西追分で右側の国道1号線沿いを進みます。
「転び石」
大昔、山の頂上にあったこの大石は、いつしか転がり落ちてきて不気味な音をたてていましたが、弘法大師の供養でおとなしくなったと云われています・・・うん?小夜の中山にも同じような「夜泣き石が」ありましたね。そういえば「夜泣き石」も弘法大師が供養されていました。
右側の脇道に入ります。
新緑が美しい季節です。
鈴鹿川に架かる市瀬橋を通り・・・
国道1号線を横断し、左側の側道を進みます。
自然石を集めて灯籠にした「山燈籠」がありました。
「西願寺(さいがんじ)」
こちらの門前にも山燈籠がありました。
再び国道1号線に合流。
正面に見える三角形の山が名勝地「筆捨山(ふですてやま)」です。
旅の途中、狩野元信(室町時代の絵師)がこの山を描こうとしますが、雲や靄がたちこめ風景が刻々と変化するため描ききれず、筆を投げ捨ててしまったという逸話が「筆捨山」の名前の由来です。
歌川広重「東海道五十三次之内 坂之下 筆捨嶺」
旅人が対岸の峠の茶屋から筆捨山を眺める姿が描かれています。山と茶屋の間・・・雲海の下にあるはずの鈴鹿川は描かれていませんが、谷の深さを感じます。山には重なり合う奇石、古松が描かれています。また実際には存在しない滝も描かれています。
この浮世絵が好きで、この場所を訪れることを楽しみにしていたのですが・・・
「藤の茶屋跡」周辺をいくら探しても浮世絵の景色には出会えませんでした。
ヤギはいました。
仕方がないので、この景色でイメージを膨らませることにしましょう。
鈴鹿川に架かる「弁天橋」を渡り・・・
日本橋から107里の「坂下一ノ瀬一里塚跡」
標識に従い右折すると・・・
景色が変わりました。
「超泉寺」
沓掛(くつかけ)集落
「沓掛」の地名は山道で沓(草鞋)が壊れ新品に履き替えた際、古い草履を木にかけて道中の安全を願ったことに由来します。
先ほどから少し前を歩かれていたお仲間が戻ってきました。
「この先、まだ歩くの?鈴鹿峠を越えるの?」
「はい。鈴鹿峠を越えようと思います」
「そうなの 私たちはタクシーを呼んで帰ることにしたの。バス停はあるけど、バスはなかなか来ないみたいだし・・・気を付けてね。」
お仲間とはここでお別れです。
「日本橋」「川崎」「小田原」・・・知った地名が並ぶ木の柱に誘われて坂道を上ると「鈴鹿馬子唄会館」でした。
鈴鹿馬子唄、坂下宿、鈴鹿峠についての資料展示があります。
館内へ入ると親切なスタッフの方がわざわざ出てきてくださって
「今日は暑いでしょう。ゆっくり休んでいってくださいね」
スリッパに履き替えて館内へ入ると・・・「鈴鹿馬子唄」が流れ、木の香りに包まれます。そしてとても涼しい
居心地が良すぎて立ち上がれません。
鈴鹿峠は旧東海道の中で箱根に次ぐ厳しい峠でした。この峠を越える時に馬に荷物や人を乗せて運んだのが「馬子(まご)」でした。この馬子が、馬の首につけた鈴にあわせて口ずさんだ仕事唄が、鈴鹿馬子唄です。(そういえば箱根にも箱根馬子唄というのがありましたね。)
鈴鹿馬子唄
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る 馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しよというた 坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に 手綱片手の浮雲ぐらし 馬の鼻唄通り雨 与作思えば照る日も曇る 関の小万の涙雨 関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足 関の小万の米かす音は 一里聞こえて二里ひびく 馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら 昔恋しい鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする」
実は、関宿には小万が二人いました。仇討ちを成し遂げた小万と近松門左衛門作「丹波与作待夜の小室節」に出てくる遊女小万です。馬子唄の中では、二人の小万が混在しているようですね
隣接する「坂下尋常高等小学校」・・・1938年(昭和13年)建てられた木造校舎が残っています。1979年(昭和54年)廃校になり、現在は研修施設として利用されています。
朝礼台に上って広い校庭を見渡すと校長先生になった気分。
再び旧東海道を進み・・・
鈴鹿川に架かる「河原谷橋」を渡ると・・・坂下宿の東側入口です。
(つづく)
「転び石」
大昔、山の頂上にあったこの大石は、いつしか転がり落ちてきて不気味な音をたてていましたが、弘法大師の供養でおとなしくなったと云われています・・・うん?小夜の中山にも同じような「夜泣き石が」ありましたね。そういえば「夜泣き石」も弘法大師が供養されていました。
右側の脇道に入ります。
新緑が美しい季節です。
鈴鹿川に架かる市瀬橋を通り・・・
国道1号線を横断し、左側の側道を進みます。
自然石を集めて灯籠にした「山燈籠」がありました。
「西願寺(さいがんじ)」
こちらの門前にも山燈籠がありました。
再び国道1号線に合流。
正面に見える三角形の山が名勝地「筆捨山(ふですてやま)」です。
旅の途中、狩野元信(室町時代の絵師)がこの山を描こうとしますが、雲や靄がたちこめ風景が刻々と変化するため描ききれず、筆を投げ捨ててしまったという逸話が「筆捨山」の名前の由来です。
歌川広重「東海道五十三次之内 坂之下 筆捨嶺」
旅人が対岸の峠の茶屋から筆捨山を眺める姿が描かれています。山と茶屋の間・・・雲海の下にあるはずの鈴鹿川は描かれていませんが、谷の深さを感じます。山には重なり合う奇石、古松が描かれています。また実際には存在しない滝も描かれています。
この浮世絵が好きで、この場所を訪れることを楽しみにしていたのですが・・・
「藤の茶屋跡」周辺をいくら探しても浮世絵の景色には出会えませんでした。
ヤギはいました。
仕方がないので、この景色でイメージを膨らませることにしましょう。
鈴鹿川に架かる「弁天橋」を渡り・・・
日本橋から107里の「坂下一ノ瀬一里塚跡」
標識に従い右折すると・・・
景色が変わりました。
「超泉寺」
沓掛(くつかけ)集落
「沓掛」の地名は山道で沓(草鞋)が壊れ新品に履き替えた際、古い草履を木にかけて道中の安全を願ったことに由来します。
先ほどから少し前を歩かれていたお仲間が戻ってきました。
「この先、まだ歩くの?鈴鹿峠を越えるの?」
「はい。鈴鹿峠を越えようと思います」
「そうなの 私たちはタクシーを呼んで帰ることにしたの。バス停はあるけど、バスはなかなか来ないみたいだし・・・気を付けてね。」
お仲間とはここでお別れです。
「日本橋」「川崎」「小田原」・・・知った地名が並ぶ木の柱に誘われて坂道を上ると「鈴鹿馬子唄会館」でした。
鈴鹿馬子唄、坂下宿、鈴鹿峠についての資料展示があります。
館内へ入ると親切なスタッフの方がわざわざ出てきてくださって
「今日は暑いでしょう。ゆっくり休んでいってくださいね」
スリッパに履き替えて館内へ入ると・・・「鈴鹿馬子唄」が流れ、木の香りに包まれます。そしてとても涼しい
居心地が良すぎて立ち上がれません。
鈴鹿峠は旧東海道の中で箱根に次ぐ厳しい峠でした。この峠を越える時に馬に荷物や人を乗せて運んだのが「馬子(まご)」でした。この馬子が、馬の首につけた鈴にあわせて口ずさんだ仕事唄が、鈴鹿馬子唄です。(そういえば箱根にも箱根馬子唄というのがありましたね。)
鈴鹿馬子唄
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る 馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しよというた 坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に 手綱片手の浮雲ぐらし 馬の鼻唄通り雨 与作思えば照る日も曇る 関の小万の涙雨 関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足 関の小万の米かす音は 一里聞こえて二里ひびく 馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら 昔恋しい鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする」
実は、関宿には小万が二人いました。仇討ちを成し遂げた小万と近松門左衛門作「丹波与作待夜の小室節」に出てくる遊女小万です。馬子唄の中では、二人の小万が混在しているようですね
隣接する「坂下尋常高等小学校」・・・1938年(昭和13年)建てられた木造校舎が残っています。1979年(昭和54年)廃校になり、現在は研修施設として利用されています。
朝礼台に上って広い校庭を見渡すと校長先生になった気分。
再び旧東海道を進み・・・
鈴鹿川に架かる「河原谷橋」を渡ると・・・坂下宿の東側入口です。
(つづく)