※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
(1)配慮的な世界内存在に、内世界的存在者が出会い、それと同時になにか世界というものも現れてくる!
A 「世界そのものは、世界の内部にある存在者の一つでない。」(ハイデガー)
《感想1》私見では、現存在はモナドであり、世界だ。この限りで現存在は存在者でない。(以上、イデガーの現存在概念①)
《感想1ー2》だがハイデガーは同時に、「現存在という存在者」と明確に言う。これは、物である身体に引き寄せられた現存在だ。(以上、ハイデガーの現存在概念②)
A-2 「世界」はこれらの「内世界的存在者」を規定していて・・・・それら「内世界的存在者」が現れてきたりすることができるのも、実はひとえに「世界が『与えられている』」からなのである。
A-3 「現存在は世界の了解を・・・・前存在論的な了解ではあるが、もっている」。
《感想2》「了解」とは、私見では、日常用語における《意識》することに相当する。《意識》するとは、モナド(超越論的主観性)において、常にノエシスとノエマの分裂が起きているということだ。なおノエシスは、《関心》と《注視》からなる。
A-4 「配慮的な世界内存在に、内世界的存在者が出会い、したがってそれの内世界性が現れてくるとともに、それと同時になにか世界というものも現れてくる」。
(2)内世界的なものの世界適合性(die Weltmässigkeit)を表立たせる配慮の諸様態①:使用不可能な道具の「目立たしさ」!
B 工作道具が破損しているとか、材料が駄目だとかいう場合、道具は使用不可能となり、役に立たないもの、「不用具性」において「目立たしさ」を示すようになる。
Bー2 使用不可能な道具には、「単純な客体性」がきざしてくる。
(3)内世界的なものの世界適合性を表立たせる配慮の諸様態②:手もとにない道具を求める「催促がましさ」!
C 道具の不在の発見。手もとにないもの(※道具)に気がつくと、手もとにあるものは「催促がましさ」の様相を帯び、「用具性」を失う。その用具的存在者(手もとにあるもの)は、配慮の欠如的様態である客体性において(つまり客体的存在者として)発見される。
(4)内世界的なものの世界適合性を表立たせる配慮の諸様態③:「邪魔になる」用具的存在者の「煩わしさ」!
D 配慮の「邪魔になるという意味での不用具的なもの」の「煩わしさ」。(Ex.場違いなもの、尚早なもの)用具的存在者が、客体性において(つまり客体的存在者として)発見される。
(5)用具性の告別(上記①②③)において、用具的存在者の世界適合性が現れる!
E ①使用不可能な道具の「目立たしさ」、②手もとにない道具を求める「催促がましさ」、③「邪魔になる」用具的存在者の「煩わしさ」において、用具的存在者は、用具性を失っていく。
E-2 このとき、「非主題的にではあるが、すでに了解されていた」用具性が、いわば別れを告げにくる。
E-3 「この告別において、用具的存在者の世界適合性も現れる。」
《感想3》自明的親近性(familiarity, A.シュッツ)が失われて、つまり問題化して(problematic, A.シュッツ)、世界適合性、つまり、《用具的存在者が用具性において配慮的世界に適合している》ということが現れてくる。
(6)世界(※環境世界)は、用具性の告別(上記①②③)において、通示されてくる(※つまり主題化されてくる)が、いつもすでに非主題的に開示されている!
F 環境世界(※世界内存在にとって世界とは、環境世界だ)は、用具性の告別(上記①②③)において、通示されてくる。(※つまり主題化されてくる。)
F-2 だが環境世界は、いつもすでに(※非主題的に)開示されている。開示態(Ershlossenheit)!
F-3 「世界との親しみ」のなかで現存在は,われを忘れて内世界的に出会うものごとにたずさわる。
F-4「配視的配慮が世界の内部にある用具的存在者に接しうる」時、「いつもすでに世界があらかじめ開示されている」。
(7)まとめ:「現存在がこのように親しんでいる」世界とは、「配視」がそのなかで「動いて」いる「指示連関の全体性」のことである!
《感想4》「世界」(※環境世界)すなわち「指示連関の全体性」とは、「道具立て全体」に含まれる「多様な指示関係」1~9全体のことである。(第15節参照)
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
(1)配慮的な世界内存在に、内世界的存在者が出会い、それと同時になにか世界というものも現れてくる!
A 「世界そのものは、世界の内部にある存在者の一つでない。」(ハイデガー)
《感想1》私見では、現存在はモナドであり、世界だ。この限りで現存在は存在者でない。(以上、イデガーの現存在概念①)
《感想1ー2》だがハイデガーは同時に、「現存在という存在者」と明確に言う。これは、物である身体に引き寄せられた現存在だ。(以上、ハイデガーの現存在概念②)
A-2 「世界」はこれらの「内世界的存在者」を規定していて・・・・それら「内世界的存在者」が現れてきたりすることができるのも、実はひとえに「世界が『与えられている』」からなのである。
A-3 「現存在は世界の了解を・・・・前存在論的な了解ではあるが、もっている」。
《感想2》「了解」とは、私見では、日常用語における《意識》することに相当する。《意識》するとは、モナド(超越論的主観性)において、常にノエシスとノエマの分裂が起きているということだ。なおノエシスは、《関心》と《注視》からなる。
A-4 「配慮的な世界内存在に、内世界的存在者が出会い、したがってそれの内世界性が現れてくるとともに、それと同時になにか世界というものも現れてくる」。
(2)内世界的なものの世界適合性(die Weltmässigkeit)を表立たせる配慮の諸様態①:使用不可能な道具の「目立たしさ」!
B 工作道具が破損しているとか、材料が駄目だとかいう場合、道具は使用不可能となり、役に立たないもの、「不用具性」において「目立たしさ」を示すようになる。
Bー2 使用不可能な道具には、「単純な客体性」がきざしてくる。
(3)内世界的なものの世界適合性を表立たせる配慮の諸様態②:手もとにない道具を求める「催促がましさ」!
C 道具の不在の発見。手もとにないもの(※道具)に気がつくと、手もとにあるものは「催促がましさ」の様相を帯び、「用具性」を失う。その用具的存在者(手もとにあるもの)は、配慮の欠如的様態である客体性において(つまり客体的存在者として)発見される。
(4)内世界的なものの世界適合性を表立たせる配慮の諸様態③:「邪魔になる」用具的存在者の「煩わしさ」!
D 配慮の「邪魔になるという意味での不用具的なもの」の「煩わしさ」。(Ex.場違いなもの、尚早なもの)用具的存在者が、客体性において(つまり客体的存在者として)発見される。
(5)用具性の告別(上記①②③)において、用具的存在者の世界適合性が現れる!
E ①使用不可能な道具の「目立たしさ」、②手もとにない道具を求める「催促がましさ」、③「邪魔になる」用具的存在者の「煩わしさ」において、用具的存在者は、用具性を失っていく。
E-2 このとき、「非主題的にではあるが、すでに了解されていた」用具性が、いわば別れを告げにくる。
E-3 「この告別において、用具的存在者の世界適合性も現れる。」
《感想3》自明的親近性(familiarity, A.シュッツ)が失われて、つまり問題化して(problematic, A.シュッツ)、世界適合性、つまり、《用具的存在者が用具性において配慮的世界に適合している》ということが現れてくる。
(6)世界(※環境世界)は、用具性の告別(上記①②③)において、通示されてくる(※つまり主題化されてくる)が、いつもすでに非主題的に開示されている!
F 環境世界(※世界内存在にとって世界とは、環境世界だ)は、用具性の告別(上記①②③)において、通示されてくる。(※つまり主題化されてくる。)
F-2 だが環境世界は、いつもすでに(※非主題的に)開示されている。開示態(Ershlossenheit)!
F-3 「世界との親しみ」のなかで現存在は,われを忘れて内世界的に出会うものごとにたずさわる。
F-4「配視的配慮が世界の内部にある用具的存在者に接しうる」時、「いつもすでに世界があらかじめ開示されている」。
(7)まとめ:「現存在がこのように親しんでいる」世界とは、「配視」がそのなかで「動いて」いる「指示連関の全体性」のことである!
《感想4》「世界」(※環境世界)すなわち「指示連関の全体性」とは、「道具立て全体」に含まれる「多様な指示関係」1~9全体のことである。(第15節参照)