食感の違いにとても驚きました。
正直に言います。わらび粉を使った「わらび餅」の方が好きです。
説明板は特にありませんが・・・この辺りが広重が描いた「日坂宿」の東側入口ではないでしょうか。
国道1号線日坂バイパスの下を通過すると・・・
街道沿いの家には屋号の看板が掲げられ、「江戸時代の日坂宿」を想像しながら歩きます。
「秋葉常夜燈」
日坂宿はしばしば火災に見舞われたため、火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んだったようです。
旧東海道を散歩していると、各地で秋葉常夜燈に出会いました。
それほど信仰されていた「秋葉山本宮秋葉神社」・・・いつか訪れてみたいと思いました。
江戸時代の「日坂(にっさか)宿」は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒の小さな宿場でした。
立派な門を発見!・・・「本陣跡」です。
当時、敷地は350坪もあったそうです。
屋号は「扇屋」。代々片岡家が営んでいましたが、1852年(嘉永5年)の大火で全焼。再建後、1870年(明治3年)に閉店したそうです。その後は「日坂小学校」として利用されていましたが、今は芝生の広場になっています。
小さな女の子とおばあちゃんが遊んでいました。
「問屋場跡」「脇本陣跡(黒田屋)」など江戸時代を思わせる素敵な町並みです。
商家「藤文」
日坂宿で問屋役を務めた伊藤文七邸跡です。江戸時代末期の建物で、1871年(明治4年)には郵便取り扱い所を開設し、日本最初の郵便局の一つと云われています。
隣の「かえでや」(こちらも伊藤文七邸跡の一部です。)は、明治初期に建てられたそうです。
閉館時間ギリギリでしたが、スタッフの方のご厚意で館内を見せて頂くことができました。
ありがとうございます!
さらに「せっかく来てくれたのだから、萬屋や川坂屋も見学すると良いよ」と勧めて下さいました。
「えっ!? 閉館時間過ぎているのに・・・良いのですか?」
「いいよ。いいよ。せっかく来てくれたんだから。無料で見学できるから。」
・・・ということで、お言葉に甘えて閉館時間後にもかかわらず見学させて頂くことになりました。
本当にありがとうございます!
江戸時代末期の庶民の旅籠「萬屋」をダッシュ
で見学し・・・
復元された「旅籠川坂屋」へ。
すでに他のスタッフの方が戸を閉めて閉館準備に入っていたのですが、ご親切に我々の見学が終わるまで、開けて待っていて下さいました。
「川坂屋」は旅籠ではありましたが、脇本陣のような役割も担っていたそうで、奥には「上段の間」を備えた部屋もあり、身分の高い武士も宿泊していたそうです。山岡鉄舟や「せごどん(西郷隆盛)」の実弟、西郷従道も宿泊していました。
ふすまは、山岡鉄舟の書です。
西郷従道の書
大急ぎで見学が終わると・・・
「そんなに慌てなくてもいいよ。ちゃんと見た?」と優しい言葉をかけて下さって、さらに日坂宿や川坂屋の復元時の様子についても説明して下さいました。
1854年(嘉永7年)に発生した「安政東海大地震」で掛川宿は壊滅的な被害を受けましたが、日坂宿は比較的被害が少なかったそうで、1852年(嘉永5年)の大火で多くの家が新築していたことがその理由の一つと考えられているそうです。
先程通り過ぎた、坂の途中にあった木製の看板の場所は、やはり広重が浮世絵で描いた場所だったことも教えて頂きました。
旧東海道を歩いてここまで来たことをお話しすると
「これからどうするの?」
「この時間だと掛川まで行くのは無理かなと…」
「いや、大丈夫!頑張れば行けるよ!」
と背中を押して下さいました。
だいぶ時間が過ぎてしまったのに、とてもご親切にして頂き、嬉しかったです。背筋がピシッとされていて、優しく、落ち着いた話し方・・・恩師を思い出しました。
おまけに「良かったら持って行って」と飴を頂きました。
これは!子育て飴・・・ですね。
本当にありがとうございました!
(つづく)