大雨の中、城代橋へ戻り「駿府城公園」へ。
あっという間に、お堀が増水しています。
お堀の前に「弥次喜多銅像」を発見!
「東海道中膝栗毛」の作者、十辺舎一九は府中出身で、弥次郎兵衛も府中出身という設定です。(ちなみに喜多八は江尻出身の設定。)刊行200周年を記念して2002年に建てられたそうです。
この銅像の前は遊歩道「家康公の散歩道」
徳川家康は、1603年(慶長8年)江戸に幕府を開きましたが、2年後には秀忠に将軍職を譲り、亡くなるまでの9年間をこの駿府城で過ごしたそうです。意外と江戸城にいた期間は短かったのですね。
隠居したとは言っても・・・実際は「大御所」として実権を握っていたわけですから、当時は江戸城よりも駿府城の方が重要な場所だったのかもしれません。
家康の死後は、孫の忠長(秀忠の息子)が城主となりますが、後に改易(身分はく奪)され、その後は城代(城主の代わりに城を守る家臣)の管理となり、駿府城の規模は縮小していきました。
復元された「東御門橋」を渡り「東御門」から入ります。相変わらずの大雨。
こちらの「巽櫓(たつみやぐら)」は資料館になっています。
悪天候で見学者がほとんどいなかったのでガイドさんを独り占め。ある意味ラッキー!詳しく解説して頂きました。
中へ入ると晩年の徳川家康公がお出迎え。
精巧な駿府城下町模型、駿府城天守1/30模型もあります。
1969年(昭和46年)出土した高さ1.4m重量約500kgある青銅の雄鯱は、1607年(慶長12年)に徳川家康が築いた東御門の大棟にのっていたものと考えられているそうです。
1613年(慶長18年)駿府を訪れたイギリスの使節が家康に送った望遠鏡の復元「日英友好の望遠鏡」。日本とイギリスの交流の始まりと云われています。
復元された「臨済寺 竹千代手習いの間」
家康(竹千代)は8歳から20歳まで今川家の人質として捕えられていました。とはいえ幽閉されていたわけではなく、家康には住居があり、今川家の軍師・太原雪斎和尚が住職をしていた「清見寺」や「臨済寺」へ通い、学問を習ったと云われます。
駿府お茶壷道中
家康に献上されるお茶は、茶壷に入れ、駕籠で駿府城に運ばれていました。
他にも家康に伴う様々な展示を見ることができました。
日本で最初の花火を観賞した人は、徳川家康と云われているそうです。
1616年(元和2年)4月17日徳川家康公は駿府城で75年の生涯を閉じました。当時としては大往生と言えるでしょう。原因は「鯛の天ぷらに当たった」「胃癌」など諸説あります。
まだ豪雨は続いていますが・・・
駿府城を出てランチへ。「駿河らーめんフジメン」
美味しかったです。
(つづく)