りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

思い立ったら中山道 その②-7

2024-06-28 07:17:38 | 旧中山道

「石部道道標」
😀 「すぐいしべみち」「高野郷親善光寺道」・・・分かれ道を進むと東海道の石部宿です。

左側の写真ではわかりにくいですが、街灯に巨大ホタルが!😲 

「ほたる通ノ商店街?」…不思議に思っていたのですが、正しくは「ほたる通り商店街」でした。
😆『り』の一部剥がれてしまい、『ノ』に見えてしまったようです。

この辺りはゲンジボタル(守山ボタル)の群生地として有名で、1902年(明治32年)から天皇陛下への献上が始まりました。明治時代にはホタル問屋(ホタルを売り買いする店)がたくさんあったそうです。
😀 大正時代から昭和初期には、ホタル祭りが盛大に行われていました。


「慈眼寺」・・・別名「帆柱観音」


😀 ご本尊は秘仏「十一面観音世音菩薩立像」・・・最澄が唐から船で帰国する際、嵐から最澄を救った仏様です。

明治時代の政治家「岡田逸治郎之碑」


「高札場跡」・・・守山宿の東側入口です。

ここから先は、守山宿の加宿「吉身村」です。

「益須(やす)寺跡」の解説板

ここから東側100m辺りに、日本で最初の療養施設「益須寺」があったと考えられています。
😀 日本書紀に「病人が益須寺に宿泊して治療した」と記されています。

「吉見三丁目交差点」
😀 遠くに近江富士(三上山)が見えました。

「中山道街道文化交流館」で教えていただいた「守山玻璃(はり)絵館」へ寄り道をしました。有名な和菓子「たねや」グループの洋菓子店です。
😀 「たねや」は滋賀県近江八幡発祥・・・お店は要予約だったので、立ち寄ることは断念しました。


「馬路石邊(うまじいそべ)神社」の社標


野洲(やす)川に架かる「野洲川橋」を渡ります。

野洲川の源は鈴鹿山脈の御在所山で、琵琶湖最大の流入河川です。


江戸時代、橋は架けられず徒渡り(かちわたり)でしたが、朝鮮通信使が通行するときのみ、仮土橋を架けたそうです。

😉この頃から「おもてなし」文化はあったのですね。

遠くに近江富士(三上山)が見えました。

(つづく)

コメント

思い立ったら中山道 その②-6

2024-06-25 07:40:00 | 旧中山道
境川(吉川)に架かる「土橋」・・・守山宿の西側入口です。

😀 瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた、公儀の御普請橋でした。

歌川広重 「木曽海道六拾九次之内 守山」

😀 山桜が咲く春の守山宿を境川(吉川)の土橋から描いています。奥に見える山は近江富士(三上山)です。茶店の縁台に旅人が座り、その右隣の茶店では下女が客を待っています。天秤担いだ行商人、馬に乗った武士と馬を引く馬子、長持を担いだ2人の人足が中山道を東へ歩いています。

守山宿は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠30軒、人口1700人の宿場で、「京立ち、守山泊まり」と言われ、京から江戸へ中山道を旅する人の最初の宿泊地として賑わいました。

「旧旅篭堅田屋」
😀 現在は、お食事処です。



「守山寺 東門院」
😀 比叡山延暦寺の(東方)鬼門を守護するために建立されたお寺です。「延暦寺を守る寺」なので「守山寺」・・・そして守山寺がある宿場なので『守山宿』と名付けられたと云われています。

門前に明治天皇聖蹟の石柱がありました。


「朝鮮通信使」の宿舎にもなったそうです。

😀 朝鮮通信使とは、江戸時代に朝鮮から日本への国書を持って派遣された外交使節です。主に将軍の代替わりを祝うため、計12回派遣されました。

「高札場跡」

1744年(延享元年)建立の道標・・・「右 中山道 幷 美濃路」「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」 

😀 我々は、右の中山道を進みますが、左の道は琵琶湖(木浜港)へ行くことができます。

「中山道街道文化交流館」に立ち寄りました。

ライトアップされた竹細工や・・・


浮世絵(木曾街道六十九次)が展示されていました。


1階では地元の方々がお茶飲み話しをされていて、我々も仲間に入れていただきました。
日本橋を目指し、中山道を歩く予定であることをお伝えすると、「中山道は山道が多いから、くれぐれも熊に気を付けるように」とアドバイスいただきました。楽しい時間をありがとうございました😊 

「小宮山九右衛門本陣跡」
😀 井戸は、1833年(天保4年)以前から存在したものです。

「天満宮」

町屋「うのの家」


江戸時代末期から明治初期にかけて建てられた造り酒屋「荒長(あらちょう)」は、平成21年頃まで酒造りをしていたそうです。

屋内には、守山宿のジオラマが展示されていて、市民の憩いの場として利用されているそうですが・・・

なんと、元内閣総理大臣 宇野宗佑さんのご実家でした。
😅 総理大臣を輩出した家であることを、もっとアピールしても良い気がしますが・・・いろいろあって在任期間69日で総理を辞任したことが影響しているのか、ご家族が謙虚なのか、小さな展示が、むしろ印象的でした。
(その後、立派な展示室が設けられたようです😊

(つづく)
コメント

思い立ったら中山道 その②-5

2024-06-22 07:42:00 | 旧中山道
「十王寺」

小野妹子の子孫、小野篁(たかむら)作と云われる「十王と倶生神(くしょうじん)」が安置され、開基したと云われています。


道教や仏教では、地獄に落ちると裁判官的な十王に審判されますが、十王の中でも閻魔王が最も有名なので、この寺の別名は「閻魔堂」です。

😀  倶生神は、人とともに生まれ、その人の一生の善悪をすべて記録し、死後閻魔王に報告すると考えられた神様です。

ということで、かつてこの地は「閻魔堂村」と呼ばれていました。閻魔堂村は、山城淀藩領の飛び地領でした。
十王寺向かいの諏訪神社境内にある領界石は、元々は今宿村と閻魔堂村の境ににあったものです。

😀 「従是南淀藩領」

今でもこの辺りは「焔魔堂町」です。

「住蓮房母公墓」の標石

民家の路地を入っていくと、墓地があります。

住蓮は、鎌倉時代前期の僧侶で、法然上人の弟子でした。
法然上人が説く浄土仏教は、「南無阿弥陀仏を唱えれば、阿弥陀様は誰でも極楽浄土へいざなってくれる」というわかりやすい仏教で、当時、都で人気が拡大中・・・ある時、美男で美声の住蓮と安楽(法然上人の弟子)が六時礼讃という念仏会を行ったことがきっかけで、後鳥羽上皇の二人の女官(松虫姫、鈴虫姫)が帰依(きえ)し、剃髪、出家してしまったのです。怒った後鳥羽上皇は、法然上人門下への弾圧を強め、住蓮は翌年の1207年(承元元年)近江馬渕村(現在の近江八幡市)の池のほとりで斬首されてしまいました。(法然上人は土佐に流罪となりました。)
住蓮が捕えられたことを知った住蓮の母は、息子に一目会いたいと馬渕村へ向かいましたが、閻魔堂村ですでに斬首されたことを知り、閻魔堂の池(尼ケ池)に身を投げてしまったそうです😢 

「焔魔堂町交差点」を渡ると・・・




日本橋から128里「今宿一里塚」
😀 滋賀県に唯一現存する一里塚(南塚のみ)・・・樹齢150年の榎は2代目です。

守山市内の歩道には、観光スポットにこのような案内表示があり、とても便利でした。


「今宿町交差点」


江戸時代、今宿村は守山宿の「加宿」で、守山宿で常備すべき人馬が少ない場合に不足する人馬をおぎなう役割をする村でした。

「本像寺」

境内には、鉱物学者「木内石亭」の墓があります。



「樹下(じゅげ)神社」

境内には1831年(天保2年)豪商伊勢屋佐七が中心となり寄進した常夜燈と・・・

😀 当初はこの先の「土橋」の橋詰にありましたが、明治時代初期の境川の洪水で、境内に移されたそうです。

「安産石」がありました。

😀 902年(延喜元年)、菅原道真が大宰府に左遷された際、家族は信州に流されることになりました。途中、道真の娘が急に産気付き、この地で亡くなってしまいました。亡くなる時、娘は看病してくれた村人たちに感謝し、平石に「皆が、自分と同じようにならないように」と念を送り、以後、妊婦がこの平石の下の砂を身に付けると安産になる事から、安産石と呼ばれるようになったと云われています。

「停車場道」の石碑。
😀 1912年(明治45年)JR守山駅と中山道を結ぶ守山市で最初の道路「守山停車場線道路」の開通を祝い建立された石碑です。

(つづく)

コメント

思い立ったら中山道 その②-4

2024-06-19 07:38:00 | 旧中山道
葉山川に架かる「葉山川橋」を渡り・・・

 しばらく真っすぐな道を進みます。

草津市から栗東市へ入りました。
😖 ここからはガードレールがなく、車もスピードを出して通るので、とても歩きにくい道でした。

「八幡宮」

魅力的なお店が続きます。
😀 懐かしい感じの喫茶店。

😍 近江牛の焼肉屋さん。

中の井川に架かる「百々川(どどがわ)橋」

「大宝(だいほう)小学校」


「綣(へそ)交差点」
😀 この地域は、古くからの麻織物の産地でした。 一説には、織物機に装着する麻糸を巻いた糸玉を「綣」呼んだことが、地名の由来と云われています。

道路沿いに松尾芭蕉の句碑が点在していると思ったら・・・


このような案内板がありました。

701年(大宝元年)創建の「大宝神社」


神社に隣接した公園には、松尾芭蕉の句碑がありました。
「へそむらの麦まだ青し春のくれ」
(ずっとあちこちと旅してきたが、ここ綣村あたりの麦はまだ青い。種蒔きがおくれたのか、寒かったのだろうか。もうまもなく春も暮れようとしているのに・・・)

 😫 ただし、この句は芭蕉の存疑句(芭蕉の作か、判定しがたい句)の一つとされています。全国各地、芭蕉の眞作と偽って金品に換えた詐欺まがいのものが多く、今でも本物か判定が難しい句が多く存在しています。
個人的には・・・芭蕉の句ではないように感じました。(あくまでも個人の感想です。)

公園内には、楽し気なブランコがありました。

公園沿いの道を進みます。

栗東市から守山市に入りました。

再びガードレールのない道を進みます。車がギリギリを通過していくので、車が通るたびに端へ避けて・・・を繰り返しながら歩いているので、とっても歩きにくいです😭 

「古高俊太郎先生誕生地」の石碑。

古高俊太郎・・・聞き覚えのある名前です。
古高俊太郎は幕末の尊王攘夷を掲げる勤王の志士でした。この地で生まれ、京で古道具、馬具を扱う「枡屋」を営みながら、諜報活動を行っていました。しかし、新選組に捕らえられ、激しい拷問を受け、「風の強い日に御所に火を放ち、天皇を長州へ連れ去ろうとする計画」があり、その集会が池田屋で開かれること自白します。この情報を元に新選組が襲撃したのが、あの有名な「池田屋事件」です。その後、六角獄舎に収容されましたが、禁門の変の火災に乗じて、斬首されてしまいました。享年36歳でした😰 

守山市の飛び出し人形は「モリピー」
😀 笑顔を見るのが大好きなハートの妖精で、頭に守山市花「ハス」を飾っています。

(つづく)

コメント

思い立ったら中山道 その②-3

2024-06-16 07:10:00 | 旧中山道
大路交差点を渡り・・・


「ポケットパーク」


「地蔵大菩薩」

「光明寺」


とても可愛い「とびだし人形」発見!


「佛乗寺」

伊佐々川橋を渡ると・・・
😀 川は、この先の神社の参拝者が身を清めたことから「御手洗(みたらし)川」とも呼ばれていたそうです。

その神社が「伊砂砂(いささ)神社」

平安時代、疫病が流行った時に、村人が大将軍(勝運の神・病除の神)を祀ったのが始まりと云われています。

😀 本殿は国指定の重要文化財です。

9月13日の灯明祭で奉納される「渋川の花踊り」は、室町時代から続く伝統芸能で、県の選択無形民俗文化財に指定されているそうです。

😀 先ほど見た飛び出し人形は、「渋川の花踊り」のマスコットキャラクター「しぶはなちゃん」・・・喜んだり、笑ったり、びっくりすると、花笠から花びらがたくさん舞い散るそうです。


県道2号線高架下を通過します。

時々現れる「しぶはなちゃん」に見守られながら、旧中山道を進みます。


時々、信楽焼のタヌキも登場。




ここから先は車は通行禁止。


細い路地のような道で不安になりますが・・・旧中山道です😆 


突き当りを左折し、ものすごく低いトンネルの下を進み・・・


トンネルを出たら右折します。
😀 振り返るとこのような景色です。

(つづく)


コメント