※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
《感想6》現存在の各自性(Je-meinigkeit)とは、要するに、自己の可能性を選び取り、「各自」になるということ!
《感想7》「この存在者(※現存在)は、その存在において、みずからおのれの存在に関わり合っている。」(41頁)とは《意識》(現存在)におけるノエシスとノエマの分裂(《現存在=意識》の分裂1)について述べているのでない。
《感想7-2》それは、ノエシスつまり今まさに生きられている私(実存=存在)としてのノエシスの分裂的統一(《現存在=意識》の分裂2)について述べている。つまりノエシスは、《関心》と《注視》に分裂しつつ、一体のものとして動的に展開する。
《感想7-3》フッサールは、ノエシスの《関心》として、もっぱら理論的関心(Ex. 物体の形状をとらえる)ばかり取り上げる。だがハイデガーは《関心》を幅広く取り上げる。(卑近に言えば、Ex. 物体の利用への関心、物体の美しさを味わいたい関心、その物体を食べたい関心等々。)
《感想8》日常的に《意識》と言うときは、ノエシスとノエマの分裂的統一を指す。(《現存在=意識》の分裂1)(既述)
《感想8-2》ハイデガーの「現存在の分析論」は、ノエシスが《関心》と《注視》に分裂しつつ一体のものとして動的に展開する事態を分析する。つまり《現存在=意識》の分裂2の分析だ。(既述)
(4)現存在にそなわる実存的構成
E 「現存在(※意識)はそのつどなんらかの可能性を存在し、かつおのれの存在においてこの可能性をなんらかの仕方で了解しているのであるが、現存在(※意識)はいつもこの可能性にもとづいておのれを存在者(※ノエマ)として規定しているのである。」(43頁)
E-2 「このことが、現存在にそなわる実存的構成ということの形式的な意味である。」
(5)現存在の分析論の出発点は、現存在の「平均的日常性」である!
F 分析の出発点においては、現存在を「それがさしあたり身をおいている無差別の相」つまり「きわだった差別のない現存在の日常性」において露呈する。この「現存在の日常的無差別相」を「平均性」(Durchschnittlichkeit)と名付ける。
F-2 「あらゆる実存(※現存在の存在)は、このような存在様相のなかからでてきて、そしてそのなかへ帰っていくというありさまで存在する。」
G 現存在は「平均的な日常性」においても「特定の仕方でおのれの存在に関わり合っており」、この存在にむかって「態度をとっている」。つまり「平均的な日常性」においても、実存性の構造が、アプリオリに含まれている。
G-2 なお、この「態度」が(※本来性の様態でなく)「非本来性の様態」の時もある。Ex. 「おのれの存在」からの「逃亡」・「忘却」等。
《感想9》現存在の存在が、「実存」である。
(6)現存在の「実存範疇(Existenzialien)」!&現存在的でない存在者の「カテゴリー」!
H 現存在の存在性格(規定)を、「実存範疇(Existenzialien)」と呼ぶ。
H-2 「現存在的でない存在者の存在規定」は「カテゴリー」(Kategorien)と呼ぶ。(ギリシア語でカテゴリーとは「視見において目撃され可視的になっているもの」の意味である。)
(6)-2 「実存」の存在諸性格が「実存範疇」!&「客体性」の存在諸性格が「カテゴリー」!
I 「実存範疇」と「カテゴリー」とは、存在の諸性格のふたつの根本的様態である。
I-2 「誰かとよばれる存在者」(現存在)の存在は「実存」であり、その存在諸性格が「実存範疇」である。
I-3 「何かとよばれる存在者」の存在は「客体性」であり、その存在諸性格が「カテゴリー」である。
(7)「現存在の実存的分析論」は、「現存在を考究しうる」諸学科(Ex. 心理学、人間学、生物学)の「アプリオリな原理」をあらわにする!
J 「現存在の実存的分析論」は、第1に「存在問題」の課題の解決を目指すとともに、第2に「人間とは何であるか」を哲学的に究明するため必要な「アプリオリな原理」をあらわにする。
J-2 「現存在の実存的分析論」は、「現存在を考究しうる」諸学科である心理学、人間学、また生物学「よりもさきにある」。
《感想10》ハイデガーの「現存在の分析論」は、ノエシスが《関心》と《注視》に分裂しつつ一体のものとして動的に展開する事態を分析する。(つまり「《現存在=意識》の分裂2」の分析!)(既述)だ。かくて、当然、《関心》について分析がなされる。《関心》こそ、ノエシスの機動力であり、自発性そのものだ。
《感想10-2》私見では「現存在の分析論」は、超越論的主観性の「ノエシス」の働きの分析論だ!(既述)
《感想10-3》ハイデガーは言う、「この存在者(※現存在)がみずからの存在において関わらされている存在とは、そのつど私の存在である。」(42頁)ここで、ハイデガーが言う「私」とは、最も根源的にはノエシスにおける《関心》、つまり《自発性》(能動性)のことだ。
《感想10-4》なお、この《自発性》=「私」には、まだ他者(他我)を前提したうえでの「私」という意味はない。
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
《感想6》現存在の各自性(Je-meinigkeit)とは、要するに、自己の可能性を選び取り、「各自」になるということ!
《感想7》「この存在者(※現存在)は、その存在において、みずからおのれの存在に関わり合っている。」(41頁)とは《意識》(現存在)におけるノエシスとノエマの分裂(《現存在=意識》の分裂1)について述べているのでない。
《感想7-2》それは、ノエシスつまり今まさに生きられている私(実存=存在)としてのノエシスの分裂的統一(《現存在=意識》の分裂2)について述べている。つまりノエシスは、《関心》と《注視》に分裂しつつ、一体のものとして動的に展開する。
《感想7-3》フッサールは、ノエシスの《関心》として、もっぱら理論的関心(Ex. 物体の形状をとらえる)ばかり取り上げる。だがハイデガーは《関心》を幅広く取り上げる。(卑近に言えば、Ex. 物体の利用への関心、物体の美しさを味わいたい関心、その物体を食べたい関心等々。)
《感想8》日常的に《意識》と言うときは、ノエシスとノエマの分裂的統一を指す。(《現存在=意識》の分裂1)(既述)
《感想8-2》ハイデガーの「現存在の分析論」は、ノエシスが《関心》と《注視》に分裂しつつ一体のものとして動的に展開する事態を分析する。つまり《現存在=意識》の分裂2の分析だ。(既述)
(4)現存在にそなわる実存的構成
E 「現存在(※意識)はそのつどなんらかの可能性を存在し、かつおのれの存在においてこの可能性をなんらかの仕方で了解しているのであるが、現存在(※意識)はいつもこの可能性にもとづいておのれを存在者(※ノエマ)として規定しているのである。」(43頁)
E-2 「このことが、現存在にそなわる実存的構成ということの形式的な意味である。」
(5)現存在の分析論の出発点は、現存在の「平均的日常性」である!
F 分析の出発点においては、現存在を「それがさしあたり身をおいている無差別の相」つまり「きわだった差別のない現存在の日常性」において露呈する。この「現存在の日常的無差別相」を「平均性」(Durchschnittlichkeit)と名付ける。
F-2 「あらゆる実存(※現存在の存在)は、このような存在様相のなかからでてきて、そしてそのなかへ帰っていくというありさまで存在する。」
G 現存在は「平均的な日常性」においても「特定の仕方でおのれの存在に関わり合っており」、この存在にむかって「態度をとっている」。つまり「平均的な日常性」においても、実存性の構造が、アプリオリに含まれている。
G-2 なお、この「態度」が(※本来性の様態でなく)「非本来性の様態」の時もある。Ex. 「おのれの存在」からの「逃亡」・「忘却」等。
《感想9》現存在の存在が、「実存」である。
(6)現存在の「実存範疇(Existenzialien)」!&現存在的でない存在者の「カテゴリー」!
H 現存在の存在性格(規定)を、「実存範疇(Existenzialien)」と呼ぶ。
H-2 「現存在的でない存在者の存在規定」は「カテゴリー」(Kategorien)と呼ぶ。(ギリシア語でカテゴリーとは「視見において目撃され可視的になっているもの」の意味である。)
(6)-2 「実存」の存在諸性格が「実存範疇」!&「客体性」の存在諸性格が「カテゴリー」!
I 「実存範疇」と「カテゴリー」とは、存在の諸性格のふたつの根本的様態である。
I-2 「誰かとよばれる存在者」(現存在)の存在は「実存」であり、その存在諸性格が「実存範疇」である。
I-3 「何かとよばれる存在者」の存在は「客体性」であり、その存在諸性格が「カテゴリー」である。
(7)「現存在の実存的分析論」は、「現存在を考究しうる」諸学科(Ex. 心理学、人間学、生物学)の「アプリオリな原理」をあらわにする!
J 「現存在の実存的分析論」は、第1に「存在問題」の課題の解決を目指すとともに、第2に「人間とは何であるか」を哲学的に究明するため必要な「アプリオリな原理」をあらわにする。
J-2 「現存在の実存的分析論」は、「現存在を考究しうる」諸学科である心理学、人間学、また生物学「よりもさきにある」。
《感想10》ハイデガーの「現存在の分析論」は、ノエシスが《関心》と《注視》に分裂しつつ一体のものとして動的に展開する事態を分析する。(つまり「《現存在=意識》の分裂2」の分析!)(既述)だ。かくて、当然、《関心》について分析がなされる。《関心》こそ、ノエシスの機動力であり、自発性そのものだ。
《感想10-2》私見では「現存在の分析論」は、超越論的主観性の「ノエシス」の働きの分析論だ!(既述)
《感想10-3》ハイデガーは言う、「この存在者(※現存在)がみずからの存在において関わらされている存在とは、そのつど私の存在である。」(42頁)ここで、ハイデガーが言う「私」とは、最も根源的にはノエシスにおける《関心》、つまり《自発性》(能動性)のことだ。
《感想10-4》なお、この《自発性》=「私」には、まだ他者(他我)を前提したうえでの「私」という意味はない。