クリスマス前の暖かい日、二人でオルニャオの町の西側へ散歩に行った。この辺りは塩田が広がり冬では完全に見捨てられたようになっている。そしてここの塩田でこの冬初めてのフラミンゴの小さな群れを見つけた。彼らはどこにも行かず一年中この辺りにいるらしい。
この日、日中は直射日光下では30度近くにもなったが夜になると急に気温が下がる。ここポルトガル南では零下になることは無いが、日中があまり暑いと夜間の冷えは特に厳しく感じる。
散歩途中の住宅街のテレビアンテナに変わった鳥が止まってさえずっていた。木管楽器の一音だけを鳴らしているようで鳥の鳴き声とは思えないフッフッフッー、フッフッフッーの聞きなれない音だった。今まで3年もこの辺りに滞在して初めて見かけた鳥で、キャンパーへ帰り、隣のスコットランド人の夫妻、ダンカンとロズに話したら、鳥の図鑑を見せてくれ、英語でフーパーという名前だそうだ。
それ以来出かけるときはなるべく望遠の利く大きなカメラを持ってゆくことにしている。
クリスマスの朝、ダンカンの音頭とりでキャンパー周囲の5組の夫婦が集まってクリスマス・ブレックファーストのパーテイを開いた。
スコットランドでは朝からスモーク・サーモンとスクランブル・エッグにシャンペンでお祝いするらしい。ロズがクックしてくれ10人が陽だまりで飲みながらおしゃべりしていたら、急なにわか雨で、パーテイはお開きになった。
このパーテイには私も以前から食べてみたかったポルトガルのケーキを買ってきて、皆で食べたがやっぱり非常に甘い。ポルトガルはヨーロッパで糖尿の罹患率が一番高く、10人に一人は糖尿病を患っているという。これは毎週金曜日に発行されるポルトガルの英語新聞に書かれていたもので、なるほどとうなずける。
クリスマスの翌日は向かいのベルギー人のマイケル(ベルギー語ではミッチェル)の誕生日でパーティは太陽が暑い午後の4時から始まった。マイケルはまだ58歳、もう2年はこのキャンプサイトに来ていると言うから退職したのは55歳と言うところだろう。検眼士として働いていたが元気で旅行できるうちにと早期退職したと言うから、そうできる人が一体何人いるだろうかと思ってしまう。
イギリス人夫婦のディヴとダイアン、オランダ人夫妻のヤンとヘリーン、皆が私よりも若いので驚いてしまった。
若い彼らの飲むこと!!!日が沈んで急激に寒くなりパーティーはディヴのキャンパーに付随したテントの中に持ち込まれて夜9時まで飲んでジョークを語り、こんなに友好的な人達の間にキャンプできたことはラッキー。旅は人とのつながりなのだとつくづく思う毎日だ。
キャンプサイトの入り口にもクリスマスのデコレーションが出来上がった。町に只一箇所ある小さなショッピングセンターにも1カ月ほど前からこのツリーらしくないツリーが立っている。しかし今年のポルトガルの不況は深刻で、いつもは街路を彩るクリスマスデコレーションは廃止された。貧困層にはチャリティが食事提供や、市民からの物品提供を募ってプレゼントするとのこと。
先週の土曜日、町の中心の教会横で、ポルトガルの伝統クリスマスケーキを切り分けて一般市民にプレゼントしていた。私も小さな2切れを貰って味見してみた。スポンジケーキに色とりどりの砂糖漬けのチェリーやナッツが入っていて上もカラフルな砂糖漬けのくだもので飾られている。特にオレンジを皮ごと砂糖漬けにしたものは今まで食べたことが無く珍しい。まるでマーマレードの塊のよう。
スーパーマーケットで買ったポルトガルのクリスマスケーキはイギリスのどっしりしたフルーツケーキやドイツのマージパンが入ったシュトールンと違って、甘いパン生地の中にフルーツやナッツが入っていてとにかく甘い。ポルトガルのお菓子は種類が多くバラエティーに富んで居るが全体にとっても甘い。イギリスのフルーツケーキは半年も前に作ってブランディを入れて熟成させるから、ずいぶん長持ちする。シュトールンもイーストを入れて膨らませた生地にたっぷりの干しブドウを入れて焼いたもので上には粉砂糖が雪のようにかかっている。私はこのシュトールンが大好きで一年に一回はこれを食べないで年を越せない。
ポルトガルはカソリックの国で国民のほとんどは聖母マリアを深く信仰しているから、街角にはキリスト生誕の馬小屋の再現が行われている。
ショッピングセンターの3階は食堂街でウイークディのお昼でも若者が多いことに驚かされる。彼らは仕事を持っていないのだろうか?
毎日青空が続いて気持ちのよい日々、このキャンプサイトへやってきて一週間目に近くのイギリス人夫妻から、大きなテレビ受信機はサイトで預ってくれると聞いて1.2メーターの巨大受信機を買い設置してもらった。これを買いに行った時は2日かかった。まず初日はポルトガルはスペインほどシアスタも無いからと思って朝から町へ出かけたのにショッピングセンターでお昼を食べてゆっくりしていったら、この日は午後1時で閉まると書いてあり、翌日朝11時にお店に行ったらば、午後2時半からオープンと書いてある。3時間もあちこちで時間つぶしをしてやっと店に入ることが出来た。
いったん予約したら翌日午後には受信機が設置されて(英国では考えられない)、これで英国のBBC, ITV 等が見られる。NHKのワールドニュースやドイツの沢山の番組はキャンパーの後ろに取り付けた小さな受信機で見ることが出来る。これで来年3月までどこにも行かず、(実際動けず)このサイトに落着くことになった。
毎週土曜日に魚市場やローカルの野菜マーケットへ行くのが楽しみで、ショッピングトローリーを持っていって山ほど買ってくるから、亭主からはひんしゅくをかっているが、彼も半分は食べるのだから文句言うことは無いと思う。
サボテンの花の蜜を吸っている鳥は雀では無いが名前は知らない。
ポルトガルのオルニャオのキャンプサイトに落着いてもう一月近くになる。ここは過去3年の間に何度も逗留したところで、まるで古巣に帰ってきた渡り鳥の心境。あまりに居心地が良く、毎日がストレスフリーで過ぎてゆく。
この巨大なキャンプサイトは、オルニャオの町外れにあり、町の中心まで歩いて30-40分かかる。この町は南ポルトガルの、ファーロから8Km東に位置した田舎の海岸町で、ポルトガルの一般市民の生活の場所であり、昨年まで過ごしたクォティラやアーマセルのような派手なホテル群がほとんどない。
今年はここのサイトが割合空いていて、初めてインターネットがキャンパーの中で見られるアンテナの直下にキャンパーを停めることが出来た。昨年まではラップトップを持ってアンテナ近くのべンチに座ってメールを送っていた。
このキャンプ地のワイヤー塀の外側は公園になっていて毎朝沢山のジョガーが走り、犬と散歩する男女が賑やかに通り過ぎてゆく。
ここには立派なバンガローがズラーと並んでいて、週末になるとポルトガルの家族ずれや、親戚、友人たちが一泊にやってくる。そしてバンガローの庭のバーベキューでパーティを開いている一団が多い。12月の気候は日中気温が15度から20度くらい、夏には40度以上になるこの海岸線では今の季節が一番過ごしやすいのかも知れない。
町の中心地は外壁にタイルを張った旧式の住居が密集しているが、このサイトの周辺まで来るとすごい豪邸が建ち並んでいて、貧富の差の激しいこの頃、ポルトガルの英語新聞に拠れば国民の4分の1が貧困にあえいでいると言う。
公園の外はきれいに耕された畑地とオレンジ畑、海岸線はフラミンゴやコウノトリ、鷺などが餌を食む海水の出入りする湖で今年はまだフラミンゴの姿が見えない。
この湖はリア・ファモーザと呼ばれる国定公園で、公園に併設された養魚所では網が徹底的に張り巡らされて、空からの襲撃を防いでいる。このファモーザの外海は遠浅の海でアサリが採れ、引き潮時には沢山の男女があさり採りをしている。彼らはこの貝を生活の糧にしていて、道端やマーケットで売っている。失業者も多い国だからどんな方法であろうと、生活のためにこうして働いているだけでもすごいと思う。がんばって欲しい。
この町にはコウノトリがいっぱい巣造りしていて目新しいことは無いが、たまたまこのクレーンを見上げてびっくり。コウノトリが3箇所も巣を作っていて、そのためか休業している。このクレーンの下には作りかけのアパートが放置されている。
ジブロルタルからポルトガルへ向かう海岸線の道はこの3年間何度も往復していて、写真を写す気にもならないほど、慣れてしまった。でもこの日ほど良い天気になったのもまれなことで、スペインの最南端タリファからアフリカ大陸まで15kmの海峡にアフリカ大陸が悠々と横たわっているのがはっきり見える。
このタリファの辺りは海岸から急に盛り上がった山脈が連なっているためジブロルタルからの道は一山越えなければならない。この山はいつ通っても風が強く、風力発電には最適な場所だと誰でも思うだろう。延々と連なる発電機が相当大きな唸り声を上げて回っている。こんなにうるさい発電機は住宅地の近くには設置できないだろう。
今までスペイン国内の各地を走り回って、この風力発電と太陽熱発電の多さには感心する。スペインは風と太陽光線を大いに活用して世界の温暖化に歯止めをかけようとしているようだ。それでもこの国が経済危機に面しているのは、夏が暑すぎるためなのだろう。
日中はシアスタがあって4時間ほども店も閉まり働いている人を見かけることが無い。またカソリックの国だから日曜日はスーパーも完全に閉まってしまう。スペイン全体がゆっくり回転しているような気がする。
先日韓国の有名なピアニストのインタビューを見ていたら、留学したところがマドリッドで、半年もしたら自分が怠け者になっているのに気がつき、ドイツに留学先を変えたという。空港に降り立った時から空気が引き締まっているのを感じた。・・・・との話にうなずくところが多かった。
日本も夏の暑さはスペインに負けないけれど、あれだけ経済発展したのは国民の気力の違いだと思う。国民一人ひとりが暑さを工夫し、シアスタなしで働かなければ経済危機から抜けられない。今ヨーロッパで騒がれているユーロの危機がほとんど地中海沿岸なのを見ても暑さが危機の根底にあると思う。
ポルトガルは今年の国民休日を一日減らしその財政困難に対処している。一日分の国民全体の労働力がどれほど国の財政に力になるか判らないけれど、ギリシャのように国の財政が破綻寸前時に労働者全体がストをしていたら一体どうなるのだと人事ながら怒っているこの頃。
途中の休憩時に道端に瓜の花のようなつる性の雑草が群れていた。この実が熟れてややうす緑がかったのを採ってみようと触っったとたん何10分の1秒くらいの速さで実がはじけ、中の水分が顔にかかった!!!。これが毒だったらどうなるだろう。目に入ったらどうしよう。あまりの速さに只唖然としていた。棒でつついてみたりするが、はじけるところを目に見ることが出来ない。
カディス県のコニールのロッシェ・キャンプサイトは、ジブロルタルへの往復にいつも数日泊まってゆっくりするので、サイトのレセプションでも覚えてくれていて、大歓迎してくれた。今回も3泊して掃除洗濯等の家事に専念、近くを散歩に行って農道のあまりの変わり様に驚いた。
右の写真は今年2月にモロッコからの帰りに寄った時の農道で、左の写真の同じ道が11月半ばの大嵐で、上土が全部流されてしまって悲惨な姿になっていた。
このヘヴンリー・ブルー(天国の青)と呼ばれる朝顔は南国の雑草で一年中咲いている。ここスペインではあまり大きくならず、地面を這っているのが多い。
イスラ・クリスティーナはポルトガルとの国境の港町で、この街へ行くまでの周囲はビニールハウスの海で、野菜の促成栽培がなされている。
たまたま散歩に行ったこの日が日曜日で、お店は全部閉まりほとんど人影もなく活気の無い町、おまけにメインストリートの道端にこのように洗濯物が翻っていると、ジプシーの家族が住んで居るのかといぶかってしまう。スペイン、イタリアの高層住宅の路地には洗濯物が翻っているけど、このように街路樹に干しているのははじめてみた。この町のイメージを著しく損なう。
町外れは塩田が広がり大きな塩の山があった。雨にも溶けないのだろうか?翌日この塩田をキャンパーで通り過ぎるとたくさんのコウノトリが塩田中を歩き回ってえさを探していた。
海は穏やかで、犬と散歩している人達やマイクロライツの二人組みが音を立てて飛んでいた。海の向こうにポルトガルが見える。
ロンダのキャンプサイトは一面のオリーヴの木の間にキャンパーを停めるように成っている。一月はオリーヴの収穫期で今ではほとんど採りいれられるほどつややかでふくよかな実が鈴なりになっている。それにしてもこのサイトのオリーヴの木の年季の入っていることには驚かされる。ほとんどの木が曲がりくねり太い瘤のような根元で何十年も毎年実をつけてきているのだろう。
このオリーヴが主産業のアンダルシア地方では想像も着かないほどのオリーヴの収穫があるのだろう。寒い英国ではオリーヴの木は育っても実の収穫は望めない。それでも庭に一本植えてみたいと思っている。
さてロンダをでると次に目指すはジブロルタルで道路もカーナビに頼らずに行ける100km。ここも道路が良くて深い山並みを曲がりくねって南に下りてゆく。遠くに見える山や深い谷間にもあちこちに白い村の塊が見える。
これらの村を見ながら旅するうちに谷間の真珠という言葉が浮かんだ。本当にこの深い山間や谷間にどれだけの小さな村があるのだろう。そして人々はどんな生活をしているのだろうか?
ジブロルタルに後2-30kmくらいになると辺りは平野になりオレンジの畑が広がりだした。そして見かけるようになったのが電信柱に巣作りしているコウノトリの夫婦。
彼らも集団生活をするらしく周囲の電信柱に全部コウノトリの巣が載っていた。
もう何度もジブロルタルにやってきているから珍しくも無いが、港の向こうにモロッコの岩が見える。ギリシャ神話では力持ちのハーキュリーがジブラルタルの岩とモロッコの岩を二つに割って古代ギリシャ世界の門にしたとの物語。アフリカがこんなに近くに見える
。
オルヴェラからロンダまでは山間の道を走って一時間で着く。ここは2年前にも来て3泊したところだけれどもどうしても見たい(写真を撮りたい)ところが有ったのに行けなかった。
今回は高い石橋を谷間から撮る為に同じキャンプサイトに一泊することにした。ロンダの周辺には3箇所のキャンプサイトがあるが、このサイトが町から一番近く歩いて2Kmほどで旧市街に着く、そして一番値段の高いサイトでもあるわけだ。一泊23.5ユーロもする。
午後1時頃にキャンプサイトに落ち着くと2時には町へ向かって歩いていた。谷間に下りてゆくから亭主には観光案内所の前で会う約束をして城門の手前で石畳の細道を左に折れた。
この石畳がことのほか歩きにくい。こんな時には底の厚いスポーツシューズが一番いいが、今回の旅では持ってこなかった。
曲がりくねってどんどん急坂を下りてゆくと、スペイン人のおじさんがこの坂道を駆け上るトレーニングをしている。見下ろす私から見るとまるでよたよた歩いているようで、どんな年寄りかと思ったら、まだ30代の若い人だった。
誰も居ない道をどんどん下ってやっとオリーヴ畑の間にロンダの一番有名な石橋が見えて来た。この写真は当地の絵葉書と変わらないであろう。この辺りから谷間を覗ける崖縁まで歩いて写真をとりまくった。その崖の上10メーターのところに低い石塀が見えるがその上がどうなっているかわからないからまた同じ道をたどって、あのランナーのように息も絶え絶え城門にたどり着いた。
石橋の上から見るこの谷間も素晴らしい。このニューブリッジは18世紀に造られた。写真を撮りながら観光案内所まで行くも亭主の姿が見えず、近くの見晴台へ行った。
ここで素晴らしいカップルがハープとギターで演奏、女性が歌っていた。彼女の澄んできれいな歌声に魅了されとうとうCDを一枚買ってしまった。そのCDには良く知っている曲がたくさん入っていて、中のアニーズ・ソングをリクエストしたら彼女の歌声に合わせ、彼のほうはパン・パイプで伴奏やっぱり知っている曲はなじみがいい。二組の男女が寄ってきて一緒に聞いて皆で盛大な拍手をした。
ここロンダは有名な観光地であり日本人団体客も多い。皆ぞろぞろ列を作ってゆくが、この素晴らしい演奏にカメラを向けても立ち止まって歌を聴こうとする人など一人もいない。
観光案内所の近くにハルタ・ミキさんという日本人画家の記念碑が立っていた。
このハルタさんは1925年から1995年の人でよほどこの地に縁があったか、この地で亡くなったか、でもこの観光一等地に記念碑があるということはきっと有名な人に違いない。
さて亭主と出会って旧ブリッジへ行こうと通りを行くとここも急坂、そこで太鼓や笛の鼓笛隊と幼稚園児が仮装した一団に出くわした。皆キリストを慕う牧夫や尼の姿で、子供たちがかわいい。
急坂で数珠つながりの自家用車が立ち往生をしていて、事故が起きなければ良いがと心配した。
旧ブリッジは11世紀に建設されアラブ・ブリッジと呼ばれる。この橋の近くにアラブの風呂跡があり外から写真を写してゆっくりキャンプサイトへ帰ってきた。
サイトの玄関の石の絵が面白いからストーリーがあるのかを聞いたら、この地域には昔ロビンフッドのような義賊が多くていろいろなストーリーがあるという。それで自分の父母と祖母をモデルにして絵にしてもらったとサイトのオーナーが話してくれた。
山頂で迎えた朝はまたとない晴天、オルヴェラの町に朝日がさして来る。一日中撮ってもあの町は違った顔を見せてくれる。
キャンプサイトで聞いた道を間違って町の西側道路から入ってすぐ、この町の全景を真正面から見ることが出来た。とおりは静かで駐車もしやすく、亭主は近くの自動車修理工場へ用事に行くからと町の麓で別れた。
一人通りを教会、城砦へ向かってゆく。通りは急坂で年寄りにはつらい道だろう。メインショッピングの通りを外れて坂道を登っていたら、観光案内の看板が立っていた。
英語でもしっかり書かれていたからやっとこの町の歴史がわかった。というのはこのような小さな町や村がこのアンダルシア地方の山中にはゴマンとあり、この町はロンリープラネットにも載っていない。
オルヴェラはカディス山脈の北東に位置し、ヨーロッパでも一を誇るグリフィン禿げ鷹の生息地だという。グリフィン禿げ鷹がアフリカの禿げ鷹とどう違うかわ判らないけれど、ヨーロッパに禿げ鷹が居るというだけでも驚き。今年3月ポルトガルからスペインを通って英国への帰国途中に、パンプローナの北の山中で禿げ鷹の群れを見かけた。我が目が信じられなかったけれどこうして書かれてあると納得がいく。
オルヴェラ(Olvera)はアラブ人がこの地に城砦を築いた12世紀、オリーヴ(Olive)の木にちなんでオリヴェラ(Olivera)と呼ばれていたのが自然に i が落ちてオルヴェラと呼ばれるようになった。
山頂に立つパリシュ教会は2ユーロを払って入ってみたけれど、スペインのどこの教会とも変わることなく、ステインドグラスもささやかなものだった。
城砦は12世紀末アラブ人によって建設された。ここはグラナダ王国の城砦として建設されたもので、併設された博物館にはこのような城砦がこの地域に5箇所あるとの地図が展示されていた。城砦の内部には家具は一切なく上下2室の石のだだっ広い部屋とグラウンドに作られた貯水池くらいだがこの城砦から見られる周囲の景色が素晴らしい。4方の山々の麓を走る自動車道からきれいに耕され規則正しく植えられたオリーヴの林、白壁にテラコッタの色の屋根を持つ町の通りなど見下ろして飽くことをしらない。
小さな博物館を出てみると、教会広場で亭主が待っていた。急坂に息も絶え絶えだったという。下り坂も狭い石畳の道を通る車をよけながら降りてくると大きな団体客ではここには来られないだろうと思った。
中腹にそそり立つ岩の上にキリスト像が立っていた。
マリア山中からグラナダの西、アンテクエラの北部まで300kmをゆく。
この日は大西洋の低気圧が激しい嵐となって、今冬私たちが滞在予定のアルガーヴに洪水を起こし大変な被害をもたらした。
低気圧は衰えることなくスペインを襲い、激しい雨を降らせている。
この朝、昨日と一変して、雨雲が低く山中では霧が発生して、道路わきがぼんやり見えるくらいだった。霧の中から山道の脇に変わったオブジェが現れる。なんとなく不気味な小悪魔の感じだった。
マリア山中から150kmほどは道路わきにアーモンド畑が連なり、春のピンクの花の咲くころにはもう一度通ってみたいところだった。途中からオリーヴ畑に替わり銀色のオリーヴの葉が雨風に激しく揺れている。
最後の50km地点で雨雲から開放された。やっぱり青空はいい。行くところあちこちの畑地が大きな水溜りや湖のようになり、かもめが畑地の水溜りに浮いていた。この辺り海からは60-70km内陸の盆地なのにかもめはどこにでも繁殖できるらしい。
2年前に出来たばかりのキャンプ場はモダンできれいなサイトだけれど、やっぱり雨が激しかったから水はけが悪い。通路にキャンパーを停めた。
嵐が去った翌日から天気が回復し、洗濯物を干して周辺を散歩する。道端にへちまが下がっていて、へちまなど見るのは一体何十年ぶりだろうかとふと考えてしまった。
歩道にひょろひょろ伸びているのはオレンジの木でまだ青い実がなっている。飾りのオレンジは実が実っても甘くないのはもう何回も経験済みだ。
アンテクエラはロンリープラネットに拠れば、知られていない掘り出し物の観光地とのことだった。キャンプ場からはバスが出ていないからキャンパーで行くしかない。
カーナビをつけていったところが旧市街の狭い一方通行の道ばかり、大きなキャンパーを停めることが出来ない。結局駐車場探しで町の中をぐるぐる回って、ストレスが溜まるばかり。諦めて次のキャンプ場オルヴィラへ行くことにした。
スペインの道路はどんな田舎道でも素晴らしく良い。たぶんスペインがEUに加入した際もともと貧しい国だったのに潤沢な借入金を道路や住宅,それに風力発電、太陽熱発電など設備投資に使ったものと思われる。それの元の取れぬまに、今その付けが回ってこの国は経済不振と不況にあえいでいる。
オルヴィラはアンテクイラから山道を上がったり下がったりした挙句着いた盆地で真ん中に高く突き出た岩山全体が町と教会と城砦のこれぞ隠れた観光地だった。おまけにキャンプサイトが町から離れた小山のてっぺんを全部占めており、見晴らしの良いことはいうまでも無い。見渡す限りオリーヴの木が規則正しく並んで植えられ、あちこちに散らばる白壁の家々はとってもかわいい。
キャンプサイトのシャワートイレ、キッチンなどは新しく清潔で、こんな環境のサイトはあまり経験していない。トイレの男女のマークがさすがスペインを思わせる。
夕日が山の向こうに沈む頃は幾重もの山並みが色とりどりに変わり只ボーゼンと岡に立ちつくし神秘的な世界を眺めていた。
夕焼けの最後が燃え尽きる頃でも、わがキャンパーが天空にうかんでいる。
カータヘーナから今度は北上してグラナダへの直線コース国道A91へ向かう。
海岸線のラウンドアバウトでは飾りも海にちなんで面白いメタルの船のオブジェだった。
ロルカ(Lorca)までの周囲は平地でアーテチョークの栽培が盛ん。たぶん来春果実を出荷するのだろう。国道A91から北へはほとんど岩山と思えるほどの荒々しい土地で2000メータ級の山並みが続く。
キャンパーはローギアでずんずん山道を登って行き、雲が低いから眼下の町はうす雲に溶けてゆく。
この山全体がアーモンド林で3月にここを訪れたらどんなに素晴らしいだろうか。まるで今年1-2月のモロッコや、ポルトガルの春みたいだろう。
国道から20Km北上した標高1000メーター以上のキャンプサイトは気温が低く、キャンパーを降りると空気が冷っとする。大きなキャンプ場なのに今夜の飛び込み客は私たちだけ。
今日は天気予報に反して午後から晴れ渡り、夜は星が降るほど天空を埋めている。
国道へ入る道が通行止めで、走り回った挙句にたどり着いた道路わきのホテル。まるでレゴを積み重ねたみたいだ。
子供の頃奥能登で食べたしいの実に似ているから採って食べてみたら、ちょっと渋いけどコルク樫のどんぐりだった。このどんぐりはポルトガルのマーケットで売っていて、一山買って食べたが大して美味しいものでもなく、今年4月に鉢植えにしたらうまく芽が出てきた。一鉢に5本ほどがもやしのごとくよろよろ生えている。大きくしたら大変だから、盆栽コルク樫なんてできないかなー。
海岸を南へ行く道は8年前に通ったところで、今回は少しでも行ったことのないところをとロンリープラネットを調べたところ、真っ直ぐ南の海岸にカーターヘーナを見つけた。
カーターヘーナは紀元前223年北アフリカのカルタゴ軍が占領し,新カルタゴと命名した。その後ローマ軍の侵攻、アラブ人の侵略繁栄と歴史の変遷が見られる。アラブはこの地に農業を起こし、イスラムがキリスト教徒に滅ぼされた13世紀まで栄えた。
年間3000時間の太陽照射に恵まれ、現在では温室での野菜の促成栽培が盛んで、畑地では多くの農業労働者が見られる。
彼らは北アフリカからの季節労働者が多く、警察のパトロールカーがヴィザなしの不法労働者の取締りを強化していた。
キャンプサイトはカーテーヘーナより西海岸にあり、細い田舎道から一山越えた見晴台の景色が素晴らしい。一面に広がるビニールハウスの向こうに山の斜面を利用して段段畑のように整地された広大なキャンプ場が見える。
ここはスペインの平均温度より5度は高いとのことで、キャンプ場は多色のブーゲンビリアや、ハイビスカス、他いろいろな花で彩られている。
キャンパー、キャラバンの駐車場が330以上も有って、北ヨーロッパの元気な老人たちが人生を謳歌している。サイトの一番上手には鉄のボールに当てるゲームが盛んで、下手の大きなプールでは男女が水しぶきを上げている。
オランダ人のキャンパーが多く、小国の人達は自国でひしめき合って暮らしているから社交上手。朝から晩まで隣近所とおしゃべりを楽しんでいる。何処で会っても必ず英語で挨拶してくるのがオランダ人だ。
ドイツ人夫婦のキャンパーの周りに飾られている風車はペットボトルで作られていて、なるほどと感激した。あれなら私も作れそう。
明日はポルトガルからスペイン西を覆う低気圧が張り出しているとの天気予報。一日中うす曇りだけれど、暖かくてティーシャツ一枚で十分。夏はたぶん40度以上になるのだろう。
ヴァレンシアの悪天候は翌日も居座って、朝から雨。雨雲が低く道路を覆っているから暗くて陰気、キャンプサイトの周囲で見られた水田は高速道路まで行くと見られなくなり替わりに目に付くのが、背は低いけれど巨大な実をたわわにつけた柿畑だった。
初めはオレンジの畑だと思っていたがオレンジはまだほとんどがグリーンで葉陰で見えない。葉の色もオレンジの濃い緑とは異なる。これほど柿が実っていてもスーパーマーケットで買っても大して安いと思えない。この大きな柿が3個で1ポンドくらい、イギリスのスパーで買うのよりは安いがストリート・マーケットで買うと安いから現地スペイン産も結構高い。
今年は6月頃からロンドンのマーケットに柿がたくさんで回った。一箱20個も入っていて2ポンドくらい。これは南アフリカからの輸入物だったがこんなに安くて生産者はやってゆけるのだろうかと心配になったくらいだった。
200kmほど南下し午後早めにフォーチュナーのキャンプサイトに着いた。近くに温泉があるのをキャンパー内から見つけ、是非行きたいと思った。
キャンプサイトの受付の人はイギリス人で、温泉は今日は天気が悪いからもっといい日にしたらと言う。ちょうど雨も小止みになり空には青空が見られるようになった。
夜は満天の星で明日はどんなに良い天気になるだろうと期待していた・・・・が朝から暴風雨。夕べの星空は嵐の目だったに違いない。
折角見つけた温泉は何としてでも入ってみたいと、キャンプサイトで20パーセントの割引券を買って入る。ヨーロッパの温泉は水着を着なければ入れない。いつもは持ってきているはずが見つからなくて下着とショートパンツの組み合わせで入ってみた。髪の毛が落ちないよう水泳帽着用が義務付けられている。
大きくてきれいな温泉プールは一箇所だけが室内でほとんどが屋外プール。
外は風が荒れ狂い、時折激しいにわか雨、これでサイトのイギリス人が言った良い天気に・・・の意味が判った。
水温は38-39度くらいで日本の熱い温泉を熱望している身にはぬるすぎる。しかしどれだけ入っていても決して湯のぼせするような温度で無いからじっくり1時間15分も浸り続けた。
この温泉はローマ人によって開発されたそうで、塩辛いお湯にはあらゆるミネラルが含まれリューマチに良いとのこと。このぬるさはアイスランドのブルーラグーンとほとんど同じくらいで、暖かいお湯が出てくるプールの出湯口から離れられなかった。ブルーラグーンでも真ん中の湯が出てくる岩の周りから離れると寒くて居れなかったが。
温泉を出てシャワーに入ろうと思ったがこれが水だったから急いでキャンプサイトへ駆けつけサイトの熱い湯で洗い流す。
それ以降は何と体がホカホカして寝るまで気分良く過ごせたから、リューマチの人には薬効ありと確信した。一回が8ユーロだからもっと安ければ、毎日入りに行けるのに残念だった。
キャンプサイトを出た月曜日の朝、温泉の前に小さな市が立ち水着のオンパレード、小さな町にはやはり小さな教会があった。
朝から曇っていたが、まさか雨が降るとは思っても見なかった。昨日まで良い天気だったし何しろ暑かった。昨年今頃この町へやってきて只1日だけ観光に来て大雨に降られ、ひどい目に会った。そしてまた今年も同じケース、バスで町の中心に当たる駅近くへ着き、闘牛場の前からかって歩いた町の散策に出かけたところ”あーまた雨”小雨の間に昨年感激した陶器博物館の前で素晴らしい外観を写真に撮る。
ここは昔アグアス伯爵宮殿を改造して博物館にしてあるもので中も素晴らしいけれど,二回見て歩くほど時間が無い。
雨はだんだん激しくなり建物の軒先をたどりながら、昨年見逃したロンハ(Lonja)へ逃げ込んだ。
ロンハは中央市場の向かいの15世紀の巨大なホールで、当時のストック・イクスチェンジにあたる。現在では世界遺産に指定されている。この日が日曜日だったことを忘れ、中央市場やスーパーマーケット、ほとんどの店は閉まっていたが、ロンハは週末は入場只だと言う。雨宿りも兼ね、たくさんの観光客があちこち写真を撮っていた。
やっと小止みの間に近くに開いているストリートマーケットで一番安い折りたたみの傘2本を買って(キャンパーの中には4本も傘が納まっている。)、地図を頼りに博物館へ。
まず入ったところが、考古学博物館で本当はトイレを借りたかっただけ。
受付の女性がにこやかで、親切だったから断れなくて全館見て廻ることになった。石器時代から青銅器、ローマ時代などの遺物が奥行き200メータくらいの2階に渡って展示され、途中で親切な案内の女性から英語の案内書など貰い、ゆっくり時間をかけることになってしまった。
なかなかきれいな博物館で、考古学も良いがその反対側のヴァレンシア・カルチャー博物館がとても良かった。展示に趣向を凝らし、床から壁がヴァレンシアの地図の映像だったり、過去からの男女の衣服など興味深い。この博物館の中庭に巨大なゴムの木は2本生えていてすごーい迫力。この博物館は入って良かった所だった。
この博物館の裏側のIVAM(Institute Valencia of Art Modern)が目的地だったがほんとにモダーンアートというのは判らない。
建物の地図を下さいと言ったらくれたのが各部屋に展示されている画家のブローシャーで5枚もくれた。
フリオ・ゴンザレスの作品はオブジェなのだけれどそれぞれタイトルがついている。この作品は判らないながらも面白く、ハーレクィン(ピエロ)だと書いてある。なんとなくそんな気もするが・・・・
一部屋が中国人リャン・ビンビンの作品で巨大な塔や長骨などが張子のようになっていて中から明かりが灯っている。亭主は何だコリャ。と言っていたけれどたいしたものだと私の感想。
バルセローナのキャンプサイトには4泊して晴天には一日洗濯物を干し、マタロの町へショッピングに行ったりとのんびりした。
さてバルセローナのキャンプサイトは11月7日で閉まる予定だったが11日まで延ばしてくれたからのんびり出来たものの、また南へ行かねばならぬ。(これぞまさしく南へ向かう渡り鳥と同じ。)
バルセローナのサイトの受付の若い女性二人は、英語、フランス語、ドイツ語も達者で、英語などよどみが無い。スペインは4つの言語からなる多民族国家で、このカタロニア地方はカタロニア語、スペイン語はマドリッドが中心、他に2ヶ国語がある。1977年のフランコ将軍の独裁政治が終わるまで、スペインではスペイン語以外の使用を禁じられた。
最近ではバスク地方(北東地方)がスペインからの独立を求めて戦っている。
このバルセローナからヴァレンシアへの通りの表示がスペイン語とカタロニア語で書かれている。テレビでも地方の放送局はカタロニア語のニュースを流し、すこしスペイン語の判る亭主が全然わからないとこぼしていた。
途中の海岸線で一泊したけれど、町から遠く散歩にしてもオリーヴ畑と崖のもろい海岸線で行くところが無くて翌日ヴァレンシアの南5kmのキャンプサイトへ落ち着いた。
ヴァレンシアは昨年、このモダーンな建築群の一角の水族館を訪れたが、キャンプサイトはこの前の道路を通って車で15分の田舎にあり、何とこの周囲が水田になっていた。
昨年イギリス人からこの地域で稲の栽培をしていると聞いていたが、彼もそれが水稲なのか陸稲なのかは知らなかった。
スペインのパエリヤに使う米は丸くて大きく、やや日本米に似ている。従って水田なのが実際に見てわかった。
この広大な美術館は1920年代エキスポの為に建設された。建物内部を見るのなら入場料はいらないと言われて入った。期待しないで入ってみたが、玄関の広い空間にはとっても気持ちの良い黒皮のソファーがあちこち置かれ、疲れた足を休めるには最適。
最奥には大聖堂の様にきれいな天井と大きなパイプオルガンが設置されている。大きな天井を支える太い柱はすべて彫刻が施されて過去の栄華を思い起こさせる。
2階のドームの天井は最近の絵らしく今までいろいろな教会や大聖堂で見かけたドームの絵よりモダーンだった。
最近の公共建築物はほとんどが有料だが、ここスペインの美術館はは65歳以上は入場無料とのことで、大喜びで入った。
初めに入った部屋が近代、モダーン・アートだった。多くの絵や彫刻のほとんどがスペイン人、特にバルセロナ出身の画家や芸術家の作品で19世紀半ばから20世紀半ばの作品が多い。
過去8年間、機会あるごとにヨーロッパの各国美術館を巡り歩いて感じたことは、どこでも1850年から1940年位までに描かれた作品が一番心に残っているし、受け入れやすく自然な絵が多い。中世までは宗教画のみだったし、ルネッサンスと言われる16から18世紀ごろまでもバイブルをベースにした想像画が圧倒的に多い。
19世紀半ばから宗教を離れた自然の風景や、人物像などが描かれそれも爆発的にヨーロッパ中の地方の画家によって描かれた結果かと思われる。それと当時の芸術の中心であったパリでは印象派が大活躍していたためだろう。
この2枚のパネルはガスパー・ホマーと言う人の1909年の作品で多種類の木をモザイクにして絵にしたもの。この時代はアート・ヌボーの盛んな頃、典型的な絵。
2枚目の絵はラモン・カサス(バルセローナ出身、1866年ー1932年)の題名”タンダムに乗っているラモンとペレ・ロメウ”1897年の作品で私が一番気に入った絵、まるで漫画のようでユーモアがある。当時では革新的な絵だっただろう。
3枚目の作品は特に好きなわけでは無いが、どうやって毛皮の毛の感じが油絵で出せるのだろうか?と接写してみたが判らない。バルセローナ出身のフランシス・マスリエラ(1842年ー1902年)の1882年の作品。
このぼろをまとった男の子が泣いている彫刻は哀れを誘うのになぜか微笑みたくなる作品で、バルセローナ出身で後にブエノスアイレスに移住したトルクアット・タソー(1852年ー1935年)のブロンズ像。泣いている表情がとてもうまい。
このテラコッタの女人像は高さ30cmくらい、衣類の細かなレースの浮き彫りにあっけに取られた。どうやってこのような作品が生み出されるのだろう。この像もバルセローナ出身のロッセンド・ノバス(1841年ー1891年)の作品。
この天使の絵はロンドンのテート・ブリテンの美術館にとっても似通った絵がある。
画家はArcadi Mas I Fondevila(1852年-1934年)でバルセロナー出身。 来年帰国したらテートへ行って是非確かめてみたい作品。 どなたか興味のある方は行って見て下さいませんか。
この絵は一目見てアルフレッド・シスリー(1839年ー1899年)の絵と判る。彼はパリ出身の画家で印象派の一人、セーヌ川ぶちやイギリスの通りなど静かな絵を描いた。私の好きな画家の一人。
このイスはアントニ・ガウディ(1852年ー1926年)のデザインによるもので、この天才設計士、家具デザイナー、芸術家だった彼は、あらゆる家具調度品のデザインを試みた。
それがまた素晴らしいデザインばかりで、このような天才の頭の中はどうなっているのだろうと思ってしまう。
今では誰でも一目でわかるピカソの作品が一枚だけこの美術館にあった。マラガ生まれのパブロ・ピカソ(1881年-1973年)は生きている間に有名・財を成したまれな画家で子供時代から絵の天分あり、このようにグラフィックされた絵を描くようになったのは後年になってからだ。若い頃の絵はまともだけれど真似が出来ないほどうまい。
このキリストの彫刻は1500年代に無名の彫刻家によってアレマニアで作られた。いかにもスペイン人によると思われる作品。
こうしてみると好みの作品がやっぱり19世紀から20世紀にかたまってしまう。しかしこの美術館にはにはロマネスク(11-13世紀)、ゴシック(13-15世紀)ルネッサンス・バロック(17-18世紀)の絵画、彫刻が数知れず展示されている。
2日目も10時にカタルニア広場に着いた。すぐ地下鉄の駅に行く。この地下道が長くて一体本当の駅はどこにあるのだろうと思った。雨降りの日には地下道を歩くのはいいかもしれないが、秋晴れのこの日、地下鉄で移動するのは早いけど、外が見えないのはつまらない。
地下鉄で4つ目の駅でおりた。ここからエスカレーターが山に向かっていると言うから歩けども歩けどもなかなか行き着かない。急な坂道を行くと最初のエスカレーターは壊れていたらしい。前を行くおじいさんは足が悪くびっこを引きながら息を切らして急坂を登っていった。
途中からエスカレーター3回に乗り継ぎ頂上に着いたのはグエルーパーク。ガウディが設計し世界で只一つの変わった憩いの場だ。ここも8年前に来たことがあるが公園の頂上まで登ったのは初めて。バルセローナが一望に見渡せる。若い日本人の男の子が堂々漫画を読んでいて、我が亭主はこんなところまで来て如何して?と不思議がっていた。
色とりどりのタイルを細かく砕いてモザイク状に張り合わせた公園のベンチはアイデアが素晴らしい。雨が降ると水はベンチの外の溝から小さなガーゴイルに流れ落ちるように設計されている。
今日もたくさんの観光客がこの公園で憩い、アフリカ系の物売りが警察の目を盗んでお土産、小間物売りにいそしんでいる。
黄緑色にブルーの羽を持つコクツー(オウムの小さいもの)は今ではヨーロッパのほとんどの国で見られるが、ここでは椰子の木に巣を作ってその姦しい事。この鳥オリジナルはオーストラリアだと思うが、ヨーロッパの気候にうまく順応して増えに増え、南国スペインからドイツまでどこでも見られる。
この公園の一角にガウディが住んでいた家があり今では博物館になっている。今回はゆっくり探して見ることが出来た。スペイン1の設計士、芸術家であったガウディにしてはつつましいくシンプルな家で、この机でサグラダ・ファミリアの設計もしたのかと感に打たれた。
午後早くカタルニア広場へ戻り、スーパーで昼食用のパンやハム、サラダなど買い、観光案内所でオリンピックスタジアムへ行く地下鉄駅を聞いたところ、地下鉄2日券はバスも乗り放題。バス55番がそこまで行くと言う。
明るい日差しの中、スペインの町並みや広場をバスの窓から見ながら、バルセローナ南西の岡へ登っていった。終点がオリンピックスタジアムで、すぐに中を見渡すことが出来た。ロンドンのオリンピックスタジアムを知らないから見比べることが出来ない。なんとなくなーんだ、このサイズか。と思ったのは不遜か。それにしては警備の人も居ず、誰でも通りすがりに見ることが出来るスタジアムはいいのだけれど、いつも使われていないのは無駄ではないか?スタジアムの近くのテレコムタワーはデザインが素晴らしい。さすがスペイン。
ここから歩いて数分、素晴らしい建物に行き着いた。初めは教会か大聖堂かと思ったのにこれがカタルニアナショナル美術館と知って大喜び。いいところへたどり着いたものだ。
美術館内部の写真は次回に譲って、夕方5時過ぎ美術館を出るとゆっくり下界へ降りていった。本当に美術館内で世間を忘れて素晴らしい絵を見ている時は、天国にいるみたい。
美術館から町へ降りてゆく途中にはマジック噴水なるものがありこれは時間が限られている。これは1929年のエキスポに作られたもので、噴水と同時に音楽もなるらしい。冬は金、土曜日の7時から9時まで4回と書いてあるから相当なショウのようだ。
これはカタロニア広場の噴水