少しドキドキしましたが、中山道で間違いないようです。
😀 ボランティアの方々が管理しているエリアのようです。
施錠はされておらず、鉄格子の中へ入ると鳥のさえずりに囲まれ・・・
土手の下には田園風景が広がり・・・
草刈りもされていて、素敵な散歩道でした。
「横関川渡し場跡」(西側)
日野川(旧横関川)の水源は鈴鹿山脈の綿向山(わたむきやま)。近江八幡と野洲の境を流れ、琵琶湖に注いでいます。
江戸時代、人々は舟渡しで川を渡りましたが、川の水量が少ない時期は、小舟2艘を縦に並べ、岸と川底に固定し、舟の上には渡し板を敷いて橋の代わりにしていました。
歌川広重 「木曽海道六拾九次之内 武佐」
😉 小屋の前で渡り賃を払っている旅人(左上)がいます。あの小屋はこの辺りにあったのかもしれません。
我々は川を渡れないので、迂回します。
土手道を進むと・・・
国道8号線に合流しました。
案内板に従い左折すると・・・
日野川に架かる「横関橋」
白いヤマフジが見事でした。
橋を渡ると近江八幡市です。
日野川(旧横関川)
先ほどの対岸の土手道を進むと・・・
「横関川渡し場跡」(東側)
😀 江戸時代は、川を渡り、この渡し場に到着したのですね。
土手を下りて、旧中山道を直進します。
この辺りに日本橋から125里の「東横関の一里塚」あったそうですが、詳細な場所はわかりません。
麦畑が広がっています。
壁の向こうに藁ぶき屋根の旧家が見えました。
近江八幡市のマンホール
😀 中央に流れているのは八幡堀。堀の両側には白壁の蔵が続き、奥には八幡山が描かれています。右上は桜(市の花)、左上には近江商人のそろばん玉の柄の暖簾がデザインされています。
近江八幡は、1585年(天正13年)豊臣秀次が八幡山城の城下町を開いたことで発展しました。この時、秀次18歳。秀次は秀吉の甥(姉の長男)で、鶴松(秀吉の長男)の死後、秀吉の養子となっていました。
秀次が八幡山城の城主だったのは5年という短い期間でしたが、本能寺の変で城主(織田信長)を失った安土城下の人々を近江八幡へ移し、(商人の同業者組合である「座」の特権を廃止し、商人が市場で自由に商売できるようにした)楽市楽座を継承し、城の防御である八幡堀を琵琶湖とつなぎ、船を寄港させ、商いの町として発展させました。さらに町を基盤目状にし、八幡山城がある山麓に家臣、その周囲に武器や武具の職人、その外側に町人を住まわせる・・・という国内初の城下町の整備も行いました。
1591年(天正19年)には、秀吉の後継者として関白となりましたが、1593年(文禄2年)秀頼(秀吉と茶々の子供)が誕生すると、秀吉との関係は悪化・・・凶暴な言動が多くなり、「殺生関白」と呼ばれるようになってしまいます。その後、謀反の疑いで高野山へ追放され1595年(文禄4年)切腹を命じられました。妻子・側室も京都三条河原で処刑され、秀次の家系は絶たれてしまいました。
秀吉に翻弄された切ない人生・・・関白にならず「八幡山城の城主」が長く続いた方が幸せだったのではないかと思ってしまいます。
近江八幡は、豊臣秀次が人生最良の時期を過ごした町です。
(つづく)