DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

「狼と獅子」(227)『イソップ寓話集』岩波文庫:悪党たちは互いを非難する!

2019-04-17 18:45:17 | 日記
狼が羊を盗んだ。 A wolf stole a sheep.
途中、狼が獅子に会った。 On the way, the wolf encountered a lion.
獅子が羊を狼から取った。 The lion took the seep from the wolf.
狼が獅子を非難して言った。「なぜお前が正当に私の羊を奪えるのか?お前は悪党だ。」 The wolf blamed the lion, "Why can you legitimately take my sheep? You are vicious."
獅子が言った。「お前も悪党だ。俺を非難する権利はない。お前が羊を盗んだ。」 The lion said, "You are also vicious. You have no right to blame me. You stole the sheep."
教訓:悪党たちは互いを非難する。 Lesson: Vicious people blame each other.

《感想1》悪党は傲慢で、人を睥睨(ヘイゲイ)し非難するのを楽しみとする。狼も獅子も悪党だ。この世は勝者、普通者、敗者からなる。勝者は多くが傲慢な悪党だ。
《感想2》傲慢でなく悪党でない勝者に対しては、君は中立だ。
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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第2章 現存在の根本的構成としての世界内存在一般」「第13節 ひとつのもとづけられた様態についてなされる、内存在の例示 世界認識」

2019-04-17 13:42:47 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(1)内存在の実存論的「様相」の一つとしての世界認識!
A 第13節の課題は、「世界認識そのものが実は内存在の実存論的『様相』である」ことを示すことだ。(第12節の最後、59頁)
《感想1》ハイデガーによれば、「現存在」は存在論的な意味で「関心」である。(第12節(8)参照)。現存在(《意識》)は、様々の実践的関心に生きる。認知的(理論的)関心(Ex. 「世界認識」)も、実践的関心の一つに過ぎない。「世界認識」は「関心」の在り方の一つだ。

(2)「主観」対「客観」とは、「現存在」対「世界」ではない!
B 「主観」が「現存在」で、「世界」が「客観」なのではない。「主観と客観は、決して現存在と世界というのと同一ではない。」(60頁)
B-2 「認識」とは、「世界の内で世界へ向かってかかわる存在様相」だ。(60頁)
《感想2》認識は、現存在(つまり世界へかかわる「配慮」Besorgenあるいは「関心」Sorge)の「存在様相」のひとつだ。ハイデガーにとって、「存在」=《ある》とは、「配慮」・「関心」=《かかわる》ことだ。
《感想2-2》すべては、「世界の内で」生じる。現存在に、「超越」はない。すべてが「内在」だ。現存在は、モナド、あるいは超越論的主観性であり、宇宙or世界そのものだ。

(3)ハイデガーは「超越」を認めない!すべてが「内在」だ!(世界内存在!)
C 「認識する主観(※「内在」)は如何にしてその内的《圏》から出てそれとは《別種な外的圏》(※「超越」)に達するのか」という問いは、根拠がない。この場合、「認識する主観の存在様相をたずねる」ことが閑却されている。(60頁)
C-2 「『認識する』ことは、世界内存在の存在様式のひとつである」
C-3 「認識は主観の超越においてはじめて世界に到達する」というのは誤りだ。「世界(※超越)が始めから自己の世界(※内在、内面、内的圏)にある」。(61頁)

《感想3》ハイデガーは「超越」を認めない。すべてが「内在」だ。
《感想3-2》「現存在」(※いわゆる《意識》)が「世界内存在」であるとは、超越とされる存在者(「自然」)(60頁)も、「内在」だということだ。(内面と外面が区別されない。)
《感想3-3》つまり「現存在」は超越論的主観性である。そして超越を認めないから、感覚される「物」は「物」(超越)の「像」(内在)でなく、物そのものだ。このような現存在はモナドである。
《感想3-4》この場合、外面(超越)があるとすれば、それは①他モナドである。②だがモナド共同体的に物世界が共有される。モナド共同体的物世界を外面と呼ぶことができる。
《感想3-5》これに対し《内面》とは モナド共同体的物世界と異なる、各モナドの《固有の感覚、感情、欲望、意図、夢、意味世界、意味世界の展開としての想像・欲望》(これらが普通《心》とよばれる)のことだ。
《感想3-6》現存在が世界内存在であるとは、ハイデガーが、超越を認めないということだ。現存在は「世界の内で(※世界は超越でない)世界へ向かってかかわる存在 」だ。(60頁)
《感想3-7》フッサールが語る《ヒュレー》とは、世界の《質料》であって、これがノエシスによってノエマ(意味、形相)へと形成される。

(4)「世界との配慮的交渉」の「欠如的変容」:これが「認識」だ!
D 認識は、世界内存在としての現存在における「世界との配慮的交渉」の「欠如的変容」である。
D-2 「配慮」が、「工作や操作など」の内存在の様態を手控え、「・・・・・のもとにただ立ちどまっている」という様態をとること、つまり「覚知」das Vernehmenするという様態をとること、これが「認識」だ。
D-3 「認識」という存在様態は、「世界の内部で出会う存在者」の「純然たる形相」に「注目」する「指向」・「態度」だ。

(4)-2 「認識」あるいは「覚知」(das Vernehmen)
E 「客体的存在者の覚知」は、「あるものをしかじかのものと呼び、かつそれについて述べる」という遂行様式をもつ。このような「解意」(Auslegen)に立脚して、覚知は「規定する」(Bestimmen)はたらきとなる。
E-2 「覚知され規定されたものは命題において言明され、このように言明された言葉(das Ausgesagt)として記憶され保存される。」
E-3 命題は「記憶され保存される」が、それも「世界内存在の一様態」だ。

(5)内存在の様態(諸変様)としての、覚知・保存・記憶、忘却、錯誤・誤謬!
F 「このように(※命題or言明された言葉において)『外に出て』対象のもとに立つことにおいても・・・・現存在は『内に』とどまっている。」(62頁)
E-5 覚知・保存・記憶、忘却、錯誤・誤謬、これらは根源的な内存在の様態(諸変様)である。

《感想4》現存在にとって、「命題」という意味的イデア(意味)もまた、世界の「内」にある。ハイデガーは一切の「超越」を認めない。客体的存在者のすべては、つまり《物(感覚)、感情・欲望・意図・夢、意味世界(命題・言明なども含む)、意味世界の展開としての想像・虚構》は、「内在」である。現存在は超越論的主観性、モナド、従って宇宙・世界だ。

(6)まとめ:「認識は、世界内存在のうちに基づけられた現存在の一様態である。」(62-63頁)
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