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映画・演劇のレビュー

中沢けい『楽隊のうさぎ』

2014-10-21 22:32:42 | その他
 先日、安藤尋監督の『海を感じる時』を見て、感じた違和感はなんだろうか、とその事が気になっていた。原作である中沢けいの小説を読んだ時の気分にも似ている、と思った。原作を読んだのは、今から30年以上前の話だ。そんな昔のことをどうして憶えているのか、というと、あのざらざらした気分がとても不快だったからだ。こんな小説、きらい、と思った。まだ10代の頃で、主人公の男女が自分と同世代、同じ時代を生きているということが、こんなにも不快だった。自分の高校生活と彼らの生活は重ならない。彼らが大人で、自分が子供だ、と思ったことが実は大きい。しかも、それがセックスの有無、というなんとも下世話なところから来ていることを、認めたくはないものの、うすうす感じていた。こんな小説はきらい。そう拒否することで、自分を保つ。20前後の頃の、傲慢。

 そんなことを、映画を見ながら思い出していたのかもしれない。これは今、もう一度、中沢けいを読まなくては、と思った。初期の作品は読んでいるけど、やはり好きになれないまま、もう30年くらいは読んでない。だから、どれを読んでもよかった。だけど、できることなら読みやすそうなものを、と思った。『海を感じる時』を30数年振りで読み返してもいいいのだけど、それでまた不快になるのはお断りだから、やめる。そこで手にしたのが昨年映画化されたこの作品だ。中学の吹奏楽部を舞台にした青春小説、というパッケージングが気に入った。よみやすそうだ、という理由と、見逃した鈴木卓爾の映画も気になるから。まず、この原作を先に読もう、と思った。

 読み始めて、あぁ、この感じか、と思った。これは近年損なわれてしまった「純文学」の香りだ。現代の小説はこの香り高さを失っている。読者におもねるようなものか、読者を相手にしない傲慢さ。その両極端に分かれる。しかし、昔はそうではなかったはずだ。小説に必要なものは、読みやすさではない。もっと高い志が必要なのだ。中沢けいの小説にはそれがある。

 中学生を主人公にしながら、実に暗い。小学生からいきなり中学生になったとまどいの中、ひっそりと目立つことなく、息を潜めて生きようとする主人公の少年の気持ちが行間からひしひしと伝わってくる。それは孤独とか不安とかいうわかりやすいことばにはならない。学校に少しでも短くいたい。できるだけ遅く入って、早く帰る。学校が嫌いだから、ではない。人が怖いからだ。でも、避けることはできない。じゃぁ、そうするしかないではないか、ということだ。もちろん、そんなこと、誰にも言わない。心に秘めたままだ。だって、なぜそう思うかを、説明できないからだ。いじめられている、わけではない。いや、彼をいじめる存在はある。しかし、それが原因ではないことはあきらかだ。もっと、違う気分が心の深いところにはある。

 そんな彼が吹奏楽部に入る。別に入りたかった、わけではないことは明らかだ。彼の主義に反する。吹奏楽部はほかのどこよりも早く学校に来て、ほかのどのクラブよりも遅くまで活動する。しかも、彼らの中学の吹部は、県下では有名な関東大会や、全国大会の常連校だ。経験者でもない彼が入って、ついていけるかどうか、わからない。というか、彼はそんなこと、考えてない。すぐにやめてもいい、くらいの勢いだ。同機は、なんとなく。そうとしか言いようがない。

 テンションの低い小説だ。どこまでいっても上がらない。だが、このフラットな感じが、だんだん共感に変わる。生きていくことって、こんな感じ。映画やドラマのような毎日はない。僕らは、そんなかわらない日常の中にある。だが、気付いた時、それはかけがえのないものになっている。そんな瞬間もある。その瞬間のために生きている、気もする。最後の全国大会の本番のシーンが、感動的なのは、そこがクライマックスだからではない。そこすら日常として描くからだ。静かにクライマックスは訪れて、すっと終わる。あぁ、こういうことだったのだ、と気づく。

 これをふつうに映画にしたなら、ただの感動のドラマになるのだろう。だが、鈴木卓爾が手掛ける以上、そうはならない。さっそく、DVDを借りてきて確認しよう、と思った。


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