DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第16節 内世界的存在者において通示される、環境世界の世界適合性」

2019-04-24 19:53:27 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(1)配慮的な世界内存在に、内世界的存在者が出会い、それと同時になにか世界というものも現れてくる!
A 「世界そのものは、世界の内部にある存在者の一つでない。」(ハイデガー)

《感想1》私見では、現存在はモナドであり、世界だ。この限りで現存在は存在者でない。(以上、イデガーの現存在概念①)
《感想1ー2》だがハイデガーは同時に、「現存在という存在者」と明確に言う。これは、物である身体に引き寄せられた現存在だ。(以上、ハイデガーの現存在概念②)

A-2 「世界」はこれらの「内世界的存在者」を規定していて・・・・それら「内世界的存在者」が現れてきたりすることができるのも、実はひとえに「世界が『与えられている』」からなのである。
A-3 「現存在は世界の了解を・・・・前存在論的な了解ではあるが、もっている」。

《感想2》「了解」とは、私見では、日常用語における《意識》することに相当する。《意識》するとは、モナド(超越論的主観性)において、常にノエシスとノエマの分裂が起きているということだ。なおノエシスは、《関心》と《注視》からなる。

A-4 「配慮的な世界内存在に、内世界的存在者が出会い、したがってそれの内世界性が現れてくるとともに、それと同時になにか世界というものも現れてくる」。

(2)内世界的なものの世界適合性(die Weltmässigkeit)を表立たせる配慮の諸様態①:使用不可能な道具の「目立たしさ」!
B 工作道具が破損しているとか、材料が駄目だとかいう場合、道具は使用不可能となり、役に立たないもの、「不用具性」において「目立たしさ」を示すようになる。
Bー2 使用不可能な道具には、「単純な客体性」がきざしてくる。

(3)内世界的なものの世界適合性を表立たせる配慮の諸様態②:手もとにない道具を求める「催促がましさ」!
C 道具の不在の発見。手もとにないもの(※道具)に気がつくと、手もとにあるものは「催促がましさ」の様相を帯び、「用具性」を失う。その用具的存在者(手もとにあるもの)は、配慮の欠如的様態である客体性において(つまり客体的存在者として)発見される。

(4)内世界的なものの世界適合性を表立たせる配慮の諸様態③:「邪魔になる」用具的存在者の「煩わしさ」!
D 配慮の「邪魔になるという意味での不用具的なもの」の「煩わしさ」。(Ex.場違いなもの、尚早なもの)用具的存在者が、客体性において(つまり客体的存在者として)発見される。

(5)用具性の告別(上記①②③)において、用具的存在者の世界適合性が現れる!
E ①使用不可能な道具の「目立たしさ」、②手もとにない道具を求める「催促がましさ」、③「邪魔になる」用具的存在者の「煩わしさ」において、用具的存在者は、用具性を失っていく。
E-2 このとき、「非主題的にではあるが、すでに了解されていた」用具性が、いわば別れを告げにくる。
E-3 「この告別において、用具的存在者の世界適合性も現れる。」

《感想3》自明的親近性(familiarity, A.シュッツ)が失われて、つまり問題化して(problematic, A.シュッツ)、世界適合性、つまり、《用具的存在者が用具性において配慮的世界に適合している》ということが現れてくる。

(6)世界(※環境世界)は、用具性の告別(上記①②③)において、通示されてくる(※つまり主題化されてくる)が、いつもすでに非主題的に開示されている!
F 環境世界(※世界内存在にとって世界とは、環境世界だ)は、用具性の告別(上記①②③)において、通示されてくる。(※つまり主題化されてくる。)
F-2 だが環境世界は、いつもすでに(※非主題的に)開示されている。開示態(Ershlossenheit)!
F-3 「世界との親しみ」のなかで現存在は,われを忘れて内世界的に出会うものごとにたずさわる。
F-4「配視的配慮が世界の内部にある用具的存在者に接しうる」時、「いつもすでに世界があらかじめ開示されている」。

(7)まとめ:「現存在がこのように親しんでいる」世界とは、「配視」がそのなかで「動いて」いる「指示連関の全体性」のことである!

《感想4》「世界」(※環境世界)すなわち「指示連関の全体性」とは、「道具立て全体」に含まれる「多様な指示関係」1~9全体のことである。(第15節参照)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小妖精へのお礼」『イギリス民話集』岩波文庫:①妖精と人間の思考回路が違う!&②「以心伝心」はむずかしい! 

2019-04-24 13:54:23 | 日記
 「小妖精へのお礼」 "Presents to a small fairy"

ある日、農夫が朝、仕事に出かけた。 One day, a farmer went to work in the morning.
しかし、彼は驚いた。誰かが仕事を終わらせていた。 However, he was surprised because someone had finished the work.
小麦の穂がすべて脱穀されていた。 All ears of wheat had been threshed.
これが毎日、起きた。 This happened every day.
農夫は何が起きるか見るため、一晩中、片隅に隠れていた。 Through night, the farmer hid himself in a corner to watch what happened.
彼は、小妖精ピクシーが小麦の穂を脱穀するのを見た。 He saw a small fairy, Pixy, thresh ears of wheat.
しかし小妖精は、汚れて破れた服を着ていた。 But Pixy wore dirty torn clothes.
そこで農夫はピクシーに新しく綺麗な服をお礼として渡そうと思った。 Then, the farmer wanted to give Pixy new beautiful ones as presents.
彼は密かに、服をピクシーが現れる場所に置いた。 He secretly laid them at the place where Pixy appeared.
夜、ピクシーが服を見つけて、言った。「新しい服が手にはいった今、もう働かなくていいや。」 At night, Pixy found them, and said, "Now I have gotten beautiful clothes, I don't need too work anymone."
その後、麦の穂が脱穀されることはなかった。 After that, ears of wheat were never threshed.

《感想1》妖精の思考回路は、人間に推し量りがたい。新しい綺麗な服が、仕事に対する農夫のお礼だと、妖精は思わなかった。「十人十色(トイロ)」の妖精版だ。
《感想2》人間同士でも、一方の意図を、他方に理解させるのは難しい。「魚心あれば水心」、「以心伝心」とは、なかなかいかない。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第15節 環境世界のなかで出会う存在者の存在」(その4)

2019-04-24 11:30:07 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(8)「指示関係」(その6):「着用者や利用者への指示」(この指示が「作品」のうちに含まれる)!
M 「製作された作品」(「製品」Ex. 服)のうちに「着用者や利用者への指示」が含まれる。(手工業段階では着用者や利用者は具体的だ。)既製品の製造では、「不特定」「任意」「並み(※平均的)」の人々への指示が含まれる。

(8)-2 「指示関係」(その7):「作品」とともに「現存在というありかたをする存在者」とも出会う!
M-2 かくて「作品」とともに出会うのは「用具的に存在している存在者」だけではなく「現存在というありかたをする存在者」とも出会う。「製作されたものは、彼(※現存在というありかたをする存在者)の配慮において彼の用に具わる。」

《感想2》ハイデガーにとって現存在(モナド)の複数性は前提だ。だがどのように現存在(モナド)同士が出会うのか?モナドの独我論的解釈から、どのように逃れるのか?現存在(モナド)の複数性の根拠は何か?いわゆる他我問題はどう解かれるのか?
《感想2-2》私見では、モナドは広義の心、超越論的主観性(超越論的意識)であり、かつ感覚においてモナドのうちに物そのものが出現する。モナドは(つまり物世界も含む)宇宙・世界だ。モナドの外、超越、物自体はない!

(8)-3 「指示関係」(その8):「作品」(「製品」)は「公開的世界」の中での用具的存在者だ!
M-3 かくて「作品」(「製品」)は「着用者や消費者がその内で生活している世界」、「われわれの世界である世界」、「公開的世界」(die öffentliche Welt)の中での「用具的存在者」だ。

(8)-4 「指示関係」(その9):(「作品」が指示する)公開的世界とともに、「環境的自然」が発見される!
M-4 「公開的世界とともに環境的自然(Umweltnatur)が発見されて、だれでもが接しうるものになっている。」
M-5 「環境的自然」の諸例:(a)道路・橋・建物などにおいて「配慮が特定の方面から発見している」自然、(b)屋根において考慮に入れられている「悪天候」、(c)時計において計算された「宇宙系における一定の星位」等々。

(9)「用具性」:「単純な客体性に対する用具性の根源性」
N 「作品(すなわちそれの構成的指示関係)において引き合いに出される・・・・内世界的存在者(※上記の指示関係その1-9)」はいつでも「発見可能」である。
N-2 これら「内世界的存在者」の存在様相は「用具性」である。
O 存在者がまず「客体的存在者」として存在し、それに「用具性」という「形容」(《Aspecte》)を押し付けるor「主観的に彩る」のでない。
O-2 「(※覚知的な)認識は・・・・世界内存在の、もとづけられた(※根源的でない)様態である。」
O-3  「配慮(Besorgen)において具わっている用具的存在者を通過したあとではじめて、認識が、ただ客体的に存在するだけのもの(※客体的存在者)を開発する方向へ進む」。
O-4 「『用具性』は、それ『自体において』あるがままの存在者にそなわる存在論的=カテゴリー的規定である。」

《感想3》「内世界的存在者」のうちに、ハイデガーは「現存在というありかたをする存在者」も含める。ハイデガーは、現存在を、一方でモナド(広義の心or超越論的主観性(超越論的意識)or(物世界も含む)宇宙・世界)とみなすとともに、他方でモナドのうちに出現する(物としての)身体ともみなしている。

(10)内世界的存在者(※上記の指示関係その1-9)を解釈する場合に、いつもはじめから「前提され」てしまっている「世界」!
P 「世界は、われわれがこれらの内世界的存在者(※上記の指示関係その1-9)を解釈する場合に、いつもはじめから『前提され』て」しまっている。
P-2 「これらの(※内世界的)存在者を寄せあつめても、その総和として『世界』というようなものが出てくるわけではない。」
P-3 「これらの(※内世界的)存在者から世界現象の挙示へ通ずる道はひらけているのであろうか。」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする