懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

「白鳥の湖」&「スパルタクス」、芸術性と娯楽性

2012-02-06 02:57:52 | バレエ
バレエ「スパ」の感想書こうと思ったけど、既に「白鳥の湖」上演に。

今回のグリゴローヴィチ振付「白鳥の湖」('01年改訂版)について、日本初演の'08年前回ボリショイバレエ来日公演、良くも悪くも、ちょっと話題になった。私もバレエ友達たちに、2,3質問を受けた。

一つには、「この作品の終幕は、どういう意味なのか?。夢から覚めたのか?王子が絶望して終わる悲劇なのか?」

もう一つは、別の友人から、 「あの悪魔の、途中でのこの行動は、どういうことなの?」と、劇の進行上での、具体的な質問。

【今年の上演】
私は日本ツアーの後半に「白鳥」を観に行くので、状況分らないが、今回のダンサーは、前回と同様の上演でなく、踊り手が、作品の真意を知らずに踊る可能性もあるので、今回のキャッチコピー通り「永遠の古典」として、娯楽として見るのも一興。

(高度で哲学的な芸術としても、或いは上質のエンターティメントとしても、楽しめるのは、グリゴロ作品の幅の広さ。スパも、今回は、冷戦時代等のソ連の絶対的な英雄像、V.ワシリエフの形象とは異なる、現代青年の葛藤を描けていて、面白く見た。)

しかし、中には、「なぜあの終わり方なの?」と疑問を持つ方もあると思う。それで、作品の内容について、知ってる事を書いておきたい。

【白鳥の湖の真意】
いちばん簡単に言うと、人が大人になる、という、苦い成熟を示唆した物語。

★上述の、友人の質問を引用すると、
・最後は、、「全部王子の夢だった」は、間違い。
・夢オチ⇒間違い。

また、「最後は王子が絶望して終わる悲劇」というのも、作品の真意上は、正しくない。

【白鳥姫】まず、この作品は、リアリスティックな話ではなく、シンボリック、象徴的な作品。
通常の白鳥姫は、生身の女性だが、この作品ではそうでなく、王子(=青年)の心の中の像。

(幻影、と言ったら、身も蓋もない?。)
だから、この話は、リアリスティックな王子と姫の2者の恋愛ドラマでは、ない。

【悪魔】悪の権化ではなく、王子を悟りに導く存在。と言えば、いちばんはっきりする、かな。王子を覚醒に導く存在。

・1場は、いつも通りの白鳥の湖。
・2場、"湖のほとりの場"から、作品の構想が,色濃く反映。
まず、白鳥姫は、あたかも、ビデオテープの巻き戻しの如く、不自然で作為的な現れ方をしていなかったろうか。この辺りに演出意図が見てとれる。白鳥姫は、リアルな生身の女性というのとは、少し違う存在である、と。自然に出合ったのでなく、予め仕組まれた出会い、との暗示。

(ただし、全ては洗練され、スタイリッシュで上品な演出が光る。照明、装置もとても良かった。)

ハッピーエンドの改訂前の「白鳥」は、こうではなかった。そして、’01年悲劇版では、白鳥姫は、人形か何かのように、悪魔(換言すれば、運命の導き手)の企てで、王子(=青年)の前に現れる。

なぜ、悪魔はこうするのか?・・・(全部解説すると身も蓋もないけど、)
若い人に、まず、「理想」を伝える為、と言えば、あからさま過ぎるけど、分りやすくデフォルメすると、そんな感じ。
(そして次に黒鳥姫によって、「幻滅」を伝え、最後に悟りを開かせる、と言ったら、デフォルメしすぎかな。ここまで言わなきゃ分らない批評家はいるので、あえてデフォルメ説明。)

その前に登場する悪魔。王子の後ろに背後霊のように張り付いて、怪しげな動きをする。
あれは、夜道の痴漢ではありませんで。

'08年の時は、モスクワ初演キャストのウヴァーロフとコンビのベロゴロフツェフの悪魔は、腕を振り上げ、王子を操るような動きを示し(名古屋初日)、それに呼応するように、王子は、う~ん、くらくら~と、力なく意識がぼやけたような催眠術にかかる人、みたいな動きをしてた。

(蛇足ながら、入団歴の浅いシュピレフスキーの悪魔は、作品意図を深くは解説されてないらしく、もう少し普通の古典バレエの悪魔に近かった。王子のウヴァーロフが、それに合わせて多少雰囲気を変えていて、そういった個々の立場の差異による創造性も、面白く見た。)

と、2場・白鳥姫の場までは、白鳥姫とは、王子(若い男性)の,胸の内の理想の表象、そのものであることが示される。そして、それは、悪魔によって、用意された流れ。

・そして2幕1場のオディール。これは、欺瞞と誘惑に満ちた存在。(前回の公演パンフでは、少年が狡猾さや誘惑と闘い、青年として自立していく時に味わう、失望の象徴とも。)或いは、「オデットが,若い青年の女性観を映すのに対し、オディールは、成熟した男性の女性観を表す」、とも解説があった。

・結果から見れば、オデットもオディールも、悪魔(或いは運命の神?)が、青年に覚醒を促すために、悟りを開かせるために出会わせる、人生上の試練の材料みたいなもん。

(悪魔は、青年に教えたい事があって、彼に、まず理想への夢を最初に見せ、そうは言ってもなかなか非理想的な世界もある事を見せる。)

・そして終幕。(ネタばれします。未見で聞きたくない人いたら、以下はスルーを。)
定番通りになるか、と思わせておいて、肩透かしを食わせるように、理想を求めて闘う王子は、理想を手にできるか、と思ったら、いつもと違う音楽に。

私は2回見て、1回目は、白鳥姫が、悪魔に横抱きにされ、ゴロンと人形のように床にそのまま、転がされ、これで白鳥の死。明らかに、人間の死じゃない。血の出てない感じ。

そして王子が立ち尽くして終わった。

・別の公演日(皆が見た、東京初日)は、ホールが違ったせいか、勝てそうだと思ったのに、突然王子の目の前から、白鳥姫が忽然と消えたように見えた。紗幕の使い方と照明が、秀逸!
王子の心の世界を、そのまま見ているようだった。

王子は、膝を屈し、理想が失われた事を嘆き。それで幕。

あの、”肩透かし感”が、演出の上手さ素晴らしかった。勝利し理想を手に入れる事が出来ると信じた王子と、いつもの音楽でハッピーエンドの白鳥に慣れた観客の意識が重なる。

王子も、観客もまた、裏切られる。そこが、おとぎ話の古典バレエとは本質では違ってて、そこは良かった。そうはいっても、1回目の地方で見た演じ方の方が、作品の意図は伝わりやすかった。

私の見た2回目の公演、あれだと、理想の世界(或いはオデット姫)を失った王子が、絶望して終わったように、誤読されたお客様も、少なからずあったのでは?
やはり、この作品は、解説があった方がいい。

【結論】あの終幕は、「最後に理想の世界を取り返そうとして、(王子=青年)は闘うものの、最後には理想の世界を手に入れる事は出来ず、全てを受け入れて、現実の世界に残った」というもの。

※王子の絶望を表した作品ではなく、失意の後、そこから現実に向かう。ここがポイント。私が見事だと思ったのは、「現実を受け入れる」ことの大変さを分るから。

手法として、それを全部出さずに、観客にもショックを伝えて考えさせるような、終幕は、ブレヒト演劇の異化効果(幕切れで観客の感情に水を差し、気づきや覚醒を促す演出は幾つもある)を思わせた。ただ、とても上品に出来てる。だから分りにくいと思う。もっと分りやすい演出に変えると、あの上品さは失われる恐れがある。

オデットが死んだ事を、オデット姫と言う女性が死んだと解釈するのは観客の自由だけど、どちらかと言えば、シンボリックな作品なので、オデットを理想の表象と見て、

青年は理想を抱くけれど、現実は理想の通りにはならない。そして青年は、この、理想の失われた現実世界で、生きて行くのだ、と私は思った。
何という、苦い成熟!、と。

最初の友人の質問に戻ると、王子は絶望して終わるのではなく、最後には、理想の失われた、困難な現実を受け入れる事を示唆して終わるのが、本来の主旨。

とても現代的で、哲学的な、深い内容を持った、素晴らしい芸術と思います。
この構想を考案したグリゴローヴィチ、そして歴史的な初演第一キャストとして、見事な解釈を見せたウヴァーロフの知性には、脳天殴られるほど衝撃を受けましたが、ただ、ウヴァーロフ自身が、マスコミへのインタビューで、作品の意味する所まで、「お客様に伝わるかどうか」と、謙虚に伝わりにくさを語っていて、結果その通りになったと思います。

この、「白鳥」の真の主人公は王子で、その表現内容の示唆する所は、現代の私たちに通じるものであり、理想の失われた苦い現実を受け入れて生きていかなければならないのは、例えば、王子を演じたウヴァーロフの、今の現実でもありましょうし、彼と言う理想的ダンスールノーブル、理想的ステージアーティストを失って、東京文化会館の舞台に愛しい君の幻を見る、この私のリアル現実でもあるのですが。友人たちとは、話す時間が短く、尻切れで時間切れ。

普遍的な真実を描く、という意味では、色んな現実に当てはまっていく話だな~と、何かにつけ、私は感心するばかりです。

君の居ぬ、舞台に 君のまぼろしを見ぬ
私は、彼の演じたジークフリート王子のようには、まだ悟れない・・。

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