りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

湘南ドライブ

2018-08-14 13:19:00 | お出かけ
夏ですから・・・早起きをして湘南へドライブcar

今回も「MARINE&FARM 佐島」へ。


朝食を頂きました。


朝は海風が心地よく最高です。






駐車場の一角・・・お店で扱っている三浦野菜を販売していました。


思わず購入。美味しかったです。meromero2

珍しいイタリアのナス「カプリス」

葉山を通過し・・・

winkこちらのトンネルはCMなどで有名ですね。


meromero2江ノ電には多くの外国人観光客が乗車していました。

江の島を通って帰宅しました。


夏の湘南ドライブを満喫しました。car
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旧東海道散歩 その32-④ 見附宿~

2018-08-10 14:04:00 | 旧東海道散歩
旧東海道から少し離れた所にお店を発見!meromero
「SANDWICH&BURGER ブラウニーサンドイッチ」で遅いランチです。


ランチボックスは安くて美味しかったです!


お店を出ると旧東海道沿いに立派な建物・・・先程はお腹が空きすぎて気がつきませんでした。


訪ねてみることにしましょう。


「金原明善翁生家」

niko200年以上前の建物を修復し、明善記念館となっているそうです。

館内へ入ると、金原明善翁の生涯を紹介するビデオを見せて頂きました。
お恥ずかしい話し、こちらへ立ち寄るまで金原明善翁のことを存じ上げませんでしたが・・・ものすごい偉人でした。


1832年(天保3年)に豪農の長男として生まれた金原明善は、「あばれ天竜」と呼ばれた天竜川の水害に悩む住民のために、全財産を投じて(!)治水工事を行ったのです。bikkuri
それだけではありません。天竜川の水源地に緑のダムを作る目的で植林を行いました。これが(人工の)三大美林と言われる「天竜杉」です。(他は奈良県の吉野杉と三重県の尾鷲(おわせ)ヒノキ)
金原銀行(1940年三菱銀行に合併)など、金原明善が始めた事業は時代ととも変化しながら、現在の企業へと繋がっているものも多くあります。
一方、三方原の開墾、北海道の開拓、私財を投じて出獄人保護事業(刑を終えた人々の救済活動)や済生会事業など慈善事業にも貢献しました。

入館料無料の上に、スタッフの方がとても丁寧に館内を説明をして下さいました。


「明善翁三つの信条」

一、実を先にして名を後にす
一、行を先にして言を後にす
一、事業を重んじて身を軽んず

「山岡鉄舟と金原明善・・・共通するものを感じます。実はお二人は盟友でもあったそうです。

niko鉄舟が明善へ志気を鼓舞する手紙を送っています。

この山駕籠に乗って・・・


91歳の明善は金原山林を視察しました。

bikkuriすごい!カッコいい!!

すっかり感銘を受け、自分の無知を棚に上げ・・・
niko「すごい方ですね~!このような立派で魅力的な方は、ドラマなどでもっと取り上げてたくさんの人に知って欲しい人物ですね!」
smile「いやいや・・・現代はドラマの主人公は女性の方が良いのではないでしょうか・・・」
niko「実業家として成功した上に、人々のためにこれほど社会貢献するとは・・・この91歳の時のお写真もカッコいいですよね!」
smile「でも明善はこういう人だったので、ほとんど遺産は残しませんでした。この記念館を維持するのも結構大変です。」

その後も、スタッフの方が以前、我が家の比較的近くにお住まいだったとのことで、町の近況・変化などをお話しして盛り上がりました。


年表に明善翁は「渋谷で92歳で永眠」とあったことを思い出し・・・
niko「そういえば、ご子孫の方は今も東京にお住まいですか?」
smile「えっ!?ああ・・・子孫は私。私が明善の子孫です。」
bikkuri「えーーーーーーっ!?そっそれは大変失礼しました!!!!ase2ase2ase2ase2

親切なスタッフの方・・・と思っていたら、ご子孫の方が直々に説明して下さったのですね。優しい笑顔の素敵な方でした。本当にありがとうございました!

さらに恥の上乗りになりますが・・・
2018年1月、安倍内閣総理大臣施政方針演説のニュースを偶然見ていたところ
「百五十年前。天竜川はたびたび氾濫し、村人たちは苦しめられてきました。子々孫々、洪水から村を守るため、金原明善は、植林により治水を行いました。
 六百ヘクタールに及ぶ荒れ地に、三百万本もの木を植える壮大な計画。それでも、多くの人たちが明善の呼び掛けに賛同し、植林のため、共に、山に移り住みます。
 力ある者は、山を耕し、苗木を植える。木登りが得意な者は、枝を切り落とす。女性や子どもは蔦(つた)や雑草を取り除く。それぞれが、自身の持ち味を活かしました。
 多くの人たちの力を結集することによって築き上げられた森林は、百年たった今でも、肥沃な遠州平野の守り神となっています。」と引用されるような著名な偉人ででした。

旧東海道に戻ります。


本坂通(姫街道)安間起点

niko見附宿で分岐した姫街道ですが、天竜川の川越えでは旧東海道と同じルートを通るこことになります。この場所を右折し、再び姫街道へ分岐します。

我々は真っすぐ、旧東海道を進みます。

日本橋から64番め「安間一里塚」




国道1号線の高架下を通ります。


「東海道松並木」


絶対に子供が押したくなるような「信号機の押しボタン」good


「立場跡」

niko藤棚がある茶屋があったと云われています。



地下道を通り・・・


浜松駅前のアクトタワーが近くなって来ました。


日本橋から65番め「馬込一里塚」


「旧掛塚街道入口」



馬込川に架かる馬込橋「東木戸跡」

niko浜松宿の東側入口です。



「夢告地蔵」

niko1853年(安政5年)に流行したコレラの犠牲者を供養するための延命地蔵です。明治時代、小柳丈之助の夢に「世上に出たい」と現れ、1919年(大正8年)掘り出されお堂に安置されました。



「JR浜松駅」に到着!


26,400歩の散歩でした。
今回の散歩の行程です。


(2017.11.3)

夜は浜松駅前のホテルに宿泊。
駅前の「浜松たんと」で浜松ぎょうざを頂きましました。meromero2


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旧東海道散歩 その32-③ 見附宿~

2018-08-07 21:24:00 | 旧東海道散歩
江戸時代の旧東海道は渡し舟で天竜川を渡るルートでしたが、我々は「新天竜川橋」を歩いて渡ります。



bikkuri日本橋から250km!



天竜川を渡ると「寄ってきっせえ中野町広場」

niko江戸と京都の真ん中の町なので「なかのまち」と名付けられたそうです。
東海道中膝栗毛には「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」と記されています。
袋井宿、仲道寺、そして中野町・・・旧東海道にはど真ん中がいろいろありますね。wink

丁寧な説明版で旧東海道を案内してくれます。階段を下りて・・・


「横町通り」

niko中野町は江戸時代は天竜川の川越しの集落として、明治以降は天竜川の舟運で繁栄し、製材業の町としても長く栄えました。この横町通りも大変賑わっていたそうです。

「六所神社」

niko境内には「明治天皇玉座迹(あと)の碑」がありました。見上げると堤防沿いにも石碑がありましたが、空腹と疲労で堤防を駆け上がる元気がなく、境内から写真撮影しました。「船橋之碑」だったようです。
後で調べると・・・
明治元年明治天皇御東幸の際、78艘の舟を並べ、仮設の舟橋が2日間架けられたそうです。

神社の脇に「中ノ町道路元標」

bikkuri大正9年施行の旧道路法で、各市町村の起点を示す道路元標の設置が定められました。当時1万2244基の道路元標が設置されましたが、全国に現存するのは1600基ほど、静岡県ではおそらく唯一・・・という貴重なものなのだそうです。

お腹がすいたので、ランチができるお店を探しながら旧東海道を進みます。


餃子の店「かめ」を発見!次々にお客さんが駐車場に車を停めて餃子を買って帰っていきます。

店内を覗きましたが、食事をしている人はなく、お店の方も忙しそう(後で調べたら老舗の餃子専門店でした)・・・持ち帰り専門のお店のようだったので、ランチは断念しましたhorori

歩き始めたところ・・・
smile「かめに寄らなかったの?」
小さな可愛らしいおばあちゃんに声をかけられました。それは、本当に突然の出来事でした。

niko「お腹すいてるので食べたかったのですけど持ち帰り専門店みたいなので…」
smile「美味しい餃子で、すぐに売り切れてしまうのよ。買って帰れば良いのに」
niko「今日はホテルに泊まるので持ち帰れないのです」
smile「どこに泊まるの?」
niko「藤枝のホテルに泊まります」
smile「どうして、藤枝??」

などと会話が弾みます。日本橋から旧東海道を歩いていることを伝えると・・・
smile「私はね。若いころから苦労して、一生懸命働いて、いつかいろいろな場所へ旅行したいと思っていたの。でも病気をして、結局遠くへ旅行に行けなくなってしまったの。あなた達は若いんだから、たくさん色々な所へ行きなさい。人生はあっという間よ。」

少しお話しをして、お別れを告げると・・・
smile「じゃあね。お幸せに・・・」

えっ!?今・・・なんて?
振り返ると、おばあちゃんの姿はすぐに見えなくなってしまいました。

初めて出会った人に「お幸せに・・・」と言われたのは初めてでした。何とも言えない温かく幸せな気持ちに包まれました。
おばあちゃん、ありがとう。その後も、あの時の「お幸せに・・・」という言葉を何度も思い出しています。きっとこれからも、何度も思い出すことでしょう。kirakira2

さらに旧東海道を進むと・・・「中野町銀行跡」

明治17年に中野町銀行があったとは・・・当時、中野町がどれほど繁栄していたのかをうかがい知ることができます。

「天竜川橋紀功碑」

明治元年明治天皇御東幸の際、仮設の舟橋を架けた(lightそういえば六所神社に船橋之碑がありましたね。)浅野茂平の業績を刻んだ石碑です。

明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた「伊豆石の蔵」

niko緑色の縞模様が美しい・・・江戸時代から天竜川流域は舟運で、伊豆や江戸と繋がっていたたそうです。

「東橋跡」

江戸時代この場所には小川が流れ、土橋が架かっていました。明治時代後期には、中野町繁華街への入りロでもありました。

石垣内科医院の前に「石垣清一郎生家」とありました。

石垣清一郎は与謝野晶子が主宰する「明星」に参加した浪漫派歌人・・・ということですが、嵐山光三郎さんが生まれ、少年時代を過ごした場所・・・の方がわかりやすいかもしれません。現在は作家・嵐山光三郎さんですが、「笑っていいとも!増刊号」に出演されていた印象が強いです。wink

脇道に「軽便鉄道軌道跡」

明治42年から浜松~中野町間を走っていた小規模の鉄道です。ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで客車1両を引いて家の軒先すれすれを走っていたそうです。昭和3年から軌道自動車に変わり、昭和十二年廃線になりました。

「かやんば高札場跡」と「松林禅寺」


かつてこの辺りには、松並木があったそうです。


そろそろ限界・・・お腹がすきましたhekomi

(つづく)

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旧東海道散歩 その32-② 見附宿~

2018-08-03 20:29:00 | 旧東海道散歩
左側の道路を進みます。


住宅街を通過し・・・


「池田の渡し歴史風景館」


天竜川では、約1000年前から渡し舟を利用していたそうです。
そういえば、岡部宿で訪れた「西行笠かけ松」は、「西行が天竜川を渡し舟で渡る時、武士が西行に乱暴を働いた」ことがきっかけで起きた悲しいお話しでした。つまり平安時代から渡し舟はあったということですねwink

niko写真や模型で池田の渡し歴史が紹介されています。

天竜川の渡船場は、その権利をめぐって長年争われてきましたが、1573年(天正元年)徳川家康が「天竜池田渡船の朱印状」を出し「池田の渡方」に渡船の独占権を与え、手厚く保護されました。というのは、武田軍との戦いの時、家康の危機を池田の里人が救ったから・・・と云われています。
岡部宿の「白子由来の碑」にもありましたが、徳川家康という人は、恩を忘れない人ですね。自分より身分の低い人であっても、恩返しをする・・・家康の人柄を垣間見ることができます。

1575年(天正3年)徳川家康直判の松板定文(レプリカ)

niko「渡船利用者は、舟が思うように動かなくても船頭等を殴ったり危害をあたえてはいけない、死刑に処す」という禁制が出されました。でもその後、船頭はこの禁制を盾にとても威張るようになってしまったそうです。折角、家康さんが恩返ししたのに・・・仇で返すとはdokuro

明治時代に入ると橋が架けられ、渡し舟は利用されなくなりました。

近くの「行興寺(ぎょうここうじ)」にも立ち寄りました。


平安時代末期、ここの辺りに住んでいた美しく優しい熊野(ゆや)という娘は、見付の国府に赴任した平宗盛に見初められ、都へ上って行きました。
幸せな日々を送っていた熊野でしたが、ある日、母の病の報せが届きます。熊野は故郷へ帰りたいと願いますが、宗盛は愛するあまり離れがたく、聞き入れません。
春、桜見物の席で、熊野は、「いかにせん、都の春も惜しけれど、なれしあずまの花やちるらん」(都も離れがたいが、故郷で命を散らそうとしている母が心配です)と詠み、その心に打たれた宗盛は別れを決心しました。
母娘は、再会が叶いましたが、母の命は長くありませんでした。その後、宗盛の戦死と平家滅亡を聞いた熊野は、尼となり33歳の若さで生涯を閉じました。


行興寺は、熊野が祈りを捧げた庵があった場所です。その庭には母のために熊野が植えた藤の花が、現在も毎年長い花房をつけているそうです。

meromero2樹齢800年以上の長藤。花の房の長さは1m以上にもなるそうです。6本のうち1本は国、5本が県指定の天然記念物に指定されています。

天竜川の東岸河川敷に向かいます。河川敷には天竜川の歴史が紹介されていました。


「池田橋の跡」

niko池田橋は日本初の有料木橋(幅2.72m、長さ765m)で、明治16年から昭和8年まで天竜川に掛けられていました。

「江戸時代の天竜池田渡船」


「天竜川を上り下りした帆かけ舟」


「天竜川渡船場跡の碑」


かつての渡船場を整備した「池田の渡し公園」


天竜川は諏訪湖(長野県)から流れ出る唯一の川で、かつては氾濫を繰り返したあばれ川でした。

人も少なく、静かな公園で一休み。

niko広くて、気持ちの良い公園です。

現代の渡船場。

wink「熊野の長藤まつり」での渡船の再現時に使われるそうです。

歌川広重「東海道五十三次之内 見附 天竜川」

niko朝靄に覆われた天竜川。天竜川の渡船は中洲で乗り継ぐ必要がありました。この浮世絵では中州がメインに描かれています。手前の流れは大天竜、中州の奥は小天竜と呼ばれました。

橋のたもとにある「天竜川治水祈念公園」に立ち寄り・・・


いよいよ天竜川を渡ります。


(つづく)

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