想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

自分のことだけを考えてはいけない

2009-02-13 09:26:45 | 
  この荒涼とした森にも、あとひと月もすれば春の陽に誘われた
  木や草の芽が頭をもたげてくる。
  春と言ってもこの森では小雪が舞う日が多い。
  決してぬるくはないこの場所で見る生命の営みに、
  「希望」の意味を知る。

  ある日突然、脳梗塞によって倒れ、半身不随と言語障害という
  後遺症に苦しめられることになったら……
  多田富雄氏の著書『寡黙なる巨人』を読んでいる。
  死の淵をさまよい、目覚めたら口もきけない手足を動かすこともままならない。
  それは絶望である。そこから文字通り起き上がり「回生」していく格闘の日々。
  こう一行で書いてしまうのはバチ当たりな気がして、ほんとうに気がひけるが
  今、健康なあなたに読むことをおすすめしたい、そう思う。
  今、病んでいるあなたは、当然、手にとられたいだろうから言うまでもない。
  
  父も同病に倒れた。
  その苦しみむ姿を見ながらわたしは育った。医学が進歩した今と当時は事情が
  違うのだが、患者本人と家族の苦しみに変わりはない。
  変わらなさすぎることは問題なのである。
  多田氏があまりに正直に赤裸々に書かれているので、当時を思い出さざるを
  えなかった。足が不自由になり体を支えられない父を、母はどこで借りたのか
  リヤカーに乗せ、病院へ通う駅まで運んでいた。
  わたしはそれを見るのが忍びなかった。恥ずかしさと悲しさが一緒になって
  胸の奥底を突いた。それは5,6年間のことだったが、もっと長かった気がする。

  医療の現場については、年長の友人の末期を看取ったので、その貧困ぶりは
  よく知っているつもりだった。同著の随所にある現状の報告を見て、あらためて
  背筋が寒くなった。他人事ではない。

  多田富雄氏がただものではないことは、白洲正子の対談集ですでに知っていた。
  能を通じて親交のあったおふたりである。
  能とは人の生死がテーマともいえる。
  そのただものではない人も、病人ともなれば、普通の人と同じく肩書きもなく
  患者の○○さんと呼ばれる病院という特殊な場所。そこはある意味、異界である。
  その異界から現世、娑婆に生還するため、いかに考えどのように格闘したか。
  わが身に起きなければとうていわかるまい、と思う。
  それをわかるように、これでもか、と書かれている。

  わが身の辛さ苦しさも想像を絶するが、それをまた書くという事は二重の辛苦で
  あるはずだ。いや、書かずに死ねるかでもあろうが、大変なことである。
  左手、指一本でワープロを打つ。それを想像すると恐ろしい。
  ブラインドタッチなんて先日言っていたうさこ、同じ状況で果たして書けるか?
  と考え込んでしまう。
  しかし、タイトルの寡黙な巨人、本を読むまでは巨人とは何のことだろうと思って
  (そのうち読むつもりで)いたが、それがわかってくるにつれて、書かれた意味の
  大きさを改めて感じている。
 
 

  「私はどうなるかわからないが、世界の問題はずっと続いている。
  自分のことだけを考えてはいけない。」(同著p69)

  この一文、この人が「ただの患者」ではないことの証明である。
  多田氏のように回生することなく、病院のベッドで長患いのまま逝った父はただの
  一患者で終わったが、かわりにその姿を晒してアホな娘の根性を叩いてくれた。
  そのことなくして、私が人として生きる力を求めようとすることもなかったと思う。

  終章に、その後巨人がどうなったか、詳細に綴られている。
  「こうして私の中に生まれた「巨人」は、いつの間にか、政府と渡り合うまで育って
  くれた。」(同著p242)
  人はそれぞれの環境で生きるしかない。
  だが、そこからいかに生きるかは人しだいである。
  敬服し、耳を垂れ、耳を立て、うさぎももっと跳ねようと思った。


   
コメント
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