りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

満開です。

2017-03-31 07:52:00 | お散歩
久しぶりに近くの公園を訪れると、春の花が満開でした。item1



ユキヤナギ


ミモザ


エリカ


リニューアルされたロックガーデン


そして・・・マグノリア


誰もいない静かな冬のこの公園も好きですが、華やかな春の公園はやはりテンションが上がります。


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クリスマスローズ

2017-03-28 07:57:00 | ガーデニング
クリスマスローズが満開です。


こぼれ種から育ててきたクリスマスローズも開花しました。


クリスマスローズが咲き始めると、淋しかった我が家の庭が一気に賑やかに。


春を待つ花もスタンバイ中…楽しみな季節がやって来ました。

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旧東海道散歩 その25-③ 府中~

2017-03-24 09:05:00 | 旧東海道散歩
雨足が少し弱くなってきたので駿府城公園へ戻り、駿府の国の名勝を織り込んだ「紅葉山庭園」へ。


玄関門を入ると・・・「あずまや」と「里の庭」


「海の庭」

niko三保の松原を再現しています。

伊豆を表現した「荒磯」


「山里の庭」

niko築山は富士山、サツキで茶畑を表現しています。

安倍川を表現したゴロタ州浜。


「山の庭」

niko在原業平が「蔦の細道」と称した古道を表しています。

東海道の石畳もありました!wink


雨の中でもこれだけ素敵なのですから、お天気の良い日はさらにお勧めだと思います!

駿府城本丸跡には「徳川家康公之像」


その横には県天然記念物「家康公お手植えのミカン」の木もあります。


1635年(寛永12年)駿府城は火災でほぼ全焼し、その後天守は再建されませんでした。
その天守台の発掘調査が平成28年から始まり、見学ゾーンから見ることができます。

「天守台石垣」  

niko石垣の上に天守台がありました。
大雨の影響である意味リアルな「お堀」になっています。

石には工事に参加した大名の刻印が残っています。


「二ノ丸坤櫓(ひつじやぐら)」


こちらもガイドさんの解説付きです。
床板がガラス張りなので、礎石などの構造を見ることができます。
天井を見上げると・・・2階と3階の床板の一部が取り外され、松丸太の小屋組を見ることもできました。


ガイドさんに教えて頂いた「ハート型の石垣」も発見!


やっと小雨になってきました。

(つづく)

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旧東海道散歩 番外編㉒ ずいずいずっころばし

2017-03-21 07:34:00 | 旧東海道散歩
子供の頃遊んだ「ずいずいずっころばし」・・・実はお茶壷道中(幕府が将軍のために宇治茶を江戸まで運ぶ行事)の唄だったのですね。知りませんでした。

symbol7symbol7ずいずいずっころばし ごまみそずい 
茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたら どんどこしょ
俵のねずみが米食ってちゅう ちゅう ちゅう ちゅう
おっとさんがよんでも おっかさんがよんでも 行きっこなしよ
井戸のまわりで お茶碗欠いたのだぁれsymbol7symbol7



たかがお茶・・・ですが、その権威は天皇家の勅使や宮家と同様で、大名行列でさえ道の端に控えなければならなかったそうです。
行く先々の宿場は通行禁止、町中の清掃は当然のこと。前日から田畑の耕作や焚き火の煙も厳禁。宿場人足たちは髭の手入れまで命じられたそうです。お茶壷道中の一行の態度はとても横暴で、無礼を働けば斬り捨て御免。
一説にはこのような物語が伝えられています。

「ある農家でずいきのゴマミソあえを作っていたところ、表を将軍様に献上する"茶壷道中が"通りかかりました。 驚いた家の人たちが急いで奥へ隠れます。静まりかえった家の納屋の方では、ネズミが米俵を食べる音。井戸端ではあわてた拍子にお茶わんを欠く音。 息を殺している中でのいろいろな音。やがて茶壷道中は去って行く。」 (太田信一郎「童歌を訪ねて」より)

「ずいずいずっころばし」は、親が(お茶壷道中の一行の横暴な態度から)子どもを守るために作った歌と云われているのです。

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旧東海道散歩 その25-② 府中~

2017-03-18 11:14:00 | 旧東海道散歩
大雨の中、城代橋へ戻り「駿府城公園」へ。


あっという間に、お堀が増水しています。


お堀の前に「弥次喜多銅像」を発見!

niko「東海道中膝栗毛」の作者、十辺舎一九は府中出身で、弥次郎兵衛も府中出身という設定です。(ちなみに喜多八は江尻出身の設定。)刊行200周年を記念して2002年に建てられたそうです。

この銅像の前は遊歩道「家康公の散歩道」


徳川家康は、1603年(慶長8年)江戸に幕府を開きましたが、2年後には秀忠に将軍職を譲り、亡くなるまでの9年間をこの駿府城で過ごしたそうです。意外と江戸城にいた期間は短かったのですね。
隠居したとは言っても・・・実際は「大御所」として実権を握っていたわけですから、当時は江戸城よりも駿府城の方が重要な場所だったのかもしれません。
家康の死後は、孫の忠長(秀忠の息子)が城主となりますが、後に改易(身分はく奪)され、その後は城代(城主の代わりに城を守る家臣)の管理となり、駿府城の規模は縮小していきました。

復元された「東御門橋」を渡り「東御門」から入ります。相変わらずの大雨。


こちらの「巽櫓(たつみやぐら)」は資料館になっています。


悪天候で見学者がほとんどいなかったのでガイドさんを独り占め。ある意味ラッキー!詳しく解説して頂きました。wink 

中へ入ると晩年の徳川家康公がお出迎え。


精巧な駿府城下町模型、駿府城天守1/30模型もあります。
1969年(昭和46年)出土した高さ1.4m重量約500kgある青銅の雄鯱は、1607年(慶長12年)に徳川家康が築いた東御門の大棟にのっていたものと考えられているそうです。
1613年(慶長18年)駿府を訪れたイギリスの使節が家康に送った望遠鏡の復元「日英友好の望遠鏡」。日本とイギリスの交流の始まりと云われています。

復元された「臨済寺 竹千代手習いの間」

niko家康(竹千代)は8歳から20歳まで今川家の人質として捕えられていました。とはいえ幽閉されていたわけではなく、家康には住居があり、今川家の軍師・太原雪斎和尚が住職をしていた「清見寺」や「臨済寺」へ通い、学問を習ったと云われます。

駿府お茶壷道中

niko家康に献上されるお茶は、茶壷に入れ、駕籠で駿府城に運ばれていました。

他にも家康に伴う様々な展示を見ることができました。

niko日本で最初の花火を観賞した人は、徳川家康と云われているそうです。

1616年(元和2年)4月17日徳川家康公は駿府城で75年の生涯を閉じました。当時としては大往生と言えるでしょう。原因は「鯛の天ぷらに当たった」「胃癌」など諸説あります。

まだ豪雨は続いていますが・・・


駿府城を出てランチへ。「駿河らーめんフジメン」 

niko美味しかったです。

(つづく)


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