想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

我がためにあらず、あるべきようは

2010-01-29 03:04:52 | 
「真正の知識を求めて正路を聞かずんば、徒らに心の隙のみ費やして得道の
益あるべからず。
況や、生死速やかなり、後を期すべきにあらず、急ぎ正知識を求めて猶山深き
幽閑に閉じ籠りて修行せん」
とは、京都栂尾高山寺の明恵上人の言葉、十二歳にして思われたことである。


(雪の下には氷)

この気持ち、わたしは三十歳のとき、カメのもとへ入門を許された日の帰り道思った。
間に合わない、間に合わない、遅すぎる、とかなり焦った。
いままたこうして、仏教の入り口で学んだ明恵上人の文献を手にしていると、
あの頃のことが思い出される。

発心し、学ぼうと打ちこんでいくのと同時進行でわたしは世間の諸々についても知って
いった。それまで世間知らずでいたことが、発心に幸いしたのであると今では思う。
世の中を知っている、身過ぎ世過ぎに長けたような人は仏など求めないものなのだ。
ましてやカメが伝えるのは神道の奥義、神道には文献などないに等しい。あっても
旧事本紀大成経くらいで、それさえ読むには仏教の素養のみならず儒教も道教も
学ばねば理解できないのであった。
バカが幸いすることもある。なまじっかな小知恵などある者をカメは受け付けない。

仏教もまたカメに教わったのだが、自習用の手引きとなったのが明恵上人の
「あるべきやうわ」、あるべきようはは分相応とは似て非なること。
その微妙な違いを知るにはまず仏を求める心をさぐらねばならない。
僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきよう、帝王は帝王のあるべきよう、臣下は
臣下のあるべきよう、このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。
聖徳太子の十七条憲法の冒頭に通じる文言ではないか。
一切悪しきことにならぬように、あるべきようで生きるようにと諭されているので
あるが、あるべきようとは、私を滅すことに他ならないのではないか。

発心の行く先は、大慈大悲の心であるのだから、「私」などあっては何も始まらない。
されど、「私」以外のことに何の興味もない者ばかりが世にのさばってはばかって
いるなかで、「私」と「私の他」と「公」の区別が見えないゆえの悲惨が多い。
人殺し、死刑にせよ、償えといえば、それまた人一人が殺されることであると誰も
小さな声でだって言えないでいる。それを世間というのであると、子どもはいつ知る
のだろうかなあ。ならば知らないままに、アホなうちに発心せよ。
そのほうが救われるというものだ。強く生きることもできよう。

明恵上人は請われても栂尾の山から降りなかった。
高山寺の石水院の縁側で向かいのやまやまの緑と流れる雲をながめていたカメが
雲のあいまに座する上人を見たのだと、かたわらにいたわたしに語ってくれた日。
そんなこととはつゆ知らぬわたしは庭に茂る雑草を見ていた。
なんと変わった寺院であろうかと思いながら。
草が刈り込まれよく形成された庭ばかりの京都の寺にあって、初めて行をする処を
訪ねた気がしたものだったが、今、世界遺産ともなれば現在の様子はよくわからぬ。

いつになく冷え冷えとしたこの冬、森のなかで「急ぎ正知識を求めて」修行じゃ。
(我のためにあらず、を忘れぬように記す)

コメント
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