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映画・演劇のレビュー

赤星マサノリ×坂口修一『東京物語』

2016-02-08 21:09:42 | 演劇

昔、映画は心にずっと残って忘れられないものだった。しかし、今の映画は日々消費されていくものになり下がった。こんなにもたくさんの映画が作られているのに、それが残っていかない。時代のイコンにもならない。情報の圧倒的な量の前でひとつひとつの映画はただの情報になり全く意味のないファーストフードと化していく。

 

1980年代に書かれた竹内銃一郎の戯曲『東京物語』は、明らかにヘクトール・バベンコの『蜘蛛女のキス』にインスパイアされた作品だ。お話もそのまま踏襲されている。ただ語られる劇中の映画が小津安二郎の傑作『東京物語』に置き換えられる。だから、タイトルはこの通り。作品のかなりの部分を担うのはオカマのオリーブの語る『東京物語』のストーリーだ。ことさら『東京物語』である意味はない。たまたま今夜語り始めた映画がそうであっただけだ。だが、このお芝居のかなりの部分はあの映画が担う。まるであの映画を見ているような気分にさせられる。坂口修一の語りは見事だ。語りながら、同時に描かれる脱獄劇は、現実の脱獄のように思われたのに、だんだん妄想の中の出来事となる。『東京物語』が現実で脱獄が妄想へと。もちろん、すべてはお話でしかない。彼らは囚人で、檻の中から出られることはない。

 

ポール・ニューマンの『暴力脱獄』より僕はやはり『大脱走』のほうが好きだな、なんてそんなことを思いながら見る。『アラビアのロレンス』よりも『風とライオン』。ここに描かれる映画は名作ばかりだ。いや、ジョン・ミリアスの『風とライオン』は名作か? 地味な選択すぎる。それは文句なしのセツコ・ハラの『東京物語』に至るための布石ではない。たまたまこれが書かれた87年の映画でしかないのかもしれない。直接の引用ではないけどジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』もそうだ。竹内さんはなんと『風とライオン』を見ていないというではないか。(芝居の後のアクタートークで告白された!)『東京物語』の50年代と、80年代の違いは映画がもう王様ではないということなのだが、それでも、今と較べればまだまだ映画はあこがれであった時代だ。そんな時代が背景となっている。

 

革命家ブレーキ(赤星)とオカマのオリーブの逃走劇は、夢と現実のはざまで、明らかに夢見るしかない彼らの現実を描く。閉ざされた空間で見る夢。ふたりの掛け合いがこの作品を心地よいものにする。痛みよりもこのまどろみの気分が前面に出る作品になった。演出の笠井さんは、理詰めではなく、彼らの個性を生かして、この作品を作る。彼らを乗せて、僕たち観客も乗せて、夢の世界に導く。だが、それは閉塞された21世紀の今を象徴する。彼らも僕たちもこの檻の中にいるだけなのかもしれない。そこで、何も考えずまどろむばかりだ。考えないようになると人間は死ぬ。僕らはもう静かに死んでいくだけなのか。

 

そんなこんなを考えながら、芝居を見たのではない。なんとなく、そんなことを考えさせられただけだ。坂口さんと赤星さんはこの作品のどこに心惹かれたのか。映画という記憶装置は牢獄という閉鎖空間をどこまでも広げていく。だが出口のない場所で夢見ることは寂しい。


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