旧東海道から城内へ・・・少し寄り道をしましょう。
街灯には「お城の町」の文字。
藤栄(ふじさかえ)神社の境内には彼岸桜。
3月中旬に花が咲くそうです。
「水口城跡」が見えてきました。
水口城は1634年(寛永11年)3代将軍徳川家光が京都上洛の際に宿館として築城されましたが、結果的に上洛は途絶え、家光が訪れることはありませんでした。その後 1682年(天和2年)からは水ロ藩2万5千石の居城となりました。
廃城後に民家へ移築されていた「本丸乾矢倉」を二階造りとして石垣の上に再移築し、現在は水口城資料館として利用されています。
「水口城本丸の復元模型」
窓から「水口岡山城跡」が見えました。
水口岡山城跡は古城山のことです。水口宿には秀吉の時代の「水口岡山城」と江戸時代のこの「水口城」があるのですね
旧東海道へ戻ります。
この辺りは「百間長屋跡」
百間(約180m)の棟割長屋には下級武士たちが住んでいました。旧東海道と城内の間に長屋が建っていましたが、東海道側には出入口がなく、玄関は反対側の城内にあり、水口宿(旧東海道)とは自由に往来ができない仕組みになっていました。長屋が城壁のように、城や藩邸を防御する役割を担っていたのです。
ちなみに長屋には旧東海道側に与力窓(小さな高窓)があり、この与力窓を使って東海道を通る物売りから品物を購入していたそうです。
「吉富大明神」
隣接する公園の遊具やベンチまで朱色・・・目を引きます。
「真徳寺」
表門はかつて城内にあった武家屋敷の門を移築したそうです。
「五十鈴神社」
鳥居に飾られれているのは「林口の勧請縄(かんじょうなわ)」・・・ 正月三日に林口区の「山の神」の行事として作られ、村の外から疫病や災厄が侵入するのを防ぐための祈願として地域内の3か所に掛け渡されます。
「勧請縄」には五穀豊穣や村内安全などが書かれた「勧請板」、藁(わら)で作られた「海老の飾り」、「御幣」が付けられています。
日本橋から113里の「水口一里塚跡」
江戸時代はこの場所よりやや南方にあったそうです。
突き当りを左折すると・・・
「水口宿西見附跡」
ここまでが水口宿です。
街灯には「お城の町」の文字。
藤栄(ふじさかえ)神社の境内には彼岸桜。
3月中旬に花が咲くそうです。
「水口城跡」が見えてきました。
水口城は1634年(寛永11年)3代将軍徳川家光が京都上洛の際に宿館として築城されましたが、結果的に上洛は途絶え、家光が訪れることはありませんでした。その後 1682年(天和2年)からは水ロ藩2万5千石の居城となりました。
廃城後に民家へ移築されていた「本丸乾矢倉」を二階造りとして石垣の上に再移築し、現在は水口城資料館として利用されています。
「水口城本丸の復元模型」
窓から「水口岡山城跡」が見えました。
水口岡山城跡は古城山のことです。水口宿には秀吉の時代の「水口岡山城」と江戸時代のこの「水口城」があるのですね
旧東海道へ戻ります。
この辺りは「百間長屋跡」
百間(約180m)の棟割長屋には下級武士たちが住んでいました。旧東海道と城内の間に長屋が建っていましたが、東海道側には出入口がなく、玄関は反対側の城内にあり、水口宿(旧東海道)とは自由に往来ができない仕組みになっていました。長屋が城壁のように、城や藩邸を防御する役割を担っていたのです。
ちなみに長屋には旧東海道側に与力窓(小さな高窓)があり、この与力窓を使って東海道を通る物売りから品物を購入していたそうです。
「吉富大明神」
隣接する公園の遊具やベンチまで朱色・・・目を引きます。
「真徳寺」
表門はかつて城内にあった武家屋敷の門を移築したそうです。
「五十鈴神社」
鳥居に飾られれているのは「林口の勧請縄(かんじょうなわ)」・・・ 正月三日に林口区の「山の神」の行事として作られ、村の外から疫病や災厄が侵入するのを防ぐための祈願として地域内の3か所に掛け渡されます。
「勧請縄」には五穀豊穣や村内安全などが書かれた「勧請板」、藁(わら)で作られた「海老の飾り」、「御幣」が付けられています。
日本橋から113里の「水口一里塚跡」
江戸時代はこの場所よりやや南方にあったそうです。
突き当りを左折すると・・・
「水口宿西見附跡」
ここまでが水口宿です。