りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その47-⑤ 三雲駅~

2022-08-29 07:39:27 | 旧東海道散歩
お腹も満たされて再出発です
 
「鉤(かぎ)の手道」
宿場の出入り口付近で、道が直角に曲がっている部分で「桝形」とも言います。敵の侵入を防ぐための防衛手段でしたが、江戸時代には大名行列のすれ違いを避けるなどの目的にも使われました。
 
突き当りを左折すると・・・日本橋から116里の「石部一里塚跡」
 
石部西交差点を横断すると「西の見附跡」
😀 石部宿の西側入口・・・ここまでが石部宿です。
 
前方に近江富士(三上山)が見えます。
 
「西縄手」
 
この辺りには松並木の一本道がありました。石部宿の西側にあるので「西縄手」・・・西からの参勤交代の大名行列はこの辺りで隊列を整え、宿内に入りました。(当時の大名行列の様子はこちらのブログをご参照ください。)
 
国道1号線に合流しました。
 
「五軒茶屋道と古道」の説明版
ここで旧東海道は2つの道(上道と下道)に分かれます。
もともと旧東海道は野洲川沿い(下道)でしたが、たびたび洪水の被害に遭っていました。1682年(天和2年)の大洪水で旧東海道は河原となったため、翌年山の中を通るルート(上道)が開設されました。下道と比べ上道は約2倍の距離(2km)となったため、1685年(元禄2年)石部宿から五軒の茶屋が移転することとなりました。しかしその後、上道は距離が長いという理由で再び下道がが整備され、現在の東海道となっています。
 
我々は「上道」を進むことにしました。山の中のルート、さらに距離も長くなりますが・・・頑張ります
 
左折し、宮川に架かる「五軒茶屋橋」を渡ります。
 
自動車部品メーカー「(株)ゴーシュー」を右に見ながら坂道を上っていきます。
 
奥に見えるのは「金山跡」 
 
「金山」とは言っても金ではなく、銅が採掘されていました。江戸時代後期には石炭が掘られ「灰山」と呼ばれるようになりました。
この金山は頭の堅い、融通の利かない人という意味の「石部金吉(いしべきんきち)」の由来になったと云われています。また、石部宿が飯盛女を置かない、堅い宿場であったことを揶揄(やゆ)した意味もあったようです。
久しぶりに聞いた言葉ですが、今「お前は石部金吉か!」と言っても伝わる人は少ないと思います。「石部金吉って誰ですか?」と真面目な顔で返されてしまいそうですね😅 
 
この辺りが五軒茶屋跡です。
 
名神高速道路の高架下を通り・・・
 
坂道を下ると・・・
 
国道1号線(下道)と合流しました。
 
あれ?あまり進んでいない気がします。
 
この時、ずっと道を間違えてしまったのではないかと心配していたのですが、帰宅後改めて旧東海道を確認すると正しいルートでホッとしました
 
ここからは縄手(一本道)が続きます。
 
踏切に不法投棄を注意する看板がありました。
 
😅 右下の写真の赤い旗にも「⛩ ごみを捨てないで!」という注意が・・・お陰で道にはゴミが全く落ちていません。
 
(つづく)
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旧東海道散歩 その47-④ 三雲駅~

2022-08-26 07:20:06 | 日記
「歴史民俗資料館」の案内板がありましたが、調べるとここから歩いて30 分以上かかる山の上とのことで、立ち寄ることを諦めました。旧東海道沿いにあったら絶対に立ち寄っていたのに・・・残念😫 
 
「道祖神」

「東の見附跡」・・・石部宿の東側入口です。
 
幅3m、高さ2m程の台場が道路の中央まではみ出し、通り道を狭くして、番兵が通行人を見張っていました。


石部宿は、本陣2軒、旅籠32 軒の宿場でした。京都を朝出ると、夕方に石部に到着したことから「京たち石部泊まり」と言われたそうですが、我々ののんびり「旧東海道散歩」では、京都到着はまだまだ先のようですね😉 

「𠮷姫(よしひめ)神社の一の鳥居」


「西福寺」
 
「石部小学校」
😀 門がおしゃれです。

石部中央交差点にあるポケットパーク「道の辺広場」
石部宿の歴史を物語る説明版やタイル絵が並んでいました。
 
つつじが満開で美しい😊 
 
江戸時代、この場所には「高札場」や「問屋場」がありました。
 
 
戦国時代、石部には城(石部城)もありました。亨禄年間(1528~1531)に築城(城主は石部久綱)されましたが、信長の家臣佐久間信盛に攻め込まれ、1570 年(元亀元年)に落城、3年後に廃城したそうです。
 
「お半長右衛門」の説明版

京都の帯屋の主人である長右衛門(38歳)は、お伊勢参りに行く途中、石部宿の旅籠(出刃屋)に宿泊し、お半(14 歳)と恋仲になります。しかし妻のいる長右衛門との恋に苦しんだお半は死を選び、遺書を見た長右衛門もお半の後を追い心中を遂げる・・・という悲恋。歌舞伎や浄瑠璃の演目「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」のモデルとなりました。
 
無料休憩所「いしべ宿驛(えき)」でひと休み。
 
屋内には囲炉裏と土間があり、石部宿の町並みや昔の写真が展示されていました。
 
あっ!本日の歩数がちょうど33333歩😄 
 
「小島本陣跡」と「明治天皇聖跡』の碑。
 
先ほどの「いしべ宿驛」にあった小島本陣の写真です。
 
「浄現寺」「明清寺」「真明寺」とお寺が続き・・・
 
角を曲がると・・・
😀「たぬき」と「いしべえどん」の飛び出し人形・・・「いしべえどん」は湖南市のゆるキャラです。
 
「石部宿田楽茶屋」・・・歌川広重の浮世絵を再現したお店です。
 
歌川広重「東海道五十三次之内 石部 目川ノ里」
😀 石部宿と草津宿の間にあった立場の様子が描かれています。描かれた「目川ノ里」は、この場所(再現された「石部宿田楽茶屋」)より草津宿に近い場所にあります。よく見ると店の暖簾に「いせや」と書かれていますね。「いせや」は名物の焼き豆腐田楽が有名な茶店でした。店の前で踊る陽気な人々、それを笑って見ている女性たち・・・楽しそうな旅人たちとは対照的に、荷物を背負って黙々と歩き去る二人の村人の後ろ姿が印象的です。「近江天保一揆」で苦労した村人たちとその姿が重なります。
 
「石部宿田楽茶屋」でお昼にしましょう。
 
メインは「自然薯そば」「茶屋そば」・・・そして名物の「豆腐とこんにゃくの田楽」「芋つぶし」もいただきました。
 
「芋つぶし」は年貢や売り物にならないくず米と里いもを一緒に炊き、潰して丸めたものに味噌をつけて焼き上げたものが原型といわれています。田楽と芋つぶしは同じ甘い味噌をつけて頂きますが、こんにゃく、焼き豆腐、外はパリッ、中はモチモチした「芋つぶし」・・・と異なる食感を楽しめました。美味しかったです😊
 
(つづく)
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旧東海道散歩 その47-③ 三雲駅~

2022-08-23 07:50:00 | 旧東海道散歩
可愛い飛び出し坊や。
 
「針文五郎顕彰碑」

😨 1842年(天保13年)近江天保一揆(野洲、甲賀、粟太の百姓が幕府の不法検知強行に対して蜂起した一揆)で、村人は 「検地十万日延期」(・・・ということは、2115年まで延期ということですね!)の証文を勝ち取りました。しかしその後、 首謀者11人が江戸送りになり、道中3人が死亡、残りの8人は獄死したそうです。針文五郎は人一倍正義感の強い、指導的立場の精農家でした。
 
「針公民館」

😀 休憩されていた地元の男性お二人が「どうぞ座って!」と席を譲ってくださいました。ありがとうございます。お言葉に甘えてひと休み。
 
微妙な薄さがちょっと怖い💦
 
老舗の造り酒屋「北島酒造」
 
「ニヤン度でもお越し下さい 湖南市」
😅 「湖南市」と「こニャンし」をかけています・・・ちょっと難しい。

東海道案内板
 
国指定天然記念物「うつくし松」の説明版がありました。
うつくし松は、根元から放射状に出て傘をひらいたような美しい松で、美松山の斜面にのみ群生する そうです。
 
歌川広重 「東海道五十三次 水口 平松山美松」
平安時代、藤原頼平という貴族が静養でこの 地を訪れた際、松尾神社の使いの娘が現れ、 周囲の山を美しい松に変え、頼平の病気も平癒 したと云われています。
 
家棟(やのむね)川に架かる家棟川橋を渡ると常夜燈がありました。
「家棟川隧道扁額」
実はこの家棟川もかつては天井川でした。1917年(大正6年)天井川の下にトンネル(家棟隧道)が掘られましたが、その後の河川改修工事で川は切り下げられ、流路も変えられた結果、現在のような川になりました。
 
先ほどから交通安全の注意喚起が目立ちます・・・車に気を付けて歩きましょう。
 
ここから900mのところに「うつくし松」自生地がありますが、今回は立ち寄らず旧東海道を進みます。
 
最近では珍しくなったお酒の自動販売機。
 
「浄休寺」
 
「高木陣屋跡」
1698年(元禄11年)高木伊勢守が道中奉行に任命され、二階建ての陣屋を建てました。明治維新後に取り壊されましたが、門は移築され、現在も三雲のステーキハウス「スエヒロ近江店」の門として使用されているそうです。
 
「我々の前を誰かが掃除して歩いているのではないか」と思わせるほど美しい旧東海道が続きます。
 
「光林寺」
「八嶋寺地蔵堂」の道場
 
「南無妙法蓮華経題目碑」
 
「上葦(しほ)穂神社」
 
葦穂神社の石柱前にある「きずな街道休憩所」


落合川に架かる「落合川橋」を渡ります。
 
「これより石部宿」の看板。
水口宿から10.8km・・・久しぶりの宿場です。新型コロナウイルスの影響もあり、約3年ぶりに次の宿場に入ります。
 
(つづく)
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旧東海道散歩 その47-② 三雲駅~

2022-08-20 07:11:00 | 旧東海道散歩
このトンネルは「大沙川隧道(おおすながわずいどう)」


隧道(トンネル)の上には「天井川」が流れています。天井川とは「川底が周りの地面よりも高くなってしまった川」のこと・・・「道よりも高いところを川が流れている」と言うとイメージしやすいでしょうか。

どのように川底が高くなるかというと・・・
初めに川に堤防が作られます。この頃は人家よりも低い堤防です。
川が氾濫した後、河床に土砂が堆積します。その上を川が流れるようになり、次第に河床が上昇するためさらに堤防を高くする・・・これを繰り返すうちに天井川になるのです。

出典:国土交通省HP

全国には240ほどの天井川があり、半数は関西地方にあるそうです。特に滋賀県には81の天井川があり、天井川が多い理由として1000年以上前から平城京の造営や寺社建立のため森林が伐採され、その後も薪炭採取のため森林伐採が続いたことで山が荒れ、森林の保水能力が損なわれ、河川への土砂流出が繰り返されたことが一因と言われています。

江戸時代には今のようなトンネルはなかったので、旧東海道を歩いているとこの天井川にぶつかります。人々は「土手を上がり、川を渡り、また土手を下る」必要がありました・・・大変ですねase2
次第に「簡単に向こう側へ行く方法はないかな~」と思うようになり・・・良い方法を思いつきましたlight「そうだ!天井川の下に穴を掘ってしまおう!」・・・ということで、1884年(明治17年)3月に県下最初の道路トンネルとして大沙川隧道が造られたのです。

今はトンネルを通れば簡単に天井川の向こう側へ行くことができますが…あえて江戸時代のように土手を上がってみましょう。




川の堤防には樹齢750年の「弘法杉」


弘法大師がこの場所で昼食を摂った時、使用した杉箸を突き刺したところ成長し2本の杉になったと云われています。今は1本の大杉のみが残っています。

wink左利きの子供がこの杉の箸を使うと右利きになると云われています。

そして・・・こちらが天井川(大沙川)ですkirakira2


「あれ?意外と小さな川」という気持ちと「これが天井川か・・・」という感動が複雑に交差します。

今まで「天井川」とは縁がなかったので、この場所に来るまでイメージしにくかったのですが・・・その成り立ちを知り、この場所に立つと歴史の壮大さ、ロマンを感じますmeromero2

しばらくこの景色を堪能し・・・今は天井川を渡ることはできないので、来た道を戻り、「大沙川隧道」を通過しました。
😫 大井川隧道を通過し、振り返るとこのような景色です。実はこの隧道・・・車の往来が激しく、とても危険。隧道内は狭く、結構なスピードで車が通り過ぎて行きます。
 
「西往寺」
😀六体地蔵の石仏は室町時代に作られたそうです。

この辺りが「八丈岩・三雲城址」の登り口になります。


八丈岩…確かに「落ちそうで落ちない」感じの岩ですね。


「夏見の里跡」

😀 かつてこの辺りには立て場の役割を果たしていた茶店が数件あり賑わっていたそうです。
水口宿から石部宿まで10.8km… 店先の藤棚や水力で動くからくり人形を眺めながら、名物の冷えたトコロテンや名酒桜川の茶碗酒で一休みする旅人の様子が目に浮かびます。
 
旧東海道を歩いていてふと気が付きました。街の美化活動が半端ない・・・庭が美しく整備されているのはもちろん、道路にゴミひとつ、いや、枯葉ひとつ落ちていません😲 


日本橋から115里の「夏見一里塚跡」


「湖南市夏見会館」でひと休みさせていただきました。
 
美しい旧東海道は続きます。
 
「真宗本願寺派 報恩寺」

「夏見新田交差点」へ向かう「新田道」道標。
😅 古い道標かと思ったのですが、側面に「昭和十年三月改修」とありました。
 
本日2つめの天井川「由良谷川」の「由良谷川隧道」
😀 大沙川隧道の2年後、1886年(明治19年)に造られたそうです。
 
由良谷川隧道を通過し、振り返った景色です。
 
河川改修事業で架けられた「新由良谷川橋」を渡ります。
 
歴史のロマンを感じさせる「天井川」ですが、異常降雨などで河川が氾濫した場合、周囲への被害は甚大なものになります。そこで天井川を解消するための河川改修事業が1976年(昭和51年)度から2023年(令和5年)度にかけて行われています。ということは、来年完成するのですね😄 全体事業費 は約35億円・・・地域の人命・財産などを守るためには大切な事業です。
 
(つづく)
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旧東海道散歩 その47-① 三雲駅~

2022-08-16 08:07:00 | 旧東海道散歩
2019年8月以降中断していた「旧東海道散歩」をいよいよ再開することにしましたpeace

前回の終点地「三雲駅」からスタートです。
niko改めて見ると綺麗な駅舎です。

前回訪れた時に気になった駅前のお寿司屋さんは開店前で利用できず・・・残念。

旧東海道を進む前に、まずは野州(やす)川沿いを戻り、三雲側の「横田の渡し場跡」へ向かいます。

1774年(安永8年)建立された「横田常夜燈」
前回訪れた泉側の常夜燈より50年以上古いそうです。以前は現在地よりも約200m上流にあったということなので、その辺りが三雲側の「横田の渡し場跡」と思われます。

ちなみに野州川は琵琶湖への流入河川なので、今歩いている先が上流になります。
うぐいすのさえずりを聞きながらの散歩は気持ち良い・・・そういえば「うぐいす」は湖南市の市の鳥でした。

道に沿って(川の反対側には)JR草津線が通っています。

前回立ち寄った「横田渡跡常夜灯」が川の向こう側に見えます。
😀 旧東海道はこの辺りで渡し船で野州川を渡りました。

「新海道道標跡」
nikoここから伊賀や伊勢へ続く「新海道」が分岐していました。

この辺りに三雲側の「横田の渡し場」があったはずなのですが・・・残念ながら渡跡を示すものは見つかりませんでしたase
三雲駅へ戻ります。

三雲駅から見える山の斜面にある巨大な岩は「八丈岩」です。

岩の前は急な崖で、落ちそうで落ちない岩として有名なのだそうです。
かつて八丈岩がある山には「三雲城」がありました。
三雲城は戦国時代初期に三雲典膳が築いた山城です。織田信長の攻撃で落城しましたが、「猿飛佐助」が生まれ育った城としても知られています。
猿飛佐助は真田幸村に仕えた甲賀忍者で、「真田十勇士」のリーダーとして有名です。真田十勇士は江戸時代の小説で登場人物も架空の人物ですが、司馬遼太郎が「佐助のモデルになった人物は三雲佐助賢春」と言明したことから、湖南市は「佐助の里」としてPRしています。(佐助のモデルには諸説あります。)

改めて旧東海道散歩再開です。

妙感寺の参道石碑「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」
niko周囲には可愛い飛び出し人形。

萬里小路藤房(までのこうじふじふさ)は後醍醐天皇(鎌倉幕府を滅ぼし建武新政を行った天皇)の側近で「建武の三忠臣」の一人です(他は新田義貞、楠木正成)。39歳で出家し、微妙大師として妙感寺を創建しました。
「いざ鎌倉」の新田義貞と皇居外苑に像がある「楠木正成」は知っていましたが、「萬里小路藤房」さんは初めまして・・・です。

「明治天皇聖蹟碑」
niko明治天皇が行幸の途中休憩された場所です。

八丈岩を正面に見ながら進みます。

荒川橋のたもとには常夜燈。
niko澄んだきれいな川でした。

橋を渡ると三基の道標がありました。
niko「立志神社」「雲照山妙感寺従是十四丁(約1.5km離れた所に妙感寺があります)」「田川ふどう道」


三雲踏切を渡ると・・・この辺りから車の往来が激しくなりました。
旧東海道は国道一号線の抜け道として利用されているようで、狭い道を結構なスピードで車が通り過ぎていきますhi

「旧東海道道標」

遠くに近江富士(三上山)が見えます。

玄関先に「たぬきの置物」を飾るお宅がとても多いです。

「吉見神社社標」

トンネルの手前に「おもてなし処」がありました。

ここで休憩します。

(つづく)


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