りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
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思い立ったら中山道 その②-5

2024-06-22 07:42:00 | 旧中山道
「十王寺」

小野妹子の子孫、小野篁(たかむら)作と云われる「十王と倶生神(くしょうじん)」が安置され、開基したと云われています。


道教や仏教では、地獄に落ちると裁判官的な十王に審判されますが、十王の中でも閻魔王が最も有名なので、この寺の別名は「閻魔堂」です。

😀  倶生神は、人とともに生まれ、その人の一生の善悪をすべて記録し、死後閻魔王に報告すると考えられた神様です。

ということで、かつてこの地は「閻魔堂村」と呼ばれていました。閻魔堂村は、山城淀藩領の飛び地領でした。
十王寺向かいの諏訪神社境内にある領界石は、元々は今宿村と閻魔堂村の境ににあったものです。

😀 「従是南淀藩領」

今でもこの辺りは「焔魔堂町」です。

「住蓮房母公墓」の標石

民家の路地を入っていくと、墓地があります。

住蓮は、鎌倉時代前期の僧侶で、法然上人の弟子でした。
法然上人が説く浄土仏教は、「南無阿弥陀仏を唱えれば、阿弥陀様は誰でも極楽浄土へいざなってくれる」というわかりやすい仏教で、当時、都で人気が拡大中・・・ある時、美男で美声の住蓮と安楽(法然上人の弟子)が六時礼讃という念仏会を行ったことがきっかけで、後鳥羽上皇の二人の女官(松虫姫、鈴虫姫)が帰依(きえ)し、剃髪、出家してしまったのです。怒った後鳥羽上皇は、法然上人門下への弾圧を強め、住蓮は翌年の1207年(承元元年)近江馬渕村(現在の近江八幡市)の池のほとりで斬首されてしまいました。(法然上人は土佐に流罪となりました。)
住蓮が捕えられたことを知った住蓮の母は、息子に一目会いたいと馬渕村へ向かいましたが、閻魔堂村ですでに斬首されたことを知り、閻魔堂の池(尼ケ池)に身を投げてしまったそうです😢 

「焔魔堂町交差点」を渡ると・・・




日本橋から128里「今宿一里塚」
😀 滋賀県に唯一現存する一里塚(南塚のみ)・・・樹齢150年の榎は2代目です。

守山市内の歩道には、観光スポットにこのような案内表示があり、とても便利でした。


「今宿町交差点」


江戸時代、今宿村は守山宿の「加宿」で、守山宿で常備すべき人馬が少ない場合に不足する人馬をおぎなう役割をする村でした。

「本像寺」

境内には、鉱物学者「木内石亭」の墓があります。



「樹下(じゅげ)神社」

境内には1831年(天保2年)豪商伊勢屋佐七が中心となり寄進した常夜燈と・・・

😀 当初はこの先の「土橋」の橋詰にありましたが、明治時代初期の境川の洪水で、境内に移されたそうです。

「安産石」がありました。

😀 902年(延喜元年)、菅原道真が大宰府に左遷された際、家族は信州に流されることになりました。途中、道真の娘が急に産気付き、この地で亡くなってしまいました。亡くなる時、娘は看病してくれた村人たちに感謝し、平石に「皆が、自分と同じようにならないように」と念を送り、以後、妊婦がこの平石の下の砂を身に付けると安産になる事から、安産石と呼ばれるようになったと云われています。

「停車場道」の石碑。
😀 1912年(明治45年)JR守山駅と中山道を結ぶ守山市で最初の道路「守山停車場線道路」の開通を祝い建立された石碑です。

(つづく)

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