城陸奥守泰盛は、双なき馬乗りなりけり。馬を引き出させけるに、足を揃へて閾をゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり」とて、鞍を置き換へさせけり。また、足を伸べて閾に蹴当てぬれば、「これは鈍くして、過ちあるべし」とて、乗らざりけり。
道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。(185段)
吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、先づよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に、轡・鞍の具に危き事やあると見て、心に懸る事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ秘蔵の事なり」と申しき。(186段)
万の道の人、たとひ不堪なりといへども、堪能の非家の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛みなく慎みて軽々しくせぬと、偏へに自由なるとの等しからぬなり。
芸能・所作のみにあらず、大方の振舞・心遣ひも、愚かにして慎めるは、得の本なり。巧みにして欲しきままなるは、失の本なり。(187段)
<口語訳>
城陸奥守泰盛は、双なき馬乗りだった。馬を引き出させるに、足を揃えて閾をゆらりと超えるを見ては、「これは勇める馬だ」と言って、鞍を置き換えさせた。また、足を伸べて閾に蹴当てれば、「これは鈍くして、過ちあるはず」と言って、乗らなかった。
道を知らなき人、こればかり恐れないか。
吉田と申す馬乗りの申しますは、「馬ごとにこわきものだ。人の力争うべきもないと知るべき。乗るべきの馬を、まずよく見て、強い所、弱い所を知るべき。次に、くつわや鞍の具に危うい事あるかと見て、心に懸かる事あれば、その馬を馳すべきでない。この用意を忘れないのを馬乗りと申すのだ。これ秘蔵の事である」と申した。
万の道の人、たとえ不堪だといえども、堪能の非家の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛みなく慎んで軽々しくせぬと、偏に自由なのとは等しくないのだ。
芸能・所作のみにあらず、大方の振舞・心つかいも、愚かにして慎むは、得のもとだ。巧みにして欲しいままなのは、失のもとだ。
<意訳>
陸奥守泰盛は、比類ない馬乗りだった。
厩から馬を引き出させる時に、足をそろえて厩の敷居ををゆらりと超える馬を見て、「これは勇み馬だ」と言って、鞍を置き換えさせた。
次の馬が足を伸ばして敷居にひずめを蹴当てれば、「この馬は鈍くて、怪我するかもしれない」と言って、乗らなかった。
乗馬の道を知らない人は、こんなにも恐れないだろう。
吉田という馬乗りの言う事には、
「馬はどの馬も手強く、人の力など馬にかなうはずもないと知るべきだ。乗る馬を、まずはよく見て、長所や短所を知れ。次に、くつわや鞍などの馬具に危険はないかと見て、心にかかる事あるなら馬を走らせるべきでない。この用意を忘れない者を馬乗りと言う。これが秘訣だ。」
たとえ下手であってもその道の人が、上手な他の道の人と並んだ時に必ず勝つ事がある。
それは、これが自分の生きる道とゆるみなく慎んで軽々しくしてしまわない心がけである。いくら上手くても勝手気ままにやる他の道の人とはそこが違う。
作品や発表、挙動として現れるものだけでない、ちょっとした振舞や心づかいにしても自分が至らないとして慎むのなら成功する。上手いからと好き勝手にやるのは、失敗のもとである。
<感想>
ところで、徒然草には「第何段」とか章段分けがなされているが、これは江戸時代の人が読みやすいように任意に章段に分けたものである。兼行の書いた『徒然草』に実は章段はない。最初から最後までダラダラと文章が続いているだけなのだ。兼行自身も一度だって自分が第何段を執筆中という意識はなかっただろう。
「第何段」とかいうのは、作者である兼行にはあずかり知らぬ事なのである。だが「第何段」と章段分けする事によって『徒然草』はグンと読みやすく学習しやすくなった。
章段分けがなければ、みんなで読み合わせて勉強しようにも、『徒然草』の真ん中すぎたあたりの馬が登場する辺り。とか、ひどくあいまいにしか場所を示せない。しかし「第185段」と言えば、みんなすぐに同じ所を開ける。
このように章段に分けられているとなにかと便利なので、江戸時代に分けられた章段をそのまんま現代でも利用しているのである。
でも、しかし、章段分けはやっぱり作者である兼行の意図したところでは全くないという事を忘れてはいけない。事実、「つれづれなるままに」で有名な序段も、単独でなく、「いでやこの世に生れては」という第一段と連続して読むと、まったく印象が変わってしまう。
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆく よしなしことを、そこはかとなく 書きつくれば、あやしうこそ ものぐるほしけれ。
いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かめれ。~」
どうだろう、序段を単独で読むのよりテンポを感じないだろうか?
『徒然草』の章段分けはだいたい問題がない。こんなもんだろと思う。
しかし、時々、素人の俺が見てもここでぶったぎったらワケがわかんないだろと思うような章段分けも、たまに、ごくマレにある。
それが、この「185段」「186段」「187段」の3段だ。
この3段は、まとめてひとつの話として読める。なんでぶったぎるんだと思う。そこで、今夜は、しょせん素人の好き勝手で、怖いものなしに3段をあえてまとめてひとつにしてみた。
ところで、この3段を連続して読むと、兼行の言いたい事は、プロは素人が気にしないような細かい所まで気を配れるからプロなのだと言っている。多少、うまくてもトーシロは好き勝手やるので、そのうち失敗するとも兼行は言っているな。
うう、俺のやっている事は、兼行の言いつけに背いている。
俺は悪い子だ。
原作 兼好法師
道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。(185段)
吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、先づよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に、轡・鞍の具に危き事やあると見て、心に懸る事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ秘蔵の事なり」と申しき。(186段)
万の道の人、たとひ不堪なりといへども、堪能の非家の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛みなく慎みて軽々しくせぬと、偏へに自由なるとの等しからぬなり。
芸能・所作のみにあらず、大方の振舞・心遣ひも、愚かにして慎めるは、得の本なり。巧みにして欲しきままなるは、失の本なり。(187段)
<口語訳>
城陸奥守泰盛は、双なき馬乗りだった。馬を引き出させるに、足を揃えて閾をゆらりと超えるを見ては、「これは勇める馬だ」と言って、鞍を置き換えさせた。また、足を伸べて閾に蹴当てれば、「これは鈍くして、過ちあるはず」と言って、乗らなかった。
道を知らなき人、こればかり恐れないか。
吉田と申す馬乗りの申しますは、「馬ごとにこわきものだ。人の力争うべきもないと知るべき。乗るべきの馬を、まずよく見て、強い所、弱い所を知るべき。次に、くつわや鞍の具に危うい事あるかと見て、心に懸かる事あれば、その馬を馳すべきでない。この用意を忘れないのを馬乗りと申すのだ。これ秘蔵の事である」と申した。
万の道の人、たとえ不堪だといえども、堪能の非家の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛みなく慎んで軽々しくせぬと、偏に自由なのとは等しくないのだ。
芸能・所作のみにあらず、大方の振舞・心つかいも、愚かにして慎むは、得のもとだ。巧みにして欲しいままなのは、失のもとだ。
<意訳>
陸奥守泰盛は、比類ない馬乗りだった。
厩から馬を引き出させる時に、足をそろえて厩の敷居ををゆらりと超える馬を見て、「これは勇み馬だ」と言って、鞍を置き換えさせた。
次の馬が足を伸ばして敷居にひずめを蹴当てれば、「この馬は鈍くて、怪我するかもしれない」と言って、乗らなかった。
乗馬の道を知らない人は、こんなにも恐れないだろう。
吉田という馬乗りの言う事には、
「馬はどの馬も手強く、人の力など馬にかなうはずもないと知るべきだ。乗る馬を、まずはよく見て、長所や短所を知れ。次に、くつわや鞍などの馬具に危険はないかと見て、心にかかる事あるなら馬を走らせるべきでない。この用意を忘れない者を馬乗りと言う。これが秘訣だ。」
たとえ下手であってもその道の人が、上手な他の道の人と並んだ時に必ず勝つ事がある。
それは、これが自分の生きる道とゆるみなく慎んで軽々しくしてしまわない心がけである。いくら上手くても勝手気ままにやる他の道の人とはそこが違う。
作品や発表、挙動として現れるものだけでない、ちょっとした振舞や心づかいにしても自分が至らないとして慎むのなら成功する。上手いからと好き勝手にやるのは、失敗のもとである。
<感想>
ところで、徒然草には「第何段」とか章段分けがなされているが、これは江戸時代の人が読みやすいように任意に章段に分けたものである。兼行の書いた『徒然草』に実は章段はない。最初から最後までダラダラと文章が続いているだけなのだ。兼行自身も一度だって自分が第何段を執筆中という意識はなかっただろう。
「第何段」とかいうのは、作者である兼行にはあずかり知らぬ事なのである。だが「第何段」と章段分けする事によって『徒然草』はグンと読みやすく学習しやすくなった。
章段分けがなければ、みんなで読み合わせて勉強しようにも、『徒然草』の真ん中すぎたあたりの馬が登場する辺り。とか、ひどくあいまいにしか場所を示せない。しかし「第185段」と言えば、みんなすぐに同じ所を開ける。
このように章段に分けられているとなにかと便利なので、江戸時代に分けられた章段をそのまんま現代でも利用しているのである。
でも、しかし、章段分けはやっぱり作者である兼行の意図したところでは全くないという事を忘れてはいけない。事実、「つれづれなるままに」で有名な序段も、単独でなく、「いでやこの世に生れては」という第一段と連続して読むと、まったく印象が変わってしまう。
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆく よしなしことを、そこはかとなく 書きつくれば、あやしうこそ ものぐるほしけれ。
いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かめれ。~」
どうだろう、序段を単独で読むのよりテンポを感じないだろうか?
『徒然草』の章段分けはだいたい問題がない。こんなもんだろと思う。
しかし、時々、素人の俺が見てもここでぶったぎったらワケがわかんないだろと思うような章段分けも、たまに、ごくマレにある。
それが、この「185段」「186段」「187段」の3段だ。
この3段は、まとめてひとつの話として読める。なんでぶったぎるんだと思う。そこで、今夜は、しょせん素人の好き勝手で、怖いものなしに3段をあえてまとめてひとつにしてみた。
ところで、この3段を連続して読むと、兼行の言いたい事は、プロは素人が気にしないような細かい所まで気を配れるからプロなのだと言っている。多少、うまくてもトーシロは好き勝手やるので、そのうち失敗するとも兼行は言っているな。
うう、俺のやっている事は、兼行の言いつけに背いている。
俺は悪い子だ。
原作 兼好法師