りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その42-④ 桑名駅~

2020-01-31 07:49:00 | 旧東海道散歩
道標に従い旧東海道を進みます。


「吉津屋見付跡」

nikoこの辺りは吉津屋町。江戸時代には門があり、桑名藩士が詰めていたそうです。

桝形を通り・・・

niko創業100年以上のおもちゃ屋さん「いもや本店」・・・初代店主が焼き芋を売っていたそうです。

街道沿いには寺や神社が多いです。


十念寺では「桑名七福神まつり」開催中。


「石取祭車蔵」の前を通過し、「日進小学校前交差点」を右折すると・・・


「広瀬鋳物工場跡」

niko鋳物産業で有名な桑名市ですが、その歴史は、桑名藩主・本多忠勝が鉄砲の製造を始めたのが起源と云われています。鋳物師である広瀬氏を招き、この場所に工場を与えたそうです。

「天武天皇社」

niko672年壬申(じんしん)の乱の時に、大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に宿泊されたことにちなんで建立された神社です。天武天皇を祀っているのは全国でこちらの神社のみ。

本願寺の境内にある「梅花仏鏡塔」は、松尾芭蕉の門人・各務支考の分骨供養塔です。


鋳物師の守護神「一目連神社」


「火の見櫓と矢田立場跡」

niko立場は(旅人の休憩のための)茶店が集まっていた場所です。

鋳物が名産…ということで軒先の鋳物の作品が目を引きます。


江戸時代は松並木で、鈴鹿山脈や伊勢湾を見渡せることができた「江場松原跡」


「晴雲寺」

niko参勤交代で江戸へ向かう大名行列は、ここで衣服を整えて桑名城下へ入ったそうです。

大名行列というと、先導の露払いの「下に~ 下に」という掛け声、奴さん、整然とした大人数の行列、沿道では庶民が土下座で行列をお出迎え・・・このようなイメージを持っていたのですが、実際は少し違ったようです。samuraisamuraisamuraisamuraisamuraisamuraisamuraisamuraisamuraisamuraisamuraisamurai
土下座が必要だったのは将軍家と徳川御三家のみで、庶民は立ったまま行列を見ていることが多く(行列を横切ることは禁じられていました。)、「下に~ 下に」の掛け声も将軍家と徳川御三家のみで、他の大名行列では「よけろ~、よけろ~」「片寄れ~、片寄れ~」という掛け声だったそうです。しかもこの大名行列が行われるのは、見物人が多い時(城下、宿場、江戸入りなど)のみ・・・宿場と宿場の間は、列はバラバラ、猛ダッシュで移動していたそうです。
だから晴雲寺で集合して、衣服を整える・・・大名行列の準備する場所が必要だったのですね。
バタバタと晴雲寺へ大名行列のメンバーが集まってくる様子を想像すると楽しいwink

地下道を通り、真っすぐ進むと・・・


1818年(文政元年)建立の「伊勢神宮常夜燈」


そして行き止まり。
江戸時代はこの場所に「町屋橋」が架かり、対岸へ渡ることができ・・・


このような景色でした。


周辺は立場で・・・今も新旧の料理旅館が点在しています。


樹齢約二百数十年の藤棚がある「安永餅屋跡」

niko立場の名物は安永餅・・・そういえば、昼に偶然食べました!

迂回して員弁(いなべ)川に架かる現代の「町屋橋」を渡ります。

niko欄干の上の部分は木製です。

町屋橋の歴史が紹介されていました。


遠くには・・・イルミネーションで有名な「なばなの里」や四日市の工場が見えます。


日本橋から385kmまで来ました。meromero2


(つづく)

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旧東海道散歩 その42-③ 桑名駅~

2020-01-28 07:20:00 | 旧東海道散歩
さあ!今度こそ旧東海道を進みます。

船を下りた旅人は・・・1781~1789年(天明年間)に建てられた鳥居ををくぐり旧東海道へ。
この鳥居は伊勢神宮の「一の鳥居」です。

niko伊勢参りの玄関口であり、桑名宿の東側入口でもあります。

桑名宿には本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒(旅籠は旧東海道では宮宿の次に多かったそうです)がありました。

「本陣跡」と「脇本陣跡」


「舟会所跡」と「問屋場跡」


「通り井跡」

nikoこの辺りの地下水は海水が混ざるため、町屋川から水を引き、道路の下を通して道の途中に井戸を作って汲み上げていました。通り井は旧東海道の中に15カ所あったので、大名行列が通る時は、蓋をしたそうです。通り井があった場所には、道路に「井」が刻印された石(写真右)がはめ込まれています。

桑名名物、蛤料理のお店が多いです。


「春日神社」には1667年(寛文7年)建立の青銅の鳥居がありました。


「伊勢の桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」と唄われたほど桑名は鋳物産業が盛んでした。
長い歴史の中で伊勢湾台風など天災の被害もありましたが、そのたびに修復を繰り返して現存しています。

鳥居の脇には「しるべ石」

niko江戸時代、迷子を探すために石碑の片側に名前や特徴を書いた紙を貼り,反対側に情報を持っている人がその情報を書いた紙を貼る習俗があったそうです。

旧東海道を進むと、ゆめはまちゃんの「とびだしちゅうい」の看板・・・可愛い。


街道沿いに公園がありました。


桑名城創建当時の「城壁」が残っています。


公園内に日本橋が!


旧東海道が(かなりざっくりですが)再現されていました。


富士山の横を通り・・・あっという間に「京都三条大橋」に到着!

meromero2小さな達成感・・・現実は、京都到着はまだまだ先ですね。

再び旧東海道を進み・・・


1925年(大正14年)建てられた「石取会館」

niko館内では桑名市の石取祭の様子が紹介されていました。春日神社から30台ほどの祭り車が一斉に太鼓や鉦(しょう)を打ち鳴らすので「日本一やかましい祭り」と呼ばれるそうです。

江戸時代末期に作られた漆仕上げの祭車。


歩道には石取祭の様子が描かれたタイルもありました。

桑名市博物館の前には江戸時代の道標が移設されていました。
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niko「右京いせ道 左江戸道」

この辺りが京町見付跡でした。

niko桑名宿の西側入口です。

(つづく)
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旧東海道散歩 その42-② 桑名駅~

2020-01-27 07:06:00 | 旧東海道散歩
歌川広重「東海道五十三次之内 桑名 七里渡口」

niko「宮の七里の渡口」を出発し、船に揺られて4~6時間ほど経過すると…桑名城の櫓(やぐら)が見えてきます。海に囲まれた桑名城は扇形をしていたので「扇城」とも呼ばれ、城下は江戸や大坂の相場を左右するほど商業が栄えていました。
沖合いの帆掛け船は、お城の見える辺りから帆を下ろし・・・「桑名の七里の渡口」に到着です。よく見ると船は多くの人で満席ですね。

「桑名七里の渡し跡」では浮世絵と同じような景色を見ることができます。


このまま旧東海道を歩き始めよう・・・と思ったのですが、ふと桑名駅前で出会った女性の「桑名は見るところが色々あるから楽しんでね~」という言葉を思い出しました。

そこで、少し離れた枯山水のある「木曽三川公園 桑名七里の渡し公園」と・・・


国の重要文化財に指定されている「六華苑(ろっかえん)」にも立ち寄ることにしました。


1913年(大正2年)に完成した二代目諸戸清六(実業家)の邸宅です。


洋館と和館が調和した設計・・・イギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる設計です。

nikoジョサイア・コンドルは鹿鳴館を設計したことで有名な建築家です。

池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されています。


立派な邸宅。




「何となく見たことがある景色」と思った大河ドラマファンの方はお目が高いkirakira実は大河ドラマ「いだてん」で、三島家の邸宅として使われた場所だったのです。
我々が訪れたのは、大河ドラマ「いだてん」の放送開始前・・・初回放送で三島家のパーティーシーンで「六華苑だ!」と気がついた時は大興奮しましたkirakirakirakira
寄り道して大正解でしたok

「桑名七里の渡し跡」へ戻り、復元された「蟠龍(ばんりゅう)櫓」へ。

niko蟠龍は、とぐろを巻いた龍のこと。屋根の上に蟠龍がいます。

館内ではスタッフの男性が桑名の見どころを説明して下さいました。(ありがとうございました!)
・・・といことで、おすすめの九華公園へ向かいます。
なかなか旧東海道を進めませんね。ase2

九華公園は桑名城の本丸跡と二の丸跡に造られた公園です。

初代城主・本多忠勝の銅像がありました。


公園の向かいに大きな建物・・・「柿安本店」です。

niko東京でも有名な「柿安」は桑名が本店だったのですね!

柿安でいろいろ物色し・・・公園のベンチで昼食。

niko桑名の銘菓「安永餅(やすながもち)」も頂きました。つぶあんの入った柔らかい焼餅です。

冷たい風が吹く日だったので、公園内は人が少なく静か・・・寒い。


そろそろ・・・本当に・・・旧東海道散歩を始めましょう。

(つづく)

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旧東海道散歩 その42-① 桑名駅~

2020-01-26 07:18:00 | 旧東海道散歩
江戸時代、多くの旅人は宮宿から桑名宿の間は七里の渡しを利用していました。(つまり船移動ですね!)
現代の我々は電車移動。JR名古屋駅から桑名駅まで所要時間は約20分でした。


桑名駅周辺を歩いていたところ、女性から「どこから来たの?」「どこへ行きたいの?」と声をかけられました。地元の方から見たら、我々は明らかに旅人なのですねwink
smile「桑名は見るところが色々あるから楽しんでね~」
と背中を押され、まずは「七里の渡し跡を目指します。

途中、「薩摩義士墓所」と掲げている海蔵寺に立ち寄りました。


海蔵寺には、宝暦治水で犠牲となった薩摩藩士が眠っているそうです。

宝暦治水・・・初めて耳にした言葉です。
江戸時代、木曽川・長良川・揖斐川があるこの地域は洪水が多発していました。そこで9代将軍・徳川家重は薩摩藩に治水工事を命じたのですが、幕府の本当の目的は薩摩藩の財政弱体化でした。既に66万両もの借入金があった薩摩藩は益々財政がひっ迫していきます。

さらに幕府は、薩摩藩の食事を一汁一菜の粗末な食事に規制し、地元農民には、薩摩藩へは蓑、草履を安価で売らないよう指示したのです。hi
工事中には3度も堤が破壊されてしまうのですが、その破壊を指示していたのは幕府の役人でした・・・ひどい話しです。hihi
1754年(宝暦4年)4月14日薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵は幕府への抗議として自害、その後51名の藩士も自害してしまいます。
8月には赤痢が流行・・・157名が赤痢に罹患し、33名が亡くなりました。
あまりの幕府の非情さに、薩摩藩に同情して監視役の徳川家来2名が抗議の切腹を行いました。もう・・・訳が分かりません。hihihi

1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了。5月24日薩摩藩総奉行・平田靱負(ゆきえ)は書面で工事完了を国許へ報告し、翌日割腹自殺しました。予算オーバー(現在の金額で300億円以上)と多数の藩士を失った責任を負ったと云われています。
平田靱負 辞世の句 
「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」

大きな犠牲を払って完成した堤はその後どうなったのでしょうか・・・何と洪水の回数は以前よりも増加してしまったそうです。川底へ堤の土砂が堆積したためと云われています。

初めて知った歴史でした。
その後、薩摩藩は江戸幕府を終焉に導くことになります。今まで、何故薩摩藩が執拗に幕府を追いつめたのか腑に落ちない気持ちがあったのですが、その理由の一端を感じることができました。

境内には、薩摩藩が宝暦治水で植えた「千本松原の松の木」と「さざれ石」がありました。


多くの人々で賑わう「寺町通り」に寄り道。


14代将軍・徳川家茂や明治天皇が宿泊された「本統寺」

境内には、親鸞聖人像と松尾芭蕉の句碑とがありました。
「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす はせを」・・・芭蕉が本統寺で詠んだ句です。 

活気がある商店街・・・この日は偶然にも「三八市」が開催されていました。

niko3と8がつく日に朝市が開かれるそうです。

行列のできているお団子屋さんを発見!
我々も列に加わると、前に並んでいた女性が振り返り・・・
smile「ここのお団子美味しいのよ~!うちのおじいさんも大好きだから買っていくの!」
と教えてくださいました。


winkはい。とっても美味しかったです!

「その手は桑名の焼き蛤(はまぐり)」・・・ということで、桑名の名産は蛤です。

meromero桑名市のゆるきゃらは「ゆめはまちゃん」 

見どころがたくさんある桑名市ですが・・・そろそろ旧東海道散歩を始めましょう。

(つづく)
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三浦半島ドライブ

2020-01-24 08:51:00 | ノンジャンル
久しぶりに三浦半島へドライブcar

三崎港でランチ。


このような感じの入口ですが・・・


店内はこの賑わい。




三崎港といえばマグロ!ということで、マグロの漬け丼と・・・


アジフライ定食を注文。


美味しく、しかも安い!
これほど美味しいマグロは久しぶりかも・・・wink

冬野菜も購入しました。
三浦大根、もみじスティック(中も赤い大根)、レディーサラダ(周りが赤い大根)と大根だけで3種類。


ドライブの途中の景色。


広大な畑・・・遠くに海が見えて、ドラマのワンシーンの様です。


久しぶりに「かねよ食堂」にも立ち寄ってみましたが、冬でも大人気だったので・・・




海辺を散歩して帰宅しました。

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