Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

LS刑法Ⅰ(第05回 2015年10月24日)

2015-10-15 | 日記
 第05回 共同正犯と違法性阻却事由
(1)共同正犯の基本的性格
1共同正犯の成立要件
犯罪の共同実行の事実→2人以上の者が一定の行為を共同して実行し、法益侵害を発生させた事実
 犯罪の共同実行の意思→その認識がある→故意犯の共同正犯
            その認識がないが、認識・予見可能性がある→過失犯の共同正犯

2共同正犯は「何」の共同正犯か?
 刑法60条は、「2人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする」と規定している。この正犯を「共同正犯」と呼んでいる。この条文にいう「犯罪」とは、構成要件に該当する違法で有責な行為である。それを「共同して実行する」とは、どのような意味か。

2共同正犯をめぐる学説の対立
・犯罪共同説
 「犯罪を共同して実行する」とは、「故意に犯罪を共同して実行する」ことである。このように主張するのが、犯罪共同説である。「共同」とは、日本語としては、2人以上の者が相手方との相互の協力と協同に基づいて、共通する目的を実現することを意味する。刑法においては、これは、共同して特定の法益侵害を惹起すること、しかも相互に協力・協同して、故意に特定の犯罪を実行することである。従って、共同正犯とは、故意犯の共同正犯を意味し、過失犯の共同正犯や片面的共同正犯などはありえないことになる。
 しかし、この犯罪共同説は、過失犯の共同正犯の成立を認める裁判例の考えに合わないだけでなく、実際上も妥当な結論を導くことができない。例えば、AとBが相互に協力・協同してCに暴行を加え、死亡させたが、Aは暴行の故意で、Bは殺人の故意であった場合、客観的にC殺害の共同実行の事実を認めることはできても、共同実行の意思を認めることはできない。傷害の故意と殺人の故意は、その認識内容が異なるものであるが、異なる内容の事柄を共同して実行する意思というのは、論理的に矛盾している。何故ならば、犯罪共同説における共同実行の意思とは、特定の犯罪の共同実行の意思を意味するからである。AとBが殺人罪(または傷害罪)を共同実行する意思を共有していたならば、殺人罪(または傷害罪)の共同実行の意思を認めることはできるが、それぞれが異なる内容の事柄を実行しようとしていたのであれば、そこに共同実行の意思を認めることはできない。従って、AとBは共同正犯にはなりえない。共同正犯ではないということは、単独の正犯ということになる。ということは、各々が各々の犯罪に責任を負うだけでよい。被害者Cは死亡したが、この死亡がAの暴行に起因するのか、それともBの暴行に起因するのかが明らかにされなければ、A・Bともに死亡に対して責任を負う必要はない。従って、Aには暴行の故意で、少なくともCに傷を負わせた傷害罪が、Bには殺人の故意でCの生命に危険を及ぼした殺人未遂罪が成立するにとどまる。
 この結論に対しては、犯罪共同説の内部においても批判がある。確かに、AとBには特定の犯罪を共同して実行する意思はなく、各々が意図した犯罪を実行しようと考えていただけであるので、共同実行の意思があたっということはできない。しかし、AとBは共同してCに暴行を加え、その際、Aは暴行罪を、Bは殺人罪を行なおうとしており、A・Bの意思には暴行罪の範囲で共通しているので(暴行罪の範囲で犯罪の構成要件に重なり合いがあるので)、その限りにおいて共同実行の意思を認めてもよいように思われる。このような議論が可能であるならば、AとBには暴行罪を共同して実行する意思があり、そこから死亡結果を発生させたのであるから、傷害致死罪の共同正犯の成立を認めることができる。そして、Bは、Cの死亡という「構成要件の重なり合い」の範囲を超過する認識があったので、Aとの傷害致死罪のほかに、殺人罪の単独正犯の成立を認めることができる。このように主張するのが、部分的犯罪共同説であり、共同正犯の成立を一切認めない犯罪共同説を「完全犯罪共同説」と呼んで批判する。なお、部分的犯罪共同説によれば、Bには傷害致死罪(Aとの共同正犯)と殺人罪(単独正犯)が成立するが、この2つの関係は、観念的競合(刑54前段)である。つまり、Bは1個の行為によって、Bと傷害致死罪を共同して実行し、単独で殺人罪を実行したという認定になる。Aの処断刑としては、「重い刑」、すなわち殺人罪の法定刑が適用される。

・行為共同説
 このような犯罪共同説に対して、異なる見解を主張する学説がある。それが行為共同説である。行為共同説によれば、共同正犯とは、2人以上の者が相手方との相互の協力と協同に基づいて、各々の犯罪を実行することを意味する。犯罪共同説は、犯罪の共同実行の客観的な事実と、犯罪の共同実行の主観的な意思の対称的な2つの要件がなければ、共同正犯を認めることはできないと主張しているが、行為共同説は、そうではない。行為共同説は、2人以上の者が、各々の犯罪を行なおうとするのであるが、その際に相手方と協力・共同して実行するというのが共同正犯であると理解する。従って、共同正犯の成立には、2人以上の者の間に、犯罪の共同実行の客観的な事実は必要であるが、共通する特定の犯罪の共同実行の意思までは必要ではない。相手方と「行為」を共同して実行する意思が相互にあれば足りる。それゆえ、共同正犯は、故意犯の共同正犯はもちろん、過失犯の共同正犯もありうることになる。刑法60条の「2人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする」という条文にある「犯罪」は、故意犯だけでなく、過失犯も含まれ、条文解釈の整合性も問題はない。ただし、片面的共同正犯は、行為の共同実行の意思が一方の行為者にしかないので、共同正犯にはならない。この立場からは、AとBが相互に協力・協同してCに暴行を加え、死亡させたが、Aは暴行の故意で、Bは殺人の故意であった場合、Aには傷害致死罪が、Bには殺人罪が成立し、両者は共同正犯である。
 行為共同説からは、結論的には部分的犯罪共同説と同じ結論が導かれる。つまり、部分的犯罪共同説は、Aには傷害致死罪(Bとの共同正犯)が、そしてAには傷害致死罪と殺人罪が成立し、処断刑としては殺人罪の法定刑が適用されるので、結論的には行為共同説と同じになる。従って、は両学説の間には実際上の違いはない。しかし、理論的には看過しえない違いがある。それは、部分的犯罪共同説が、Bに傷害致死罪と殺人罪の観念的競合の成立を認めるところにある。観念的競合とは、1個の行為が2つ以上の刑罰法令に違反し、2個以上の犯罪が成立する場合である。実在的には1個の行為しか行なわれていないが、観念的に2個以上の犯罪が成立しているのである。例えば、信号機にビラを貼ると、軽犯罪法1条33号のはり札の罪に該当し、地域によっては屋外広告物条例違反の行為にも該当する。このように1回のビラ貼り行為が2個の罪にあたる場合を観念的競合というが、注意すべきはこの2つの罪は、いずれも信号機という1個の客体に対して故意に行なわれた犯罪だという点である。つまり、故意による1個の行為を1個の客体に対して行なった結果、その1個の客体に対して2個の故意犯が成立すると認定されているのである。しかし、部分的犯罪共同説によると、BにはCを殺害する意思があったにもかかわらず、傷害致死罪(加重結果について故意のない結果的加重犯)と殺人罪(死亡について故意のある故意犯)の観念的競合の成立が認められている。1個の客体に対して1個の故意の行為を行なった結果、非故意犯と故意犯の2個の犯罪が成立するというのは、どのようにすれば説明可能なのであろうか。しかも、多くの学説のように、傷害致死罪のような結果的加重犯を「故意の基本犯と過失の加重結果」という故意犯と過失犯の2つの部分から成り立つと理解すると、1個の客体に対して1個の故意の行為を行なった結果、「故意犯+過失犯」と「故意犯」の2個の犯罪が成立することになり、致死の部分については一方では過失犯が、他方では故意犯が成立するという矛盾が生じてしまう。これは、以下に説明されるのだろうか。
 このような矛盾が解消されない限り、消極的な選択にはなるが、行為共同説が妥当であると思われる。

(2)共同正犯と違法性阻却事由
 以上のような共同正犯をめぐる犯罪共同説と行為共同説の対立について、もう少し検討していきたい。犯罪体系論において、行為者の認識内容(いわゆる故意・過失)を構成要件該当性の判断対象として位置付けるか、それとも責任の判断対象として位置付けるかをめぐっては、対立が明確である。故意を構成要件要素として位置付ければ、先の例でいえば、Aには暴行または傷害の故意でCを死亡させているので、故意の傷害罪の構成要件該当行為から死亡結果を発生させたと認定され、Bには殺人の故意で行なっているので、故意の殺人罪の構成要件該当行為を行ない死亡結果を発生させたと認定される。これに対して、故意を責任要素として位置付けると、A・Bともに「広い意味」での殺人罪の構成要件該当行為を行ない死亡結果を発生させたが、Aには暴行または傷害の故意しかなかったので、傷害致死罪の成立が認められ、Bには殺人の故意があったので、殺人罪の成立が認められる。
 目的的行為論のように、行為者の認識(故意)や予見可能性(過失)、また行為の目的などは、外部的に行なわれた人間行為の形成する因子であり、結果に発生に向かう因果経過を操縦・制御する客観的な原動力であると考える立場からは、行為者の主観も「客観的要素」として把握される(この「客観性」は「実在性」とは異なる)。しかし、大半の学説は、行為者の認識(故意)や予見可能性(過失)、また行為の目的などは、外部的に行なわれた人間の行為とは異なる次元の問題、すなわち内心や主観の問題として捉える。外部的に生じた事象と内心の事象を客観と主観の問題として二元的に捉えるのである。ただし、外部的に生じた事象が法的にどのような意味を持っているのかは、それだけを眺めていても分からないので、行為者の主観が重要になっている。あとBがCを殴打し、Cが死亡したという外部的な事象は、そのような事実が発生したとして、それ自体として認識できるが、それが持っている法的な意味、つまりどのような犯罪の構成要件に該当するのかは、AやBの認識を度外視して判断するこはできないのである。構成要件的故意を認める論者は、このように考えていると思われる。
 このような理解は、例えば正当防衛が問題になる事案においても問題になる。侵害者の攻撃が「急迫不正の侵害」であったのか、反撃者の行為が「防衛行為」にあたるのか。このような問題を議論するときには、例えば反撃者が攻撃者の侵害を予期していても、それだけで「急迫性」が否定されるわけではないが、その侵害に乗じて積極的に加害する意思があった場合には「急迫性」が否定されるとか、また客観的に反撃行為を行ない、自己の法益を防衛しても、防衛の意思に基づいていなければ、その行為は防衛行為とはいえないと議論される。ここにも、外部的な事象の法的意味を理解するためには、行為者(防衛者)の主観的認識を度外視することはできないのである。少なくとも通説や行為無価値論ないし規範違反説と呼ばれる学説は、そのように主張する。
 以下では、このような議論を念頭に置きながら、共同正犯における違法性阻却の効果について考える。まずは、最高裁の事案を検討する。

1判例の事案(最決平成4・6・5刑集46巻4号245頁)
・事案の内容
 Xは、飲食店に勤務する友人と電話で話をしていたところ、店長Aから長電話はだめだと言われ、一方的に切られたことに立腹し、再度電話したところ、友人への取次を拒否されたことに憤慨し、Yとタクシーに乗って、Yに包丁を持たせて、一緒にAの店に向かった。タクシー内で、Xは、「おれは顔が知られているから、お前が先に行ってくれ。けんかになったらお前をほうってはおかない」と言い、XはAを殺害することもやむを得ないとの意思の下に、「やられたらナイフを使え」とYに指示して、説得した。到着後、XはYを店の出入口付近に行かせは、離れたところで待機していた。Yは、Aとは面識がないから、いきなり暴力を振るわれることもないだろうと考え、Xの指示を待っていたところ、店から出てきたAにXと間違えられ、いきなり首をつかまれ、引きずりまわされたので、殴り返すなどしたが、頼みとするXの加勢も得られないまま、路上に倒されたので、自己の生命身体を防衛する意思で、とっさに包丁を取り出して、Aを殺害することになってもやむを得ないと決意し、Aの左腹部を数回刺し、死亡させた。

 第1審(東京地判平成元・7・13)は、タクシー内でX・Yの間に未必の故意による殺人罪の共謀が成立し、また両者には積極的加害意思をもって現場に臨んでいたと認定して、AによるBへの暴行は急迫不正の侵害ではなく、両名の過剰防衛の成立を否定した。→X・Yは殺人罪の共同正犯
 これに対して、控訴審は次のように判断した。Yの殺意は、Aから暴行を受け、それに反撃することを決意した時点で生じたので、A殺害の共謀もこの時点で成立したものであり、またYには積極的加害意思はなかった。AによるYへの暴行は急迫不正の侵害にあたるが、これに対するYの反撃は防衛の程度を超えている。従って、Yには過剰防衛が成立する。これに対して、XにはAの侵害を予期して積極的に加害する意思があったので、Aによる暴行は急迫不正の侵害にはあたらず、過剰防衛が成立しない。

・裁判所の判断
 共同正犯が成立する場合における過剰防衛の成否は、共同正犯者の各人につきそれぞれその要件を満たすかどうかを検討して決するべきであって、共同正犯者の1人について過剰防衛が成立したとしても、その結果当然に他の共同正犯者についても過剰防衛が成立することになるものではない。
 Xは、Aの攻撃を予期し、その機会を利用してYをして包丁でAに反撃を加えさせようとしていたものであるから、積極的な加害の意思で侵害に臨んだものであるから、AのYに対する暴行は、積極的な加害の意思がなかったYにとって急迫不正の侵害であるとしても、Xにとっては急迫性を欠くものであって、Yについて過剰防衛の成立を認め、Xについてこれを認めなかった原判断は、正当として是認することができる。

・評価
A殺害の共謀の成立時期
 タクシー内で相談した時点か、Aによる暴行を受け反撃を開始した時点か
 Xは殺意を持って、Yに包丁を持たせて、「やられたらナイフを使え」と指示→Aに殺意あり
 Yへの殺害の明示的な指示あり?→殺人の指示なし→殺人の共謀の否定→暴行・脅迫または傷害の指示

Aによる急迫不正の侵害
 Aによる侵害の予期の有無 Xにあり。かつ、殺意あり→Aによる侵害に乗じた積極的加害意思あり
 Aによる侵害は、Xにとって、急迫性が否定される。
 BにはAによる侵害に乗じた積極的加害意思なし→Aによる侵害は、Yにとって急迫な侵害である。

X・Yの共同正犯
 XはA殺害の意思、YはA傷害の意思で、後にA殺害の意思を持ち、共同してAを殺害した
 Yは殺人罪の構成要件該当行為を実行。Xはその共謀に関与。
 X・Yは殺人罪の共同正犯→共同正犯は構成要件該当性のレベルの問題。違法阻却は個別に論証可能。

 YによるA殺害 防衛の程度を超えた過剰な反撃→過剰防衛(刑36② 刑の任意的な減免)
 故意の殺人罪の構成要件に該当する行為の「違法性」と「非難可能性」の減少
 XによるA殺害 積極的加害意思による行為 急迫不正の侵害に対する反撃ではない。過剰防衛不成立。
 共同正犯は「構成要件該当性」のレベルでの共同。違法性は個別的に認定→違法の相対性

2違法の相対性
 判例は、違法阻却の効果とその有無について、行為者の認識に応じて判断している。つまり、行為者の主観的な認識内容との相対的な関係において、違法阻却の有無を判断している。

 まず第1。侵害者による不正の侵害に急迫性があるか否かについて、一般的にはその侵害が予期されていても、それを理由に急迫性を否定することはできないが、反撃者がその侵害に乗じて、侵害者に対して積極的に加害する意思があった場合には、侵害者の不正の侵害の急迫性が否定され、正当防衛の「急迫不性の侵害」の要件が欠如し、もはや正当防衛の問題として議論することができなくなる。反撃者が行なった行為は、純然たる犯罪として処理される。

 第2。そのような積極的加害意思の有無は、共同正犯の事案においては、共同正犯者の全員にではなく、個別の行為者の問題として検討される。Yに積極的加害意思がなければ、Aの不正の侵害はYとの関係においては急迫性が認められるが、Xに積極的加害意思があった以上、Aの不正の侵害はXとの関係においては急迫性は認められない。「AがYに暴行をふるった」という外部的な事象が起こったのか起こらなかったのかという事実の認識は、XやYがどのような認識を持っていたかという問題とは関わりなく認識することができる。しかし、AによるYへの暴行が正当防衛の成立要件である急迫不正の侵害にあたるか否かを認識するためには、XやYがどのような認識を持っていたかという問題を抜きにして判断することはできないのである。

 第3。この問題は、共同正犯と違法阻却に関する議論だけでなく、正犯・共犯における違法阻却への派生する。XがYにAを殺害するよう教唆して、YをAのところに行かせたが、AがYに突然襲い掛かってきたため、Yは自己の身を守るために、やむを得ずAを殺害した場合、Aの侵害はYにとっては急迫であったため、Yには殺人罪の過剰防衛が成立するが、XにはYにAを加害する意思しかなかったので、Aの侵害はXにとっは急迫なものではない。かりにXの意思は「積極的加害意思」でないとしても、防衛の意思でYを教唆したわけではないので、防衛行為の教唆とはいえない。
 正犯Yの行為は、殺人罪にあたるが、過剰防衛の規定が適用され、その刑は任意的に減軽または免除される。殺人罪として違法な行為が行われているが、急迫不正の侵害から自己の権利を防衛したので、その部分の違法性が減少し、殺人罪の違法性は全体として減少する。また、Xによる急迫不正の侵害に対して反撃するという緊急事態であったことから、過剰な行為を行なってことについて非難可能性が減少する。それゆえに、Yの殺人罪の刑は任意的に減軽または免除されるのである。
 Xについては、結果的にはYを教唆して過剰防衛を行なわせたことになるが、通常の殺人罪の教唆が成立するだけである。Yの行為は違法性が減少するが、その効果はXの教唆に影響を及ぼさない。つまり、教唆犯Xの行為は、正犯Yの行為の構成要件該当性に従属するが、その違法性には従属しないのである。違法の相対性を認める立場は、共同正犯者間の違法の相対性だけでなく、正犯・共犯間の違法の相対性を認めることになると思われる。共犯の従属性の議論について、通説・判例と言われている制限従属形式(共犯は正犯の構成要件該当性と違法性に従属する)は、その限りにおいて修正されざるを得ない。