DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

憎まれっ子世にはばかる!君は戦士だ!

2019-04-03 18:20:27 | 日記
(1)
みんな失われてしまった。母はやさしかった。父もやさしかった。縁日は楽しかった。妹と遊んだ。いい友だちばかりだった。おじさんもおばさんも親切だった。
(2)
だが、やがて苦い時代が始まった。裏切り。敵意。いがみ合い。誤解。衝突。憎悪。悪意。恫喝。嫌悪。侮辱。侮蔑。攻撃。罠。中傷。陰口。陰湿ないじめ。村八分。貧乏。喧嘩。悪口雑言。足の引っ張り合い。讒言。圧力。
(3)
君の気分は最悪だ。憂鬱。悲しみ。悲惨。不機嫌。凶暴。狂気。錯乱。孤立感。不信。不興。悲観。人嫌い。
(4)
なにもかも面倒くさい。君は無になりたい。だがまだ未練がある。この世に少しは善や正義や公正や幸福や信頼があるかもしれないと期待する。馬鹿だ。
(5)
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言う。(だが二度と浮かばないかもしれない。それも運命だ。)「ならぬ堪忍するが堪忍」と言う。(もちろんそんな奴と関わらないのが一番だ。)「捨てる神あれば拾う神あり」と期待したい。(ついに捨てられっぱなしもあり得る。)君は悲観的だ。
(6)
君は死なずに生きている。めでたい。生きてやる。「憎まれっ子世にはばかる」と言う。
(7)
嫌な奴に「先に死んでしまえ」と言う。すると「お前こそ先に死ね」と言われる。戦いだ。賢くなれ。準備を怠るな。油断大敵。攻撃こそ最大の防御。君は戦士だ。
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「石を漁(スナド)った漁師たち」(23)『イソップ寓話集』岩波文庫:人生、喜びはまれだ!常に、悲しみを覚悟しておかねばならない!

2019-04-03 17:38:27 | 日記
漁師たちが地引き網を引いていた。 Fishermans were drawing a beach seine.
網がとても重かったので、彼らは喜び、「魚がたくさんとれるだろう」と言った。 The seine was so heavy that they were pleased and said, "We will have many fishes."
しかし網の中にあったのは、たくさんの石と少しの魚だった。 However, they got many stones and a few fishes in the seine.
彼らはひどく落胆し悲しくなった。 They were very disappointed and became sad.
一人の老人が彼らに言った。「最初、君らは喜んでいた。次に君らは悲しんだ。だが喜びと悲しみは兄弟だ。これが真理だ。君らはこの真理を受け入れるのがよい。」 An old man said to them, "First, you were pleased, and second, you became sad. But pleasure and saddness are like siblings.This is true.You had better acccept the truth."

《感想1》人生、喜びはまれだ。常に、悲しみを覚悟しておかねばならない。「禍福は糾(アザナ)える縄のごとし」だ。
《感想1ー2》むしろ、人生は悲しみばかりだ。だが良いときもあるはずだ。「渡る世間に鬼はない」と言う。
《感想2》過度の期待は禁物だ。過度に期待すると悲しみ・落胆が大きい。そうでなくても「釣り逃がした魚は大きい」のだから。
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ハイデガー『存在と時間』(1927)「序論」「第2章 存在問題の開発におおける二重の課題 考究の方法および構図」「第6節 存在論の歴史の解体の課題」

2019-04-03 13:53:29 | 日記
(1)現存在の根本的な歴史性!&歴史認識的な問い!
A 現存在自身の時間的存在様式としての歴史性。つまり現存在は、「自己の過去を存在している」。「現存在の根本的な歴史性」!(20頁)
《感想1》人間は中空にあるわけでない。ハイデガーの言う「現存在」とは《意識》としての人間だ。人間は《意識》としては「自己の過去を存在している」。

A-2 現存在が、歴史学的に問いかつ探求するという存在様相の中へはいることができる(つまり歴史学的認識態度が可能である)のは、「現存在がそれの存在の根底において歴史性によって規定されている」からである。
A-3 「存在の意味へ向けられる問い」は、「あらかじめ現存在を、それの時間性と歴史性において究明する問い」として、「歴史認識的な問い」へ至る。

(2)現存在は「伝統」にもたれかかり、根源的な「源泉」を忘れ去る!
B 「現存在が歴史的に存在する」ことから、現存在の「日常的存在様態」として、現存在は「伝統」にもたれかかる。
B-2 そして「伝統」は、在来のものごとを当たり前とすることで、根源的な「源泉」への通路をふさぐ。伝統がその来歴を「忘却させる」。
《感想2》物事の最初の意味が忘れられ、無批判に受け継がれる「伝統」!「伝統」がその来歴を「忘却させる」のは、普通のことだ。

(3)「ギリシア的存在論」の「存在の意味への問い」は、「伝統」のうちで忘れ去られた!
C 古代以来、哲学の目標は「存在者の存在」の理解だった。だが「ギリシア的存在論」の「存在の意味への問い」が、「伝統」のうちで忘れ去られた。
C-2 「根のぬけたギリシア的存在論は、中世において、固定的な教学組織となった。」(22頁)
C-3 「ギリシア的存在論が、スコラ的刻印をきざみつけられて・・・・、近世の『形而上学』と超越哲学のなかへ移植され、ヘーゲルの『論理学』の基礎と目標をも、なお規定しつづけている。」(22頁)

(4)古代的存在論の伝承的形態を解体し、存在論の諸規定がそこで得られた根源的諸経験へ引き戻す必要がある!
D デカルトのego cogito(われ思う)、主観、自我、理性、精神、人格など「特定のいちじるしい存在領域」が入ってきても、存在問題はなおざりにされた。
E 古代的存在論の伝承的形態を解体し、存在論の諸規定がそこで得られた根源的諸経験へ引き戻す必要がある。
E-2 この解体の目的は、存在問題の原理的開発である。

(5)カントは「存在時性(時節性)の次元の方向へむかって」いたが、結局「現存在の存在論」を逸した!
F まず立てられるべき問いは、「存在」の解釈がどの程度まで「時間の現象」と考え合わされたかだ。このためには存在時性(時節性)Temoporalitätの問題圏が原理的に取り出されていることが必要である。
F-2 カントは「存在時性(時節性)の次元の方向へむかって」押し出されていったが、結局「眼をひらくことができずにいた」。(23-24頁)
F-3 その理由は、カントが(ア)「主観の主観性をあらかじめ存在論的に分析する分析論」を欠いていたから、また(イ)「伝承的な通俗的時間了解」に従っていたからだ。
F-3 カントはデカルトの存在論的拠点を踏襲したので、「現存在の存在論」を逸した。

(6)デカルト:「精神もしくは心」が存在論的にまったく無既定のままに置かれた!
G デカルトは、「res cogitans(思惟する物)の存在様式」、一層正確にいえば、「sum(われあり)の存在意味」を明らかにしなかった。かくて「精神もしくは心」が存在論的にまったく無既定のままに置かれた。

(6)-2 デカルト(続):res cogitans(思惟する物)を存在論的に「ens(存在者)」とした!
H デカルトは彼の「ゆるぎなき基礎」であるres cogitans(思惟する物)を存在論的には「ens(存在者)」として規定した。つまり中世的存在論を転用した。デカルトは、「心性(Gemüt)」の主題的な存在論的分析を閑却した。

(7)古代存在論では存在の意味は「現在」という時間様態を顧慮して了解されている!
I 「存在時性(時節性)」Temoporalitätの問題圏の光のもとで、古代存在論の地盤を解釈しなければならない。
I-2 古代人は、存在の理解を「時間」に仰いでいた。
I-2-2 古代存在論においては存在の意味が「パルウーシア(臨在)」ないしは「ウーシア(現在)」として規定されている。つまり存在の意味が存在論的・存在時的(時節的)に「臨在性(現存性)」Anwesenheitで規定されている。
I-2-3 つまり古代存在論において、存在の意味は「現在」という時間様態を顧慮して了解されている。
I-3 古代存在論において、「レゲイン」(語ること)そのものないしは「ノエイン」(思考することor理性的認識)は、「ある現在するものをその純粋な現在性において端的に覚知する」ことだが、それは、あるものを純粋に「現在視」(現成化)する《Gegenwartigen》という存在時的(時節的)構造を備えている。
I-4 それ(※純粋な現在性)にむかって現れてくる存在者が、「本当の存在者」として、つまり「臨在性」(ウーシア、現存在、真実在)として,了解される。

(7)-2 ギリシア的存在解釈(古代存在論)では「時間そのものも他の存在者とならぶ一種の存在者」とされた!
J ギリシア的存在解釈は、しかし、「時間の基礎存在論的機能」を察知しなかった。むしろその反対に「時間そのものも他の存在者とならぶ一種の存在者」とされた。(26頁)

(7)-3 アリストテレスの時間観
K 古代の存在論の最高段階はアリストテレスの存在論だ。そしてアリストテレスの時間観は、それ以後に続くすべての時間観を、ベルグソンのそれも含め、本質的に規定する。カントの時間観もアリストテレスの範囲内にある。

(8)まとめ:「存在論的伝承の解体を遂行していくうちに、存在問題ははじめてその真の具体化を得る」!
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