ところで、「なるダバ、ならないダバ」はアニメの「ミンキーモモ」からのパクリであるのだが、あの王様と王妃様は、あの身長差で、どーゆーセックスをしてたんだろうかとかなんて事は良い子は想像もしてもいけません。
妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるるわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし。
<口語訳>
妻というものこそ、男の持つべきでないものだよ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくいよ、「だれそれの婿になった」とも、また、「いかなる女を取り据えて、相住む」など聞いたらば、無下に心劣りさせられるわざだ。殊なる事ない女を良しと思い定めてこそ添い居てると、いやしくも推し測られ、よい女ならば、(この男を)労多いと、わが仏と守り居たる。たとえば、そればかりにこそと覚えるはず。まして、家の内を行い治める女、いと口惜しい。子など出来て、かしづき愛する、心憂う。男なくなって後、尼になって年寄るありさま、(男が)亡き跡まであさましい。
いかなる女なりとも、明け暮れ添い見るには、とても心つかなく、憎くないか。女のためも、はんぱにこそならないか。よそから時々通い住むこそ、年月経ても絶えない仲らいともならぬか。あからさまに来て、泊り居などするは、珍らしいはず。
<意訳>
妻なんか、男が持つべきものでないよ。
「いつまでも独り者で」
なんて言ってるのこそ、男は心にくいよ。
「だれそれの婿になった」
「いかなる女を迎えて、いま一緒に住んでいる」
などと聞くと、その男が馬鹿に思える。
妻なんか持てば、たいした事のない女と一緒になったと周囲から推し測られる。相手が良い女なら男の苦労を我が苦労として家を守る。女は、それが全てだと錯覚してしまう。まして、家を守る女は口惜しい。子が出来れば、かしづいて子を愛し、夫が亡くなれば、尼となり年をとる。
男は死んでもあさましい。
いかなる女だろうが、毎日見ていれば見慣れてつまらなくなる。
女のためにも、そんなのは半端ではないだろうか。
よそから時々通い住むのこそ、年月経ても絶えない仲とならないか。あからさまに来て一泊して帰るのなんか女にとっても面白いはずだ。
<感想>
兼行は死ぬまで独り者だったので、そういう色眼鏡で見られやすく誤解されやすい。しかし、この段で兼行が言いたかった事は<意訳>のような内容ではないかと俺は思う。
ただし、俺自身は「夫婦」は子供を育てる最小単位だと理解している。結婚は契約だ。
だが言えるのは、この段は、兼行の単なる結婚への感想などではない。また、通い婚への讃歌などでもない。
この段はただの「妻」となってしまった「女」達への「独身男性」からの同情だ。
原作 兼好法師
いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし。
<口語訳>
妻というものこそ、男の持つべきでないものだよ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくいよ、「だれそれの婿になった」とも、また、「いかなる女を取り据えて、相住む」など聞いたらば、無下に心劣りさせられるわざだ。殊なる事ない女を良しと思い定めてこそ添い居てると、いやしくも推し測られ、よい女ならば、(この男を)労多いと、わが仏と守り居たる。たとえば、そればかりにこそと覚えるはず。まして、家の内を行い治める女、いと口惜しい。子など出来て、かしづき愛する、心憂う。男なくなって後、尼になって年寄るありさま、(男が)亡き跡まであさましい。
いかなる女なりとも、明け暮れ添い見るには、とても心つかなく、憎くないか。女のためも、はんぱにこそならないか。よそから時々通い住むこそ、年月経ても絶えない仲らいともならぬか。あからさまに来て、泊り居などするは、珍らしいはず。
<意訳>
妻なんか、男が持つべきものでないよ。
「いつまでも独り者で」
なんて言ってるのこそ、男は心にくいよ。
「だれそれの婿になった」
「いかなる女を迎えて、いま一緒に住んでいる」
などと聞くと、その男が馬鹿に思える。
妻なんか持てば、たいした事のない女と一緒になったと周囲から推し測られる。相手が良い女なら男の苦労を我が苦労として家を守る。女は、それが全てだと錯覚してしまう。まして、家を守る女は口惜しい。子が出来れば、かしづいて子を愛し、夫が亡くなれば、尼となり年をとる。
男は死んでもあさましい。
いかなる女だろうが、毎日見ていれば見慣れてつまらなくなる。
女のためにも、そんなのは半端ではないだろうか。
よそから時々通い住むのこそ、年月経ても絶えない仲とならないか。あからさまに来て一泊して帰るのなんか女にとっても面白いはずだ。
<感想>
兼行は死ぬまで独り者だったので、そういう色眼鏡で見られやすく誤解されやすい。しかし、この段で兼行が言いたかった事は<意訳>のような内容ではないかと俺は思う。
ただし、俺自身は「夫婦」は子供を育てる最小単位だと理解している。結婚は契約だ。
だが言えるのは、この段は、兼行の単なる結婚への感想などではない。また、通い婚への讃歌などでもない。
この段はただの「妻」となってしまった「女」達への「独身男性」からの同情だ。
原作 兼好法師
今朝は晴れて風もない。風が吹いていないと少し暖かく感じる。朝の中央線は以外に混んでいて、ぼやぼやしているとシートに座れなくなる。今朝は眠くてぼやぼやしていたら座れなかった。