りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

思い立ったら中山道 その③-9

2024-09-16 07:54:57 | 旧中山道
西宿町交差点
 
右側の側道に入ります。
 
 
愛宕山の「常夜燈」と・・・
 
「鎮火霊璽 (ちんかれじ)」の愛宕碑。


 
巨大な楠があるのは・・・
 
「伊庭貞剛 (いばていごう)邸跡」

伊庭貞剛は明治時代の実業家・・・裁判官から住友財閥に入社し、,住友財閥の礎を築いた人です。
 
 
 1904年(明治37年)、58歳で勇退した時の伊庭貞剛の言葉
「事業の進歩発達に最も害をなすものは,青年の過失ではなくて,老人の出しゃばりである。」
・・・肝に銘じます😅

現在は「いば eco ひろば」です。
 
「若宮神社」

なぜか気になる・・・交通安全のボード😆 


武佐踏切を渡ると・・・



近江鉄道「武佐駅」に到着しました。


懐かしい!紙の切符です😍 


2024年5月2日12時20分~17時45分
24370歩の旅でした😀 


宿泊予定の彦根へ戻り・・・夕食は、彦根駅前の「鶏丸」へ。
南草津駅で大満足だった魚丸の系列店・・・大人気のお店で、何とかカウンター席に座ることができました。

😀 こちらのお店も美味しかったです。


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思い立ったら中山道 その③-8

2024-09-12 19:01:24 | 旧中山道
国道8号線に合流する馬淵町交差点には・・・
 
「八幡神社」がありました。
 
源義家が奥州遠征の途中、熱病にかかった馬をこの地で休ませたところ平癒したことから、八幡神を勧請したのが由来と云われています。
😀 室町時代に建てられた社殿は国指定の重要文化財です。
 
ところで、源義家です。源義経ではありません。
「源義」まで一緒で、さらに「奥州」の文字もあったので、勝手に義経の話しと思い込んでいましが・・・「義家」です。
源義家は義経の4代前のご先祖さまです。高祖父・・・ひいひいおじいちゃんです。前九年合戦、後三年合戦で活躍し、「天下第一の武勇の士」と讃えられ、源氏の礎を築いた人です。義経、頼朝だけでなく、足利尊氏、木曽義仲、新田義貞も義家の子孫です。
 
境内ではお祭りが行われていました。
😀左側の 松明(たいまつ)は、1000年以上の歴史があるそうです。貴重なお祭りを見ることができました。
 
国道8号線沿いには、立派な鳥居がありました。
 😅 我々は、脇の出入口から入ってしまったようです。

江戸時代、この参道口に高札場がありました。
 
 
白鳥川に架かる「千僧供(せんぞく)橋」を渡ります。
 
「千僧供町交差点」
😀 冷泉寺に千人の僧侶を集め、悪疫退散の祈祷を行ったことが地名の由来と云われています。


「安楽房/住蓮房 御墓」の道標。

 😀 右側(南側)の道を進むと、安楽房と住蓮房のお墓があります。

安楽房と住蓮房といえば、守山宿の辺りに「住蓮房母公墓」がありました。
もう一度復習すると・・・
安楽房と住蓮房は、鎌倉時代前期の僧侶で、法然上人の弟子でした。
法然上人が説く浄土仏教は、「南無阿弥陀仏を唱えれば、阿弥陀様は誰でも極楽浄土へいざなってくれる」というわかりやすい仏教で、当時、都で人気が拡大中・・・ある時、美男で美声の住蓮と安楽(法然上人の弟子)が六時礼讃という念仏会を行ったことがきっかけで、後鳥羽上皇の二人の女官(松虫姫、鈴虫姫)が帰依(きえ)し、剃髪、出家してしまったのです。
怒った後鳥羽上皇は、法然上人門下への弾圧を強め、法然上人は土佐に流罪、親鸞は越後に流罪、安楽房と住蓮房は死罪となりました。

「住蓮坊首洗い池」
 😀 住蓮坊は池のほとりで斬首され、この池で首を洗われました。

ここにも「安楽房/住蓮房 御墓」の道標がありました。
 
 
中山道は突き当りを左折します。
 
左折する角には「題目碑」と「右西京」の道標がありました。
😅 道標は倒れてしまっていました。 

六枚橋交差点
😀 地名は中山道に架けられていた石橋に由来するそうです。

魅力的なホルモンと焼肉のお店が続きます。
 
左側(北側)は東海道新幹線が並走しています。
 
 
(つづく)

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思い立ったら中山道 その③-7

2024-09-08 08:44:28 | 旧中山道
少しドキドキしましたが、中山道で間違いないようです。
😀 ボランティアの方々が管理しているエリアのようです。

施錠はされておらず、鉄格子の中へ入ると鳥のさえずりに囲まれ・・・

土手の下には田園風景が広がり・・・

草刈りもされていて、素敵な散歩道でした。

「横関川渡し場跡」(西側)

日野川(旧横関川)の水源は鈴鹿山脈の綿向山(わたむきやま)。近江八幡と野洲の境を流れ、琵琶湖に注いでいます。

江戸時代、人々は舟渡しで川を渡りましたが、川の水量が少ない時期は、小舟2艘を縦に並べ、岸と川底に固定し、舟の上には渡し板を敷いて橋の代わりにしていました。

歌川広重 「木曽海道六拾九次之内 武佐」

😉 小屋の前で渡り賃を払っている旅人(左上)がいます。あの小屋はこの辺りにあったのかもしれません。

我々は川を渡れないので、迂回します。
土手道を進むと・・・

国道8号線に合流しました。

案内板に従い左折すると・・・

日野川に架かる「横関橋」

白いヤマフジが見事でした。

橋を渡ると近江八幡市です。

日野川(旧横関川)

先ほどの対岸の土手道を進むと・・・

「横関川渡し場跡」(東側)


😀 江戸時代は、川を渡り、この渡し場に到着したのですね。

土手を下りて、旧中山道を直進します。

この辺りに日本橋から125里の「東横関の一里塚」あったそうですが、詳細な場所はわかりません。

麦畑が広がっています。


壁の向こうに藁ぶき屋根の旧家が見えました。

近江八幡市のマンホール
😀 中央に流れているのは八幡堀。堀の両側には白壁の蔵が続き、奥には八幡山が描かれています。右上は桜(市の花)、左上には近江商人のそろばん玉の柄の暖簾がデザインされています。

近江八幡は、1585年(天正13年)豊臣秀次が八幡山城の城下町を開いたことで発展しました。この時、秀次18歳。秀次は秀吉の甥(姉の長男)で、鶴松(秀吉の長男)の死後、秀吉の養子となっていました。
秀次が八幡山城の城主だったのは5年という短い期間でしたが、本能寺の変で城主(織田信長)を失った安土城下の人々を近江八幡へ移し、(商人の同業者組合である「座」の特権を廃止し、商人が市場で自由に商売できるようにした)楽市楽座を継承し、城の防御である八幡堀を琵琶湖とつなぎ、船を寄港させ、商いの町として発展させました。さらに町を基盤目状にし、八幡山城がある山麓に家臣、その周囲に武器や武具の職人、その外側に町人を住まわせる・・・という国内初の城下町の整備も行いました。
1591年(天正19年)には、秀吉の後継者として関白となりましたが、1593年(文禄2年)秀頼(秀吉と茶々の子供)が誕生すると、秀吉との関係は悪化・・・凶暴な言動が多くなり、「殺生関白」と呼ばれるようになってしまいます。その後、謀反の疑いで高野山へ追放され1595年(文禄4年)切腹を命じられました。妻子・側室も京都三条河原で処刑され、秀次の家系は絶たれてしまいました。
秀吉に翻弄された切ない人生・・・関白にならず「八幡山城の城主」が長く続いた方が幸せだったのではないかと思ってしまいます。
近江八幡は、豊臣秀次が人生最良の時期を過ごした町です。

(つづく)
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思い立ったら中山道 その③-6

2024-09-04 07:26:14 | 旧中山道
「鏡口」交差点を渡ると・・・

「愛宕山常夜燈」がありました。
😀 東海道沿いの常夜燈は「秋葉山常夜燈」が多かったのですが、近畿地方は「愛宕山常夜燈」が多いそうです。「秋葉山」と「愛宕山」・・・どちらも火伏せの神様です。

右側の側道を進みます。
😊 徒歩の通行はOKのようです。

「旅籠 富田屋敷跡」

「旅籠 亀屋敷跡」

江戸時代、鏡宿は中山道の正式な宿場ではなく「間の宿」だったので、旅人の宿泊は原則禁じられていたはずですが・・・実際は、この辺りまで旅籠が立ち並ぶほど宿泊する人が多く、賑わっていたのですね😉 

広い空と田園風景が気持ち良い😊 

龍王町のマンホール。
😀町の木「松」と外側には町の花「アエンボ(コバノミツバツツジ)」が描かれています。中央には「り」と「王」がデザインされているそうです。

再び国道8号線に合流。

善光寺川に架かる「善光寺川橋」を渡ります。


日本橋まで549.5㎞・・・まだまだ遠い😱 

西横関交差点の角に・・・


「水口道道標」がありました。「是よりいせみち ミなくち道」
😀 ここから右側の道を南へ向かって進むと、東海道「水口宿」に到着し、さらに「伊勢」へ行くことができますよ・・・と案内している道標です。

我々は直進し、斜め左側の脇道を進みます

小さな川沿いには・・・


小さなお地蔵様が並んでいました。


旧西横関村の鎮守「若宮神社」

細い道を進むと・・・

日野川沿いの土手に出ました。

うん?

ジェラシックパークの入口?

中山道・・・ですよね?😨 

(つづく)




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ベイチー

2024-08-31 07:10:10 | 日記
しばらく何も飾っていなかったリビングの一角・・・少し寂しく感じるようになりました
 
この壁に合う絵や写真、棚などを考えていたのですが・・・出会ってしまいました「ビカクシダ」
 
初めて訪れた園芸店で、若い店員さんがものすごく詳しく、熱心に説明してくださいました。
 
名前は「Platycerium veitchii」
😁 「ベイチー」や「ビーチー」と呼ばれるそうです。
 
ビカクシダの中では、比較的育てやすい種類とのことですが・・・それなりに手間がかかる植物です。
 
初挑戦なので、「necomoss」というショップで作成された、この「ベイチー」を大切に育てたいと思います。
 
今後の成長が、楽しみです
 
購入後、ショップのクジ引きがあり、何と「2等」が当たり、素敵な鉢を頂きました。ありがとうございました😊 
 
 
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