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映画・演劇のレビュー

『菊とギロチン』

2018-08-02 19:47:13 | 映画

7月が怒濤の忙しさで、なんと月初めの2本と月末の2本、計4本しか映画を見ることが出来なかった。(この映画を見るまでは、なんと4週間、1本も劇場で映画を見ていない!)こんなこと、この30年くらい1度もなかったことだろう。もちろん、まるで時間がなかったわけではなく、映画を見る気力がなかったこともある。体力もなかったし。毎日しんどくて、仕事が終わったら一刻も早く家に帰って寝たい、と思った。完全に疲れ切っていた。いろんな意味で。

 

でもこれだけは絶対に劇場で見たかったので、なんとか時間を作った。数週間振りで1日休みを取った。(僕たちの仕事はふだん土日も休めないからね)ついに見た、って感じだ。3時間越えの超大作である。瀬々敬久監督、渾身の執念の一作。構想30年、ようやく実現した作品だ。これは凄い映画である。まず、そのことを大前提にして話を始めたい。

 

こういう企画には、誰もお金を出さないから、彼は自主製作でこんな大作を作り上げた。『ヘブンズ・ストーリー』もそうだった。ただ、今回は特に時代劇でもあるから難しいし、お金がかかる。だけど貧乏くさい映画になったら、意味はない。だからちゃんと時代考証も含めてやり遂げる。時間とお金がかかってもそこをお座なりには出来ない。だからここにはとんでもない困難が待ち受けていたはずだ。だけど、それを乗り越えて映画は完成した。

 

大正の終わり、ギロチン社というテロリスト集団。でも、彼らのしていることは実にしょうもないことばかり。そんなこのおバカな集団が女相撲と出会う。この組み合わせがなんだかよくわからないけど、凄いとしかいいようがない。これは女相撲の世界を描いた初めての映画でもある。そんなものが1963年まで存在したのだ。際物の見世物興行でしかない、という大方の予想を裏切って彼女たちの姿は真剣そのもので、その圧倒的な迫力に魅了される。もちろん、僕たち観客だけでなく、この映画の主人公であるギロチン社の面々が、である。

 

映画は女相撲のシーンから始まり、その取り組みを丹念に見せる。そこに関東大震災。ここから始まり、狭いエリアを映画の舞台にして、世界を変える野望を持つはずのテロリストたちの無謀な行為と、着実に生きている女相撲の面々の姿が交錯して描かれていく。相撲のシーンを長い時間かけて見せてくれたのもよかった。彼女たちの本気が、その取り組みを通して確かに伝わってくる。圧巻だ。それが映画の導入になる。女たちには帰るところがない。だからここに踏みとどまり、必死に生きている。ギロチン社の面々のようなおふざけ半分ではない。(もちろん、彼らも彼らなりに本気なのだが)

 

瀬々監督は『64』で昭和の終わりを描いた直後、満を持してこの映画を手掛けたようだ。この映画の自由自在さは、もう後がないという瀬々敬久の覚悟を感じさせる。それはこの映画の主人公たちの姿とも重なる。海岸でダンスを踊るおおらかな姿を描くシーンが素晴らしい。この瞬間彼らはいろんなものから解放されている。

 

大正の終わりを描くこの映画は平成が終わる今の時代と重なるものがある。何かが終わって、その先に何が起こるのか。歴史は繰り返される.その先を見据えろ、とこの映画は問いかける。そこに見えてくるものから目をそらすな、とも。瀬々監督が今放つ渾身の一打は僕たちの胸に突き刺さる。これは今年一番の傑作である。

 

 


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