≪ 2014・8・20 掲載 ≫
このルポの、第3回を書き(打ち)、掲載してから、早くも2年弱が過ぎようとしている。
実は、その間も、折りに触れては、原節子こと、會田昌江(あいだ・まさえ)の今の状態について、聞いてきた。
そして、原の状態を確かめに、家を見て来ていた。
聞くのは、母屋の住人。昌江は、少しだけ離れた「離れ」の2階建てに、住んで・・・・・いる・・・・と、言われている。
昌江さんは、今どうしていますか?と聞けば、返ってくる言葉は、いつも絵に描いたように、一緒のお答え。
「元気ですよ」
今年の6月。神奈川新聞の、記者までのレベルに至らないトロッコも、それを信じ込んで書いて、大スクープだと自画自賛して喜んでいる。
しょうがないなあ、取材力の無い、ぼんぼん坊やは。
ため息が、出る。
やはり、キチンと書いておかねば、しめしがつかないな。
そう想った。
半ば、古都観光気分で、その後も鎌倉へ。
駅前のバスターミナルから、慣れたカンジで、原節子宅近くのバス停まで乗る。
いつも、乗客はお年寄りが多い。ココ鎌倉は、高齢者の比率が、神奈川県下というより、全国的に見ても、極めて高い。まさに、古都。
だが、そんな古都も、年ごとに変わりつつある。
前回訪ねた時に見かけた日本家屋が取り壊され、いつの間にか、その敷地に2階建てのアパートが建っていたり、かと思えば、夫婦共に亡くなり、廃屋となってたりしていた。
そのうちに、そこに一戸建ての新築がいくつか、軒を連ねて建っていたり。
なかには、息子夫婦や、娘夫婦が、親の敷地に新築の家を建てて、転居してきた者もいる。
横浜ならともかく、都内へ通勤で通うとなると、まだまだ時間がかかるため、急激に新築は増えてはいない。
また、景観を損ねたり、そぐわないとの、古都ならではの条例の縛りもあり、2階建て以上のマンションや、アパートが建てられないため、人口増加は、そうそう望めない。
しかし、日ごとに確実に、古都・鎌倉の住宅は、ひっそりと、且つ、音も無く、変貌を遂げつつある。
かつて、それなりに結びつきがあった「町内会」も、いまやカタチばかり。何度か通ったものの、原節子の生き死にすら、近所の人ですら、わからなくなってきていた。
集会も、寄合も、町内会の会議も無い。町内会長こそ、持ち回りになっているものの、個人情報保護法が、歪んだカタチで楯になり、各家庭の電話番号すら知らない、教えない、教え合わない。
會田昌江の住んでいるとされる家屋は、そのままだ。
しかし、母屋の作りは変わった。庭のど真ん中に、すっくと立っていた大きな木は、いつの間にか、斬り倒され、縁側もなくなり、当初は、原節子の荷物を仕舞い込んだのか?とさえ思った、プレハブ作りの物置2つが庭の隅に置かれた。
かつては一緒に住んでいた、母屋の家庭の息子はいなくなり、家主は定年退職して、家にいるようになった。
原が、寝起きしている家は、一度たりとも窓が開け放たれたことは、無い。室内空気と、外気の交換も無い。
時には、雨も上がったのに、雨戸を閉めたまま。
雨戸は開けても、窓ガラスには、ぶ厚いカーテンが拡がり、まったく、人がいるのか、いないのかさえ、わからないまま。
室内が透けて見える可能性のある、レースのカーテンなど、ただの1度も見かけたことは、無い。
玄関の、開け閉めも無い。
換気扇や、1・2階とも、大きなクーラーが取り付けられているので、暑さ寒さは、しのげるだろうが・・・・・。
電話をかけるたびに、またか、という声にならないため息とともに、苦笑しながらの「元気ですよ。心配なさらなくても、いいですよ」という答えは、もう聞き飽きた。
第3回で書いたが、覚悟して、ソレを確認するために、最後の手段に出た。
春のやわらかな陽射しが朝から降り注いでいる日。
その計画を実行することにした。
うっそうと茂っている木々。外からは、家の中が見えないようになっている。
写真で見ると、一目瞭然。このようなすき間から、在住と、動きを確認する他ない。
小路に立つ。
「會田さ~ん!! 會田昌江さ~ん! 居ますかあ~!」
「居たら、返事して戴けませんかあ~~~~!!!」
・・・・・・・・反応どころか、「は~い」という返事も、無い。
再び、思いっきり大声を出して、叫び続けた。
「原節子さ~~~ん!! いますかあああああああ~~~!!」
「原さ~~~ん!! いますか~~~~~!!!」
「原さ~~~ん!!!」
「會田さ~ん!!」
叫びながら、家の窓の人影や、玄関の開け閉めなどに、目を注ぐ。
「會田さ~~~ん!」「原さ~ん!!」
「いたら、顔出してくださ~~~~い~~~~!!!!」
さすがに、背後に建つ家の人が、何事かと、窓を開けて、こちらを見た。だが、無言のまま、閉めた。
気恥ずかしいが、この手は、2度と使えない。
家から、原節子が、ちょいと顔出ししてくれるか、出てくるまで、叫ぶ他、無い。
「會田さ~~ん、元気でしたら、ちょっと顔出してみて下さ~~い!!」
「原さ~ん! 原節子さ~~~ん!!!」
さすがに、ココまでくると、予想はしてたが、母屋の家人が出てきた。
怒りの表情が、葉と木々と、絡まるツタの間から、感じられた。
「何してんだ! あんたは!」
ん?離れから、老人が出てきたように見えたが・・・・
ーーあのヒトは、誰なんですか?
「ん? 親戚の人間だよ」
――會田さんのお世話をしているとか?
「違う、違う」
「うるさいから、帰ってくれ。迷惑だよ」
ーーすいません。ただ、會田さんが元気だというのなら、ホントにそうなのか、確かめたくって
「元気だよ。元気だって、こっちが言ってんだから、それで良いだろ。もう、帰ってくれ」
家族が、家の中へと引っ込んでいった。
こういう問答をしている間も、離れの窓は、開かない。カーテンすら、動かない。
まいったなあ・・・
それでも、続けて叫んだ。
「原さ~~ん! 顔出してくださ~い!!」
「元気なら、返事してください~~~っ!」
叫びながら、考えた。
ホントに、ココにいるのであろうか?
施設や、病院にいるのなら、これだけ叫んでも出て来れないのは、分かる。
しかし、あれだけ探しまくってもいなかった。原節子という名前でも、會田昌江という名前でも、見当たらず。
偽名では、入らせないという言葉も、今回は信じた。他の病室や、部屋への見舞客にも聞きまくったが、彼女と思われる人間は、見当たらなかった。
となれば、ココにしかいない、はず。
雨戸を閉めていても、私の声は聞こえていたはず。大声には、自信があった、
かつて、200メートル先の家のなかにまで、私の声が届いた。「うるさい」と、怒られたほどであった。
これは・・・・・原節子こと、會田昌江は、すでに死んではいないものの、寝たきり生活としか思えない。
通常であれば,一度はフトンからむっくりゆっくりと起き上がり、カーテン越しに、何事かとのぞくもの。
だが、ピクリとも動かず。目、耳、足腰、痴呆も進んでいるのであろうか・・・
目は、すでに52年前の引退時の前から、見えずらかった。良く見えなかった。
耳も、女優時代から、実は聞こえにくくなっていた。
それが、引退を早めた、決断した一因とも言われている。
足腰も同時に弱まって、寝たきり状態としか思えない。
元気などと偽るのは、とんでもない。94歳。生きて居れば、長寿ではあるが、元気とは程遠い。
年齢相応の、体である。
やがて、叫ぶのを止めた。呼びかけも、辞めた。
結局、生前にはお逢い出来ずに、このヒトとは終わるんだなあ。そう痛感しつつ、首うなだれて、行き慣れたバス停に向かった。
映画界から、松竹から、何かに引っ掛けて、表舞台へ引っ張りだそうというチャレンジが、幾たびも成されている。
そのたびに、家人は断り続けている。
というより、とても、見るからに、表に出せない、出させたくない容姿と体調になっているからだ。
それが、この20年近く、アタックし続けた私の、結論だ。
もしかして? と、以前、町内の老人数人に聞いた。
角々のところに、町内会のお知らせが、立て札に貼り付けてある。ソコには「訃報」として、何丁目何番地何号の、誰それさんが、何年何月何日、永眠されました。享年いくつ。と書き込まれてある。
だが、ご近所付き合いの無くなった家人宅が、秘かに密葬し、町内会にも知らせることなく、滞りなく終えていたなら・・・
「ソレは、無いでしょう。あり得ない。例え、原さんが有名人であって、広く知らせたくないにしても、そんなことはしないでしょう」
それが、全員の意見であった。
この最終章を書き終えるに当たって、今一度、家人宅へと、電話を入れた。
出たのは、先に書いた、定年退職して、自宅に日々在宅している家人であった。
--申し訳ありませんが、會田さんの最近の体の具合、いかがですか?
「元気ですよ」
またかあ・・・・
--あの離れに、住んでらっしゃるまま変わらず、ですか?
「そうですよ。一人で元気に住んでますよ」
--食事などは、どうしてらっしゃるんですか?
「自分で作って食べてたり、こっちへ来て、一緒に食べたりしています」
--確か、目が悪くなっていましたよねえ?
「ええ、かなり、見えなっているというか・・・」
--耳も、かなり遠くなっているはずですよね。すでに、94歳と御高齢になったいますし。痴呆の症状もあるのではないですか?
「何が、言いたいんですか!」
--施設や病院に、今、入られているとか、入院されてるのではないですか?
「そんなことは、ありません。こっちにいます」
--病院には入っていないと?
「そりゃねえ、定期的に診察とかには受けに行ってはいますけどね。入院はしておりません」
--ですかねえ? 施設の名前が、浮上したりもしてるんですが
「もう、よろしいですか? これで、(電話)切らしてもらいます!」
明らかに、ムッとした声で、突然、電話は切れた。
目が、やはり、ほぼ失明に近い状態になっていたのか・・・
そんな状態で、自分で料理を作れる訳はないし、ましてや、古い家屋。火を使うとなると・・・・。焼く、煮る、炊く、切る。
包丁も、当然、握らねばならない。
加えて、食べに行くには、母屋の裏口までわずか2メートルほどではあるが、自ら歩かねばならない。
それは、かなり、厳しい。
おそらく、これまでのいきさつから考察すると、他界された場合。
密葬を家人が中心となって、滞りなく、ひそかに済ませたのち、しばらくしてから、松竹へと、そのことを短く報告。
それが、芸能マスコミへと、一斉に流れることになるに違いない。
それが、いつになるのかは、分からない。
ましてや、家人夫妻が名義上にせよ、主催しての「お別れの会」などは、開かれる訳も無い。
「昭和の大女優」は、かくして、隠して、ひっそりと、音も無く、消え去りゆく。
何ひとつ語らず、一切、老醜を見せることもなく・・・・・