想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

他力で自力な猫たち

2010-10-14 02:15:09 | Weblog
この子の名はブチャ、ぶちゃいくだからブチャと名付けたが
ぶちゃいくはかわいいと同義語である。
だみ声で鳴いていたんだが、このごろはハハを真似て澄んだ
声になってきた。すこーしだけだが。

ごはんを食べ終わるとかならず、「びゃ~ん」という感じで鳴く。
みゃ~ん、ではない。びゃ~んびゃ~ん、だ。
そして舌なめずりしてハハからちょっと離れて陣取る。
ハハが見える範囲のところで、何度か鳴いてみる。
なに言ってんだろうな、とカメは観察している。

他力本願。
猫とカメの関係はそれである。
シマコはやさしくたよりなげに、みゃ~と声をかけて小走りにやってくる。
そうすればカメがかならず「おーシマコか、どうした」と立ち止まって
くれることを知っている。信じて疑わない。
疑われないカメは、その声に応える。決して裏切らずシマコに与え続け、
見守り続ける。シマコは時に気ままであるが、それもまた良しとして。

「わたし(ぼく)って他力本願なんです」
依存心、なんでもだれでも頼って自分を助けてもらおうとする人が
言い訳の代わりに口にするが‥。

ちゃうちゃう、ちゃうちゃうちゃーう(犬ではない)。
ノーである。他力本願って言うなってことである。
他力を頼ると間違えて使っている。
ツーカー、ってな感じ~とかごまかして使えない仏教用語なんである
から信仰心と無縁なところで使えば場違いである。
どこで覚えたんだろうね、でもみんなで渡れば恐くない方式で使われて
いることも事実である。コワイだろうに。

親鸞の教えであるところの他力は親鸞を研究する上で、また信仰する
立場においても最も重要な核を為す部分である。
解説書の類はたくさんあっても、本を読んで理解できることではない。
信仰という実践の場に身を置いて、己の本心と向き合わねばならない。

そして、いかに強欲でいかに保身が強く、他人よりも我先にと、ただ
助かりたい一心の生身の自分に気づくところがまず一歩目。
気づいた己を捨てることが次の一歩。
捨てられないから、捨てたり拾ったりしながら次また半歩下がり。



そうこうするうちに歳月が流れ、いかに愚かでもこうして生きてある
我と我が身の不思議。
そのゆるぎない事実を仏(阿弥陀如来)に感謝する気になれたら、
少しだけ保身から遠のいている。ほんの少しだが‥。
つまり我を助けてくださいと願っているうちは他力からは遠い。
他力も自力も一枚岩で、表裏一体の信じる力、信じる誠をさすのだから。

信じるゆえに理の流れにゆだねることもできよう、我は滅却し。
これを現世で生身でやるとどうなるか?
それは愉快で楽しい、活き活きとした日々だろうな。

「わたしって~他力本願なんですよね~」と言った君、君の信じる
ものは君でしょうが。
ならば、君自身に助けてもらえばいいんじゃないか?
そのていどの問題でしかなくて、幸いかな、いや本当に。
ギリギリ、崖っぷちで下で砕ける波頭を見下ろしながら、足を震わせて
いるわけではない何よりの証拠。
「わたしって~頼っちゃうクセなんですぅ」と言い換えたほうが正直だよ。

かわいい顔して、ぶちゃはその日その日がギリギリ真剣。ハハを真似て
少しづつ大人びていく育ちざかりだ。
冬までにもちょっと大人になってないとな、生きてゆけない森だかんな。






コメント
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