Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法Ⅰ(01・02のQ&A)

2020-05-19 | 日記
 因果関係と不作為犯に関する質問
 第1質問
Q 作為義務が認められる根拠として法令、契約、先行行為という3つの根拠があります。単純なひき逃げも、先行行為にあたり、法律上の救助義務などが発生するので、ひき逃げから負傷者が死亡した場合には、不作為による殺人罪が認められると思っていました。しかし、このような場合、不作為による殺人罪の成立は認められないとテキストで読みました。なぜなのでしょうか。ひき逃げ犯には、救助の作為義務が課されるはずです。その義務に故意に違反して、負傷者が死亡したのであれば、不作為による殺人罪が成立するのではないですか。

A 刑法では、作為犯と不作為犯が規定されています。作為には作為犯の規定が、不作為には不作為犯の規定が適用されます。例えば、住居への無断の立ち入り(作為)には、作為犯としての住居侵入罪(刑130前段)が適用され、退去要求に反して住居から退去しない態度(不作為)には、不作為犯としての不退去罪(刑130後段)が適用されます。

 このように作為形式の犯罪と不作為形式の犯罪が刑法では区別して定められています。多くの犯罪は作為犯の形式で定められています。その犯罪規定は作為に適用されるだけで、不作為には適用できません。例えば、殺人罪は「人を殺す」という作為に適用されますが、「瀕死の人を救命しない」という不作為には適用されません。しかし、瀕死の人がいて、その場に自分しかいない場合、その救命義務を負っているのは自分だけでしょう。その人を助けることが可能で、かつ容易であったのであれば、救命のための作為義務が課されます。それにもかかわらず、助けず、死亡させた場合、その不作為に作為犯としての殺人罪を適用することができます。これが「不真正不作為犯」の問題です。

 ただし、この場合に殺人罪が適用されるのは、「救命しない不作為」ではなく、「救命義務に違反した不作為」です。救命義務を負う人が存在し(保障者)、救命義務が可能で、かつ容易であった場合には、その人に救命義務が課されます。そして、救命義務を履行していたならば、死の結果は十中八九、回避することができたと言える場合には、その不作為と結果の因果関係を認めることができます。

 この不真正不作為犯の成立を認めるためには、誰に作為義務があるのを明らかにしなければなりません。例えば、Xが自動車の誤った運転をして、歩行者Aをはねて、重傷を負わせたとします(この時点で過失運転致傷罪が成立します)。その後、Xが警察に事故報告をしなかった場合、道交法の「報告義務違反」の罪が成立し、そのまま走り去って、ひき逃げした場合、道交法上の「救護義務違反」が成立します。XはAに怪我を負わせたので、道交法上の救護義務がある。ということは、刑法上の保護義務(刑法218条の保護責任)もある。従って、「ひき逃げ」は、救護義務違反と同時に、保護責任者遺棄にもあたる。このように主張する人もいます。

 しかし、判例では、交通事故のケースで運転者に対して負傷者の保護責任を認めることができるのは、運転者が負傷者を自動車に運び入れるなどして、その負傷者を排他的・独占的な支配領域に入れ、その保護の責任を自ら負った場合だけであり、たんなるひき逃げのケースの場合には、保護責任は認められていません。したがって、「法令」(道交法)による救護義務があることだけを理由に、刑法上の作為義務を認めることはできません。

 それはなぜかというと、道交法の義務は、あくまでも道交法の法的目的を達成するために、交通関与者に課された義務であって、その違反には道交法上の制裁を課すことを予定したものです。保護義務にような刑法上の義務は、その違反に刑罰が家されるので、おのずと2つの義務には格差があると考えられます。従って、自動車で人を引いた場合に課される道交法の救護義務は、それだけで刑法上の保護義務にはなりません。保護義務のレベルになるためには、負傷者を自車に運び入れるなどして、その身体の安全・生命の維持を独占的に支配しうる状況が必要なのです。そのような義務を負った人が誰なのか。それが不真正不作為犯論の重要な課題です。事案の具体的な状況を踏まえて、この人にはどのような義務が課されるのか、それは道交法の義務にとどまるのか、それとも刑法上の作為義務が課されるのかを明らかにすることが必要です。


 第2質問
Q 今日の講義で、不真性不作為犯の処罰根拠については、おおまかには理解できました。そのうえで、質問があります。作為犯の処罰において、因果関係の有無については、相当因果関係説や客観的帰属論を用いることを前回の講義で学びました。そこで、今回の不真性不作為犯の因果関係について考察する際には、結果回避可能性と仮定的因果関係を用いれば良いのでしょうか。それとも作為犯の客観的帰属論を準用することも可能なのでしょうか。よろしくお願い致します。

A 不作為と結果の因果関係の認定について、作為犯の客観的帰属論を準用すると、どのような説明になるとお考えですか。それを示してください。そのうえでお答えします。

Q 不作為犯に客観的帰属論を適用する上で、まず不作為の内容が保障者説の観点から、作為義務(作為可能性・容易性を含む)に違反していることが前提だと思います。そして、作為義務とは、端的にいえば、「構成要件に該当する結果が起きないよう行動する義務」だと考えています。この作為義務に違反するものとして、講義の中では、保護責任者の地位にある人が、適切な処置をしなかった不作為が説明されていたと思いますが、これに客観的帰属論を用いることができると思いました。例えば、上記の保護責任者の行為も、その行為の危険が現実に起きていると捉えられるからです。ただどんな例でも基本的に適用できるのかは分かりません。
 大体こんな感じで考えています。改めてよろしくお願い致します。

A 「上記の保護責任者の行為も、その行為の危険が現実に起きていると捉えられるからです」と書かれていますが、保護責任者の行為は不作為です。不作為からは物理的な危険は生じません。それは、何かの原因から生じている危険を除去しないだけです。
 したがって、「行為の危険」の現実化説のような判断基準を直接的に当てはめることは難しいように思います。むしろ、作為義務の履行をしたと仮定した場合に、危険を除去し、結果の回避が可能であったか否か(十中八九の回避可能性)を判断する方が説明しやすいのではないでしょうか。

Q 確かに、教授が説明された方法のほうがより判断しやすいことは理解できました。しかし、例えば判例006の殺人事件において、被害者Aに適切な処置を施さずに放置した点について、作為義務違反が認められ、救命義務は可能かつ容易だったことを踏まえて、因果関係も認められています。
 ところがその前の行為、すなわち被告人がAを病院から連れ出した行為は作為であり、その行為がなければ物理的な危険が発生することはなかったとして、その作為の危険が現実化したとはいえないのでしょうか。それとも、そうではなく、その行為もまた一種の作為義務違反と捉えるのが通説なのでしょうか?
 客観的帰属論を意地でも適用したいわけではないのですが、気になってしまったので、再度質問させて頂きます。よろしくお願い致します。

A 006の「不作為の殺人」については、作為と結果の条件関係という点についていえば、被告人が被害者を病院から連れ出さなかったならば、被害者が死ぬことはなかったであろうと言えます。連れ出した「作為」と死亡結果の条件関係を認めることができます。この条件関係をもとに、「作為の危険性」の現実化説から、因果関係を認めるためには、被害者を連れ出した「作為」に被害者を死亡させる危険性があったこと、被害者が死亡したのは、その危険性が現実化したこと、このことを鑑定によって証明することが必要です。それができれば、被害者を連れ出した作為の危険性が死亡結果へと現実化したことを証明できます。ただし、被告人がその「作為」を行う時点において、殺意があったことも証明できなければ、殺人罪の故意の論証はできません。連れ出した時点において殺意がなかったのであれば、せいぜい過失でしょう。致命的な危険な行為を過失によって行い、それが結果において現実化した過失致死罪です。このように考えると、過失によって作り出した作為の危険性が死亡結果へと現実化するまでに、未必の殺意による放置=不作為が介在した事案ともいえます。もちろん、その不作為に危険性がありますが、それは死亡結果へと現実化していたとはいえません。
 この論証は、弁護人の主張としては、十分にありえます。ただし、被害者を連れ出した作為の危険性が死亡結果へと現実化したことにについて、医学鑑定で裏付ける必要があります。その作為の時点において殺意があったかどうかも、弁護人としては争点にすることになるでしょう。いかがでしょうか。
 被告人が被害者を放置した不作為それ自体には、死の結果を発生させる危険性があったとはいえません。むしろ問題になっているのは、被告人の不作為は、死に瀕する被害者を救命する義務に違反したことです。刑法総論のテキストには、「義務犯」という言葉を説明したものがあります。それを調べてみてはいかがでしょうか。その義務犯について、客観的帰属論や危険の現実化説から十分な説明があれば、天野君の疑問は解消するのではないでしょうか。

Q 判例006に客観的帰属論を用いると、作為と結果の因果関係を証明するためのハードルが高くなることが理解できました。義務犯についても調べてみようと思います。