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あの日本一速いスピードと、絶妙のコントロールでボールを投げた、まさに”怪童”尾崎行雄さんが死去

2013-06-15 20:45:59 | スポーツ

 若いプロ野球ファンには、「尾崎行雄」と言っても、「誰、その人?」と、即座に言われてしまいそうだが、この人の放つボールのスピードの速いことと言ったら、そりゃもう、すごかった!

 今、大谷翔平の速さが、騒がれているが、尾崎はそんなもんじゃなかった。優に、球速160キロを常時出した上に、絶妙のコントロールで、打者をきりきり舞いさせていた。

 かつて、大阪の浪商といったら、プロ野球選手予備軍がぞろぞろいた。この尾崎は、見込まれて、高校2年生で中退して、東映フライヤーズ入り。

 

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’(スポニチ より、転用させていただきました)

 入団1年目で、20勝を挙げた。

 以前の斎藤佑樹や、今の大谷や藤波晋太郎、勝ち投手の権利を得たあと、危なくなったらマウンドを降りさせるという、乳母日傘のような勝たせ方は、当時まったくさせていない。

 だから、1年目にして、今の、25勝ぐらいの勝ち星に、値するといっていい。

 今の球界のように、体のケアの細かい方法や、さまざまな処方が皆無だったこともあり、球数制限など、考えも及ばなかった時代。根性、何は無くとも根性が、優先された時代。

 肩の酷使もたたって、わずか29歳で引退。

 しかし、その直球の威力は、今も古きプロ野球ファンなら、皆が記憶しているはずだ。真っ向勝負! の、剛速球と、共に。

 私が、尾崎に会ったのは、彼が東京の下町の一角で、小さなレストランを経営していたとき。行ってみると、レストランというより、身ぎれいな大衆食堂という、印象。

 尾崎は、その頃、球界とはまったく離れ、毎日、コック兼、配ぜん係兼、レジ係を、もくもくとこなしていた。

 店があったのは下町だったなあ、という記憶。今、検索のさなか、台東区と出てきたので、そうなのだろう。

 もちろん、よくある、下町のレストランの味を楽しみに、食事しに行ったわけではない。

 尾崎行雄に、かつてのプロ野球投手時代の話しや、今のプロ野球を見ていてどう思うか? などなど、聞いてみたかったからだ。

 やっと店を調べ当て、その日、開店していることを確認してから行った。

 店の名前は、もう憶えていないが、野球とは全く関係のない店名だった。

 すでに3人ほど先客がいて、食事していたが、そこが、あの! かつて「怪童」と呼ばれた元有名人の店だから来たという雰囲気は、皆無。

 近所の人が、いつものように食事に立ち寄ってるというカンジ。

 「いらっしゃいませ!」

 そういって、近づいてきたのは、おおっ! かつてよりグンと太り、しわも寄って、少し白髪も見え、老けてはいるものの、まぎれもなく、あの怪童・尾崎だった。角刈りのような髪型は、変わってなかった。

 本当に、ココでやってるんだ! ある種の、感激に似たモノがあった。

 何か注文。出来上がりを待ちながら、尾崎の動きをじっと見ていた。

 今となっては、記憶でしかないのだが、自ら厨房で料理や飲み物を作り、配膳してたように思う。奥に、洗い場担当で、奥さんがいたのかどうか。定かではない。そこまで、覗かなかった。

 料金も味も、ごくフツー。食べ終えてから、「すいませんが」と、尾崎に声を思い切ってかけた。

 「実は」と、切り出し、お話しをお聞きしたいむね伝えた。

 即、すげなく断られた。

 「わざわざここまで来ていただいて、申し訳ないのですが、そういうことで来た方には、皆さん全員にお断りしてます」

 なぜですか?

 「もう、球界を離れて長い間経ちますし、お話しすることも無いなと。それに、今、プロ野球界にまったく興味無いんですわ。この通り、ナイターやってる時は、お店やってますし、テレビで見る気すら起こらんのですわ・・・」

 う~ん・・・・では、せめて、来た記念に顔写真を、1枚。

 「それも、お断りしてます。すんませんな。さあ、お帰り下さいますか」

 

 もう、これは、通い詰めても、同じこと。経験で、分かる。脈、はない。

 レジで、お金を払うと、元気良く言われた。

 「ありがとう、ございました!」

 仕方ないな。でも、あの、尾崎が元気でいたことが分かったことが、この目と耳で確認出来ただけでも、出かけてきた価値があるってもんだ。そう、落ち込む自分に、言い聞かせた。

 それから、数年後ーーーーーーーーー

 テレビで、彼が出ているのを見た。えっ! 

 驚くと同時に、裏切られたと思った。

 しかし、よく見ると、かつての野球仲間との回顧談をするという内容で、スタジオに集った同窓会的番組。

 誘われて、やむなく出演したのか・・・そう、理解した。

 歌手の松崎しげるのように、年の大きく離れた妻との間に出来た子供と自宅近くのビル内を歩いていたところに、偶然遭遇したときのこと。

 呼び止め、断ってカメラを向けたとき、彼が言った。

 「子供だけは、撮らないで くれる?」

 そういって、子供を抱き上げて、後ろを向かせた。

 プライバシーだもんな。そう、理解した。

 ところが、その後、松崎が、「徹子の部屋」に出た時、嬉しそうに、その子供の写真を見せ、自らの”子煩悩ぶり”や、”良きパパぶり”をアピールしまくり。

 そうかい、ゼニになれば、宣伝材料にして、公開するのかい! と苦々しい想いで、見た。 

 もっとも、芸の無い、芸ノー人には、この手合いが多い。

 プライベート、プライバシーまで、切り売りしては、ゼニに代えて、タレント生命を延命しようとかかる。都合の良い時だけ、プライバシーを振り回す輩は多いのには、あきれる。

 だから、例え人気番組に出てて、要請されても宣伝には一切加担しない代わりに、自らのプライバシーは一切語ろうとしなかった、いさぎよい姿勢を死ぬまで貫いた、露口茂には、今も敬意をもっている。

 さてさて、尾崎のテレビ出演は、私の記憶する限り、それ1回きり。

 その時すでに、レストランを廃業し、スポーツ関係の企業に勤めているとか、紹介されてたようだ。

 そののち、元や、前の、1軍にいて活躍したプロ野球選手が競い合う「マスターズリーグ」にも、出場したとある。

 そのことは、知らなかった。知っていたとしても、見には行かなかったであろう。

 マスターズ リーグは、時折りは、観に行ってはいた。かつて密着取材をさせてもらった村田兆治が投げるときだ。彼だけは、常に体を鍛え、球速142キロを出す。プロとして、今も恥じない姿を見せてくれたが、あとの選手たちは昔の面影もない草野球並みの、プレイの数々だった。

 尾崎の、失礼だが、あの体型では、全盛時の球速は願っても無理であり、かつての夢をぶち壊すだけであったろう。

 東京ドームでの観客数は、3割から、良い時で5割ほど。観客の入場料収入だけでは、とても球団を維持出来ず。

 かといって、頼みの大型スポンサーも付かず、早晩終焉を迎えることになるであろうなと思いつつ、珍プレイを見ていた。

 今、これを書くにあたって検索してみると、運営母体こそ残っているものの、試合は2008年からやっていない。

 やはり、か・・・・・。

 しかし、死去の報道によれば、尾崎は少年野球教室で全国を巡って、教えていたという。

 さぞかし、自分の少年時代を思い出しつつ、楽しくもあったであろう。そう、想像する。

 しかし、そんな見るからに太って、健康体に見えた尾崎に病魔が襲いかかっていたとは、今でも信じられぬ思いだ。

 先月、5月15日、大阪での少年野球教室を終えて、帰京してから、体調がすぐれず、急激に体は痩せ、家族の勧めもあって、都内の病院で検査。

 翌6月7日、転院入院。6月13日の朝、他界。病名は、肺がん。入院して、わずか1週間で、あっけなく・・・・・・

 年齢も、まだまだ若い、68歳。同い年の妻・勝子さんや、長男・力さんらを残して、旅立ってしまった。

 怪童・死去は、ネットのニュースではなく、ある人のブログの題で知った。テレビのニュースでは、観ていない。

 しかし、彼の投球と、その名を今も覚えている人は、多い。

 これを打ち始めて、いったんスポーツジムへと行った。受付には、中年男性2人。

 何気なく聞いてみた。

 尾崎行雄って、知ってます? 怪童といわれた。

 「知ってるよお! スゴイ球、投げてたよ! 打者の手元で、ククッと伸びるんだ。神宮(球場)まで見にいったもん!」

 当時を、思い出すかのように、楽しく一気に語る。

 「そうそう! 死んだんだってねえ、まだ若かったよねえ・・・」

 

 人は死して、名を残す。尾崎、死すとも、他人の記憶に永遠に刻まれる。

 それだけの、偉大な人だったことを、その夜、改めて知らされた。

 嬉しかった・・・・・・

 

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 通夜は、6月18日。午後6時から。

 葬儀は、6月19日。午前10時から。

 いずれも、東京都荒川区町屋 1-23-4 町屋斎場で、しめやかに執り行われる。

 下町の一角で、最後のお別れを迎えるのも、尾崎”怪童”行雄に、ふさわしい。

 さようなら。 日本一、速い球を投げた投手・・・・・

 

 

 


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